シリーズ:「教育基本条例」の危険(その十五)
たとえ「民意を反映した」政権でも、教育への政治介入は許されない
〜読書案内『良心の自由と子どもたち』西原博史(岩波新書)
  

 「大阪府教育基本条例」案では、その前文で、教育に「民意」を反映させることが必要であるとして、教育への政治介入を正当化する主張を展開しています。教育への政治介入が禁じられてきたのは、まずもって、戦前の天皇制専制国家のような政府が、教育を通じて国民を侵略戦争に駆り立てたことへの反省からです。しかし、その場合、戦前の天皇制国家のような「民意」を無視した専制国家による政治介入は禁止されるべきであるが、選挙で多数を取って「民意を反映した」政府なら教育に介入することはむしろ望ましいのではないかと考えることもできるかもしれません。
 こうした考え方について、憲法学者である西原博史さんの著書『良心の自由と子どもたち』で見ていきましょう。

教育の根幹には、ひとりひとりが「自分らしく生きていく権利」がある
 西原博史さんは、「民意を反映した」政府なら教育に介入できるという考えをきっぱりと拒否します。「民主的に決定された国家意志であっても踏み込めない個人の領域」が存在しており、それがまさに、基本的人権なのです。「基本的人権」とは、言い換えると「自分らしく生きていく権利」ということです。「たとえ100人のうち99人が賛成しても一人に対して犠牲を要求してはならない問題」です。この本では、「基本的人権としての思想・良心の自由」を子どもたちに公教育の場で保証することの意義が、様々な実例を挙げながら述べられています。

 国旗国歌法の制定以降、「強制しない」という国会答弁とは裏腹に、全国の学校現場で「君が代」斉唱時に起立しない教職員に対する処分が強化されていきました。この問題は教職員の労働条件の問題だと考えられがちです。しかし、西原さんはそれは親と子どもの問題でもあり、全国民の問題でもあると述べています。
 「身を挺して子どもの良心の自由を守ろうとする教師たちが子どもや親や社会から顧みられなくなり、孤立していった時、子どもたちの良心の自由を育てるための環境は死に絶えることになりかねない。」
 「〈子どもが自分なりに思想・良心を育てていける環境が大切だ〉という意識が人々の間で薄れた時、人々は、権力による組織的なマインドコントロールの前では国民がいかに無力であるかを思い知らされることになるだろう。」

 日本国憲法の究極目的は「個人の尊重」(憲法13条)です。一人一人の人間がかけがえのない大切な存在であり、だれもが幸福を追求する権利があると憲法は定めています。国家による教育への政治介入の否定は、日本国憲法の基本原理からも必然的に出てくるのです。 
憲法って、面白っ! 第2回 日本国憲法の究極目的は?(リブインピースブログ)

一個の対等な人格として子どもに相対することの大切さ
 ところで、子どもに「思想・良心の自由」を保証することは、必ずしも当たり前のこととして認められてはいません。例えば、「まだ未成熟で、自分なりの考え方が固まってもいない段階では、大人たちからさまざまなものを学ぶことこそ必要なのであって、思想・良心の自由に基づいて学校側の提供する教育内容を退けられるような立場にはない」と、子どもには「思想・良心の自由」は制限されるべきだという考え方もあります。
 しかしながら、西原さんは「そもそも、完成した思想・良心を揺るぎない形で持っている人などどこにもいないだろう。自分なりの政治的・道徳的な判断基準は常に未完成であり、明日には変わるかもしれない不安定さを背負い込みながら、成熟していく途上にある。そう考えれば、大人も子どもも思想・良心形成の過程のどこかに立っているに過ぎない」と述べ、発達期に自由に自分なりの内容を持った良心を形成できるかは、良心の自由がその名に値する形でその社会に存在するかどうかの試金石であると強調しています。
 「教師は、知識問題に関しては権威でありながら、正解のない問題については一緒に悩む対等な個人として子どもたちの前に登場することになるだろう。これは、教師としての堕落ではなく、子ども一人ひとりを尊重できる大人として教師が発展していく姿である。」この言葉は、学校の教職員だけでなく、保護者も含めた教育に関わる全ての大人にとって重要な姿勢だと考えます。

2011年11月20日
リブ・イン・ピース☆9+25



シリーズ:「教育基本条例」の危険
(その一)はじめに――大阪の学校教育を破壊する「教育基本条例」
(その二)「教育行政への政治の関与」「民意の反映」とは、“大阪の教育はオレの好きなようにやらせろ”ということ
(その三)府立学校長からも批判噴出――10月3日維新の会と府立学校長との意見交換会議事録より
(その四)教育をすべて競争にしてしまう
(その五)グローバル社会を批判する人々は矯正が必要?
(その六)教職員間の信頼関係を根底から崩し、教員をつぶしてしまう
(その七)教育基本条例は、"集団的営みとしての教育"を破壊する
(その八)教育基本条例が依拠するのは、すでに破綻したサッチャー「教育改革」
(その九)保護者に、学校への協力や家庭教育の義務が課せられる
(その十)児童・生徒への「懲戒」条項
(その十一)寸劇「ユーケーリョクのコーシ」(家庭教育義務違反の悲劇)
(その十二)橋下語録に見る教育基本条例の危険性

(その十三)学校協議会が、校長・教員の評価、学校評価、教科書選定の権限をもつ強大な権力機関に
(その十四)重要なのは教育の質より生徒の頭数??――理不尽な競争に駆り立てられる公立・私立高校
(その十五)たとえ「民意を反映した」政権でも、教育への政治介入は許されない
(その十六)軍国主義教育(上)──教職員と教育の統制・支配から「教育の死」へ
(その十七)軍国主義教育(下)──教科も行事もあらゆるものが天皇賛美・戦争遂行の道具に