シリーズ:「教育基本条例」の危険(その七)
教育基本条例は、"集団的営みとしての教育"を破壊する
  

 (その六)で、現在超多忙でストレスを抱えている教員に必要なのは、管理・強制や懲罰ではなく、自由にものを考え、教える環境を整えること、学校現場で皆が協力して教育する信頼関係を築くことが重要だと書きましたが、このことは教育理論の面からも主張されています。
 大阪府で、教職員の評価を給与に反映させる「教職員評価育成システム」を巡って争われている「新勤評反対訴訟」(現在最高裁に上告中)で提出された一橋大学大学院社会学研究科准教授中田康彦氏の意見書は、教師も同僚も、子どもや保護者の要求に耳を傾け、協力して教育活動をすることが子どもの学ぶ権利を保障することだと主張します。そして、教育活動における教員の協働性が崩れた場合は、教員の資質向上や子どもが学ぶことに対して致命的な打撃を与えると警告しているのです。
※平成21年(行コ)第15号 自己申告票提出義務不存在確認等請求控訴事件鑑定意見書(新勤評訴訟団)
 http://www7b.biglobe.ne.jp/kinpyo-saiban/index.html
 http://www7b.biglobe.ne.jp/kinpyo-saiban/saiban/index.html
 http://www7b.biglobe.ne.jp/kinpyo-saiban/saiban/kantei090908.pdf

集団的営みとしての教育
 中田氏は、"教育を受ける権利を持つのは子どもであり、その子どもの権利を保障するために、教師と同僚教師、子どもや保護者らの教育要求を組織化できるということが「集団的営みとしての教育」を行う上での重要点"と指摘します。
 ここで注目しなければならないのは、教育は「集団的営みである」という指摘だと思います。集団的営みとしての教育は、教師個人の専門的知識・技量も必要だが、"「課題を共有し、協働で解決する」実践的力量は、現楊での協働の経験によって培われる"と、「協働」の重要性をことさらに強調しているのです。
※鑑定意見書より

第2.専門職たる教員に求められる資質とは何か、その資質を向上させるためにはいかなる方法や手段が妥当か

(1)専門職たる教員の資質とは何か
 教師の職務は主として教科指導、生活指導の領域に分けられる。そのいずれにおいても、内容に関する専門的知識、指導方法に関する専門的知識・技能、教育の対象である子ども理解、といった点で精通していることが求められる。
 また、学習権保障の主体として、学校教育の共同実施者である同僚教師はもとより、子どもや保護者を含むさまざまな教育関係者の教育要求を組織化できることが、集団的営みとしての教育を行ううえで重要である。

(2)学校教育は教員の協働活動で遂行されているが、教員の資質の向上と教育の協働性は関係しているか
 教育は集団的営みであり、さまざまな教育関係者の教育要求を組織化することで達成されるものである。したがって、そこで求められる実践的力量は、現楊での協働の経験によって形成されることになる。教員に求められる資質には、専門的知識・技能のように個人に還元されるものも含まれるが、課題を共有し、協働で解決することによって、よりよい職務の遂行が期待される。
 協働が不可欠である以上、同僚性や協働性を損ねるようなかたちで資質向上が行われるのは、むしろ本末転倒である。

(3)略

(4)教育活動における教員の協働性が崩れた場合は、教員の資質向上や子どもの学習権保障にいかなる影響を及ぼすか。
 協働性が崩れると、さまざまな関係者の教育要求を組織化することが困難になり、適切なかたちでの学習権保障が困難になる。また、教員の資質向上のあり方も個別化されるため、経験が共有されずに研修の効率性が低下するだけでなく、集団的に解決すべき問題への対応するための資質向上が後回しになるおそれがある。

教員の自由、創造性、責任感を損なってはならない
 中田氏の意見書は、子どもと接する教員が子どもの学習権を保障する主体を担っているということを明確にした上で、ILO・ユネスコ「教員の地位に関する勧告」第61項に従い、以下のような職業上の自由を有しているとしています。すなわち、「教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割」「個々の学校や子どもに応じた教育内容と方法を研究する自由」「自らの専門性と研究成果に基づいた教授の自由」。
 裁判は、校長が学校の目標を決め、それに従って個々の教員が自己申告票を出すということの是非が争われているものですが、中田意見書は、直接子どもと接する現場の教員が目標設定に関与できないないのはおかしいとしており、校長さえ飛び越え知事が目標設定するという教育基本条例の不当性を明らかにします。
 つまり、教科書の選定や教材の選択、教育目標の設定など子どもに教育にかかわることを、当の教員を排除して決定するということは認められないとしているのです。
ILO・ユネスコ「教員の地位に関する勧告」
※鑑定意見書より

第1.子どもの学習権保障の主体は誰か、そして、その主体との関係で校長の定める学校教育目標に個々の教員もしくは教員集団は従う義務があるか。

(1)子どもの学習権保障の主体は誰か
 「子どもと直接の人格的接触を通じて学習権を保障する主体として教師が想定されていることは疑う余地がない。」

(2)同学習権保障の主体者には教育に関しいかなる自由や権利が保障されるか

 日本国政府も参加した特別政府間会議で1966年に採択されたILO・ユネスコ「教員の地位に関する勧告」第61項は、学習権保障の主体である教師の職業上の自由として、「専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するための格別の資格を認められたものであるから、承認された教育課程基準の範囲で、教育当局の援助をうけて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割を与えられるべきである」とし、第63項では「一切の視学、あるいは監督制度は、教員がその職業上の任務を果たすのを励まし、援助するように計画されるものでなければならず、教員の自由、創造性、責任感をそこなうようなものであってはならない」と規定している。

 教師が職業上の専門性を発揮し、子どもの個性に応じて弾力的な教育を行うには、不当な支配に服することなく、専門的自律性が発揮される環境が整えられねばならない。そこで、個々の学校や子どもに応じた教育内容と方法を研究する自由と、自らの専門性と研究成果に基づいた教授の自由が、教師の職務に由来する教育の自由として保障されねばならない。

(3)個々の教員は、校長の定める学校教育目標が子どもの学習権を保障するために不要な目標、もしくは、弊害のある目標と判断した場合、その事を理由として自己申告票を提出しないことができるか。

 学校全体の教育目標の設定過程において、学習権保障の主体であり、子どもの教育に直接責任を負っている教師が関与できなかったとすれば、その目標は専門的判断に担保されていないことになる。

 自己申告票の提出に伴い、書類作成を含めた一連の業務が付加されることや、専門的自律性を阻害するような目標申告が事実上要請されることをみれば、単に教員の精神的苦痛というものではなく、子どもの学習権保障に直接責任を負う教師の教育活動を妨げることが懸念される。なぜならば、校長の専決事項というかたちで定められた学校経営方針にしたがった目標設定と自己申告票の提出が求められれば、それは教師および教師集団の専門的自律性に基づく教育活動に対する不当な介入となりうるからである。この点については形式論理ではなく、実質的効果に照らして検討することが求められる。
 教育基本条例は、学校教育のあるべき姿、教員が保障されるべき条件と全く正反対のことをもたらそうとしていると言えます。

2011年10月25日
リブ・イン・ピース☆9+25



シリーズ:「教育基本条例」の危険
(その一)はじめに――大阪の学校教育を破壊する「教育基本条例」
(その二)「教育行政への政治の関与」「民意の反映」とは、“大阪の教育はオレの好きなようにやらせろ”ということ
(その三)府立学校長からも批判噴出――10月3日維新の会と府立学校長との意見交換会議事録より
(その四)教育をすべて競争にしてしまう
(その五)グローバル社会を批判する人々は矯正が必要?
(その六)教職員間の信頼関係を根底から崩し、教員をつぶしてしまう
(その七)教育基本条例は、"集団的営みとしての教育"を破壊する
(その八)教育基本条例が依拠するのは、すでに破綻したサッチャー「教育改革」
(その九)保護者に、学校への協力や家庭教育の義務が課せられる
(その十)児童・生徒への「懲戒」条項
(その十一)寸劇「ユーケーリョクのコーシ」(家庭教育義務違反の悲劇)
(その十二)橋下語録に見る教育基本条例の危険性
(その十三)学校協議会が、校長・教員の評価、学校評価、教科書選定の権限をもつ強大な権力機関に
(その十四)重要なのは教育の質より生徒の頭数??――理不尽な競争に駆り立てられる公立・私立高校
(その十五)たとえ「民意を反映した」政権でも、教育への政治介入は許されない
(その十六)軍国主義教育(上)──教職員と教育の統制・支配から「教育の死」へ
(その十七)軍国主義教育(下)──教科も行事もあらゆるものが天皇賛美・戦争遂行の道具に