私たちは、戦前・戦中の教育を「絶対主義天皇制教育」「軍国主義教育」などと特殊なものととらえがちです。しかしながら軍国主義教育とは、最終局面では「天皇のために命を捧げる」ことが美徳とされ、アジア太平洋戦争によって無数の若者の命が奪われていきましたが、けっしてそれが最初から剥き出しの形で現れたわけではなく、国家が学校を作り替え、学校教育を支配し、教科から学校行事、年中行事にいたるあらゆるもの規制し、教職員を統制し、国に都合のいいように子どもたちの心をつくり、教室から自由を奪っていった、そのような日常風景の積み重ねの中から、「戦中の狂気」ともいうべき状態が作り出されたのです。 1937(昭和12)年、「蘆溝橋事件」を発端とした日中戦争が開始されました。翌8月近衛文麿内閣は、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を三目標とする「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、10月から国、地方あげて国民精神総動員運動を展開しました。 また38年4月には「国家総動員法」を制定し、以後この法の下に「国民徴用令」等多数の勅令を公布し、国民生活の隅々まで統制・支配するようになりました。総力戦体制=高度国防国家体制を確立し、大戦への道をひた走ったのです。 総力戦体制に即応するため1937年12月に設置された教育審議会(内閣直属の諮問機関、42年5月まで継続)の「答申」に基づき、1941(昭和16)年4月、太平洋戦争開戦直前、旧来の小学校は国民学校へ再編されました。日本近代公教育史上初めて小学あるいは小学校と称された教育機関は姿を消しました。また勤労青少年のための実業補習学校と青年訓練所を統一した青年学校が新たに設置され、教育審議会の「答申」に基づいて満12歳から19歳までの男子総てがそこに就学することを義務付けられました。 こうした新しい学校制度の創出をはじめとして、その後開戦から敗戦に至るまでの間、さまざまな戦時教育措置が取られ、いわゆる戦時教育体制が確立します。そしてその教育こそ「皇国ノ道ニ則リテ」「国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」(「国民学校令」第1条)ことを目的とし、『国体の本義』(1937年)、『臣民の道』『戦陣訓』(41年)などに示された皇国民像・軍人像に基づき、「天皇に帰一」し身を挺して「国家に奉仕」することを強要するものでした。 これらは、結局は子どもたちを、お国のための死へと導く教育そのものでした。子どもたちを戦車兵へ、飛行兵へ、満蒙開拓青少年義勇軍へと動員するために「教育」は大きな役割を果たしました。こうして送られた少年兵の数が一体どれほどのものであったのか、その正確な数さえ明らかになっていません。満蒙青少年義勇軍の場合その送出数(渡満数)8万6530という数字が残されています(満州開拓史刊行会『満州開拓史』1966年3月)。しかしこの数字さえ厳密なものでなく、ましてその内帰還できた者がどれだけか、死亡した者は、はたまた未帰還者はどれだけかといったことも一切分かっていません。時の政府は国策として推進した事業であるにも関わらず、その数さえ把握していません。そして現在の政府に至るまで明らかにしようとしていません。 彼らの置かれた状況がいかに悲惨で過酷なものであったかは今や体験談や体験記録で知るしかありません。 満蒙義勇軍志願の動機は「教員の指導による」が一番多く、1941年には77%にも達しました。特に長野県では、義勇軍募集が強制的となり「学級から最低2名は送るように」との指示がおり、割り当てを達成できない教員は、「教育者の資格がない」と叱責されたといいます。送出成績のよい校長・教頭が出世コースにのり、そうでないものは左遷させるということまでして、何とか人数を確保しようとしたといいます。「五族協和」の理想郷「王道楽土」の建設のためにとして、教員が「満州に行かぬものは人間ではない」かのように教壇から煽りました。 「私のような高等科担任教師は、昼は学校で生徒に志願するように勧め、夜になって生徒の家庭を回って勧誘したものである」と当時の教員が語っています。その結果、長野県は全国で最も多く義勇軍を送り出し(約7000人)、結果多くの教え子を死へ追いやることになったのです。 この一例にも象徴的に示されるように、教師・国民の良心と抵抗を抑圧して成立した日本の教育は、戦時体制の下で、まさに子どもたちを死地へと追いやる「教育」に収斂していきました。 「教育」の軍国主義化は、修業年限の短縮を手始めに学校教育それ自体を次第に縮小させ、やがてほとんどその機能を失うに至らしめました。 1944年(昭和19)年2月、政府は「原則トシテ中等学校程度以上ノ学生生徒ハ総ベテ今後一箇年常時コレヲ勤労ソノ他非常任務ニモ出動セシメ得ル組織的態勢ニ置」く(「決戦非常措置要綱」)ことを決定し、ついには、「全学徒ヲ食料増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其ノ他直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員ス」るために「国民学校初等科ヲ除キ学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル期間原則トシテ之ヲ停止ス」ること(45年3月、閣議決定「決戦教育措置要綱」)になりました。ここで例外とされている国民学校初等科の児童たちの場合でも、学童疎開がどうしても必要となり、満足がいくような教育活動ができなかったことは言うまでもありません。 5月になると「戦時教育令」と同「施行規則」が公布・施行され、それらによって全国の国民学校から大学までの教職員と生徒たちは学校ごとの「学徒隊」に編成され、教育機関であったはずの学校は機能を喪失し、丸ごとの戦争遂行機関へと姿を変えていきました。こうして戦前日本の教育は死を強制する「教育」へと収斂することによって、内容的にも形式的にも教育は死に果てることとなりました。要するに、天皇制軍国主義教育は、教育そのものを全面的に抹殺することになったのです。いわば「教育の死」です。 [当時の教科書や子どもの日記などが視覚的によくわかる資料です]
満州建設勤労奉仕隊員の生活 −子どもたちが見た満州3−満蒙開拓青少年義勇軍 国民学校教科書 1940年(昭和15年) ある小学生(10歳)の日記 少年飛行兵募集 (奈良県立図書情報館より) 2011年12月28日 シリーズ:「教育基本条例」の危険 (その一)はじめに――大阪の学校教育を破壊する「教育基本条例」 (その二)「教育行政への政治の関与」「民意の反映」とは、“大阪の教育はオレの好きなようにやらせろ”ということ (その三)府立学校長からも批判噴出――10月3日維新の会と府立学校長との意見交換会議事録より (その四)教育をすべて競争にしてしまう (その五)グローバル社会を批判する人々は矯正が必要? (その六)教職員間の信頼関係を根底から崩し、教員をつぶしてしまう (その七)教育基本条例は、"集団的営みとしての教育"を破壊する (その八)教育基本条例が依拠するのは、すでに破綻したサッチャー「教育改革」 (その九)保護者に、学校への協力や家庭教育の義務が課せられる (その十)児童・生徒への「懲戒」条項 (その十一)寸劇「ユーケーリョクのコーシ」(家庭教育義務違反の悲劇) (その十二)橋下語録に見る教育基本条例の危険性 (その十三)学校協議会が、校長・教員の評価、学校評価、教科書選定の権限をもつ強大な権力機関に (その十四)重要なのは教育の質より生徒の頭数??――理不尽な競争に駆り立てられる公立・私立高校 (その十五)たとえ「民意を反映した」政権でも、教育への政治介入は許されない (その十六)軍国主義教育(上)──教職員と教育の統制・支配から「教育の死」へ (その十七)軍国主義教育(下)──教科も行事もあらゆるものが天皇賛美・戦争遂行の道具に |
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