[講演録](その三)

教育基本条例は何をもたらすか 〜東京と大阪の教育現場から〜
  
第一部 渡部謙一さん講演(3)

レジュメ『東京から大阪へ〜東京の「教育改革」は何をもたらしたか』(2012,2,26 渡部謙一)(PDF)

校長は教員の味方をするから、教育を全く知らない素人を校長に据える
 第2段階は、レジュメの「4 政治(首長)による教育行政の直接支配へ」のようになっていきます。まず教育委員会を全員がらっと変えます。私が校長の時、横山という総務部長が副知事待遇で教育長に横すべりします。こんなのは初めてです。彼が校長会の最初の挨拶でなんと言ったかというと、本当に驚きました。「私は学校のことも教育のことも一切知りません。ただ行政マンとしてやってきて、税金1円の重みを身にしみて感じています。」と。もうこれには唖然としましたね、。そしてその中で、行政の中で上を目指すのと同じように、「出世をしようとしないような職員を私は信ずることができません」と。これはさすがに校長会が終わってから抗議をした。「知らないだと?」それで撤回したらしいんですが。
 校長を信用しないのは、校長は元々教師だから教師の立場に立つということです。それじゃ変えられないんですね。だから「改革」するためには教育に通じた者じゃ「改革」はできない。全く教育の素人をもってこなければ「改革」はできない。素人だから勝手に机上で「改革」する。
 たとえば、私の最後に勤めた久留米高校というのは、隣の学校と統廃合されました。久留米は残って、東久留米総合高校になるんですけどね。その改革担当者はころころ変わりますよ。1年から2年で変わるんですが。本当にもうまったく教育について(素人)。私がそこに務めた時の担当者ははすごくいい人だったんですよ。若くて誠実なおとなしい人で。最初、私になんと言ったかというと、「先生、私は税務署から来たんです。突然、改革担当になれと課長に呼ばれて来た時、なんで自分がこんな所にやられるなんて全然納得がいかないんだけど、教育についての解説書を3冊渡された。3ヶ月でこれを読んで勉強しろと言われた」と。そういう人をあえてもってくるんですよ。
 だから変えられるんですよ。で、その人は「本当に先生申し訳ないんですけれど、先生の言うとおりです。でも上から言われた通りを私はするしかないんです。」
 そういう形で変えていきますね。教育の論理を排除していく。その「改革」というのは。そういうやり方をするわけです。

職員会議で教師の意見を聞いた校長を処分
 そして、学校運営規則を改定し、さっき言った位階層的な重層化をしていき、学校運営を経営に変えていく。2006年に初めて正式に教育委員会が今までの運営を経営に変えていく。校長会で我々がさんざんお説教されたのは、校長というのは教育者ではないんだと。さんざん言われました。経営者だというんです。教育なんて関係ないんだということを言う。
 しかし、それまでの教育委員会と学校の関係は、当然のことながら、指導・助言の関係ですから教育行政というのは。命令することなんか本来できないわけなんです。今まではそうだったんですが、それを強制と命令に変えていく。それで校長には教育委員会の言うとおりのことをリーダーシップを発揮して校長の権限でもってやらせると、それが校長の権限の強化と言うことですね。で、責任は校長が取ると。教育委員会は一切取らないということなんですね。そういう体制を。これは「校長の権限の強化」で、さんざん言われました。校長権限の一本化といわれましたが、逆ですよ。そういうやり方の中で校長の権限は全て奪われていく。たとえばさっき言いました職員会議の協議禁止。それに併せて三つに限定しているんだから、挙手採決は禁止、職員の意向を確認するような運営をしてはいかん。職員会議の補助機関化ということは。で、どういうことがおこるか、レジュメの(10頁の)3番の破線のAを見てください。その年4人の校長が処分されます。なんでかといえば、1)生徒指導案件で挙手を求められ、結論は私が決めるといって挙手を制止しなかった。2)教科指導案件で判断に迷ったの校長が先生方の意向の確認を校長が求めた。3)生徒指導案件で意見を聞く必要があり校長が挙手を求めた。4)卒業判定案件で判断に資するために、判断に迷った――判断なんてできるわけがないんですよ。校長なんか生徒の事なんて分るわけがないんだから。――だから先生方の意見を求めた。だからこの4人は処分されるんですよ。補助機関化に反して意向を確認するような運営をした。校長の権限において意思において先生方の判断を求めたという校長の権限なんか一切認めないわけです。そういうふうに、校長の権限が奪われていく。

「君が代・日の丸」職務命令−−がんじがらめの卒業式・入学式
 最後にいう「日の丸」「君が代」問題なんか典型です。私が大阪を心配するのは、大阪が、府でも市でも校長に職務命令を出した。職務命令を出しただけだったら問題ないんです。東京だってその前からあったんですよ。しかし、それだけだったらそれは校長の判断ですから、出さない校長がほとんど。立たない教師がいた。いても報告するのは校長の判断だった。私なんか絶対報告しませんから。別に式が妨害されたわけでもなんでもない、何の影響もないんだから、そのことを報告する必要も何にもない。それですんじゃうんですよ。そこが問題なんではない。
 東京の職務命令はそうではない。裁判で2回、私は証言に立ちました。「日の丸」「君が代」最高裁にも要請に行きました。最高裁の判決は単純ですよ。「起立斉唱を命じた職務命令は」という言い方になっていますね。違うって。私が一番に言いたかったのは、卒業式・入学式における校長の職務命令は、単に起立斉唱を命じたんではないんだということですね。全校一律の細部にわたって、もう総括的な職務命令から個別的な職務命令から時系列ですよ。一人一人、朝何時に登校したらこうこうこういうふうにやれと。特に音楽の教師なんか、ピアノ楽譜を変えちゃいかんとか、この楽譜を渡してそのまま弾けとか、そういうことなんです。会場の作り方も平幕の卒業式なんか認めませんよ。壇上ですよ。肢体不自由児学校でさえ生徒を壇上に階段で上がらせるんですよ。そして国旗に正対するように席を設ける。来賓席とか職員席とか、生徒の横に作りますよね。それは駄目。ハスに椅子を並べて国旗に正対する。椅子の後ろにわら半紙を貼ってそこに番号を全部1から振る。校長から。座席表、氏名、それを事前に都教委に提出する。

職務命令に強制力を持たせるための監査。幼児が昼寝しないよう監査?!
 そして都教委から複数が監視に来る。それはさっき言ったように校長を信用しないから。校長は報告しないから。職務命令っていうのは、なぜ強制力を持つか。職務命令そのものが強制力を持っているわけではない。公的には観念的に強制力職務命令に違反したら懲戒処分になる。つまり懲戒処分が強制力を持っているわけです。だから職務命令を出したって、懲戒処分に至らなければいいわけです。
 大阪でそれが出たら、次の段階にはそれを処分に至らせる実効を持たせるために、それを徹底的に点検する。何月何日誰に職務命令を出したのか全部控えているんですよ。それを受け取ったか、どういう反応をしたか、それが最終、裁判の確認の時に必要になる。簡単ですよ、教育委員会ってのは。S先生というのに出しましたね、、卒業式当日、S先生は起立しませんでしたね。卒業式当日、都教委派遣の誰々が確認してます。それが事実に違いありませんか。「その通りです。」それだけでいいんです。思想信条の自由もへったくれもないんです。裁判の中で反論なんかしませんよ。そうしたらそれだけでそれは処分の立件になるわけです。それをしなくちゃならない。職務命令を出すから。そうなる。
 大阪で職務命令を出しても、どんどん条例で何しようと、校長がそれを報告しないというような事態じゃ処分できないわけですから。すると細部にわたって東京のようにされていくわけですね。
 もっと馬鹿馬鹿しい話がありますよ。幼児教育についての条例を作りました、東京都は。そしてその幼児教育のをですね、くだらないことを忠実にやる区長がいてですね。ここに書いてありますが、午睡をやめたんです。午後の睡眠をしてはいけない。活動が鈍るから。そしてそのためにはおやつをやってはいけない。眠くなるから(笑)。そんな…。私が聞いたときにはもう呆れ返りましたよ。
 それどころじゃないんですよ。そういう条例作ってやらせたら、東京では突然の監査が入るんですよ。子どもが眠ってないかどうか。そういうものなんです。教材の内容までそうなってるんですね。PDPAでシステムを作って、そしてそれを点検する。教育内容の統制がそういう形になってくる。

日本国憲法も子どもの権利条約も否定する「教育改革」
 レジュメ4頁の「5 憲法・教育基本法・子どもの権利条約を否定し、特定の価値の教え込みに」。このへんは本当に驚きましたが、都教委は、その基本方針から「日本国憲法及び教育基本法の精神に基づき、また児童の権利に関する条約等の趣旨を尊重して」という言葉をばっさりと取る。こんなのは大阪でもまだやっていないと思います。石原だけだと思いますが、石原は「私は日本国憲法を認めない」と就任時に公言しているわけですが、教育からしてこれです。幼稚園から大学までの全校長が年1回やる教育施策連絡会ってのがあって、石原知事はじめ全教育委員が壇上に立ってお説教するわけです。その時に米長がなんて言ったのか、「東京都教育委員会は東京の教育をがらりと変えたんです。教育委員会の教育基本方針から、教育基本法を否定したんです。それを分ってない校長が居るので困る」ということまで言う。その時一緒に帰った普通の校長が、「あ〜もうこれで東京の教育は終わりですね」としみじみ言いましたが、本当にそこから言う。
 私は大阪の教育基本条例を読んで、一番驚いたのは、最後の48条でした。「この基本条例が最高法規である」と書いてある。まあ石原と同じで、何様だと思ってるんだ。憲法も教育基本法もないわけで、おれが憲法だというふうに言ってるわけですから。そんな独裁者…。その言葉に本当に驚いたんですが、同じですね。憲法・教育基本法・子どもの権利条約を否定していくということに。それはもう教育目標にもありますね。人材育成、人格形成じゃなくて人材育成をしていく。

教員から専門職制を剥奪し、校長から一切のの裁量を取り上げ
 レジュメの5頁の「(2) 授業過程そのものへのPDCAによる目標管理システムの導入)」のところはちょっと読んでおいてほしいんですが…。
ILOユネスコの第4次第5次の勧告でも、前の12月に日本政府および都道府県委員会に委員会に出しましたが、教師の労働条件は本当にひどいと、善処しろと出した勧告があります。ILOやユネスコが言っているのは、教師というのは専門職だと。その専門職性に則った改革ということを言ってます。その専門職性とはILOは「自由、学問的自由、創意工夫、責任」と言っています。自由だから、創意工夫して勝手なことをしろというのではなくて、それについて子ども、親、地域に対して教師は直接的に責任を負うんだということ、それが専門職性であると。すなわち、東京の「教育改革」も大阪も、やろうとしていることは、教師からこの専門職制を剥奪していくことだと思うんですね。
 一言で言うならば、もう本当に行政といえば政治の出先機関にしていると。校長なんかはコンビニの店長に過ぎない。何でもそろっているように見えるけれど、本部から雑誌の並ぶ場所から並び方まで指示されているんです。何の裁量もない。卒業式で私が都教委の細田という…名前なんかどうでもいいんですが…、弁護士とやり合いました。私が、「ないじゃないか、裁量なんか」と言った。一切私には裁量などなかった。するとその弁護士は「いや、そんなことはない」と反論したんです。なんて言ったか。「会場の紅白幕をどうするか、そういうことは校長の裁量じゃないか」と。私はその時カッとして「そんなことは教育活動と関係ないんだ」と言ったんですね。ということは、逆に言えばその程度の裁量しかない。

教育基本条例は異論排除条例。教育現場の民主主義を破壊していくこと
 5頁のレジュメの「6 教育における「民主主義」の破壊ー少数者・異論の徹底排除」。まさに民主主義の破壊なんだと。少数者を徹底的に処分で排除していくということですね。教育基本条例で2番目に驚いたのは、ページ数で数えて3分の2ぐらいが処分のことだということです。あんな条例があるのかと思ったんです。とにかく、少数者排除条例、異論排除条例。民主主義ってのは、日本国憲法というのは異なる意見をそれぞれ尊重していくという精神に基づいているのだと最高裁の判決の中でもうたっているんですが、それを認めない。
 この改革が本当に、大阪が東京のように深化していけばたいへんなことになるわけですが、最後に私が一つ言いたいのは、校長達が全然分ってないということです。なんか「校長の権限で」みたいな、そして校長の職務命令みたいなこととかで、なんか偉くなったように思う校長もいるかもしれませんが、そうじゃなくて、真っ先に矛盾を背負わされるのは校長なんです。そのことをぜひ校長達に。分らせてほしいと思うんですね。そこで共通に闘える、腕を組む基盤がある。それが最初に紹介された、私たちが今130人以上会員で、元校長という形で、現役は動けないから、何とか力になりたいと思ってやっていること。校長の本音はこうなんだ。校長は本音を出せない立場なんだということが一つ言いたいことなんですね。

敵の狙いはあきらめさせること
 最後の6ページの「学校・教職員はどうなったか」で、大阪、東京のことを言いましたが…。この橋下さんもそうだと思いますが、強制して管理服務問題だと言ってるのは。
 ある校長の「管理するとはあきらめさせること」だという名言があるわけですが、そう言っている学者もおりますが、とんでもない話ですね。だんだんそうなってきている。東京なんか、みんなものを言わなくなってきている。あきらめさせることが一つの大きなねらいなんですね。一番効果的じゃないですか。先生方にあきらめてもらえばいい。だとするならば、私たちはあきらめてはいけないんです。声を上げ続ける。教育の言葉を語り続ける。教育の言葉を奪ってきた過程なんだからほんとうに学校の中に教育の言葉をあふれさせ続けることを、今日はしゃべりませんが、私は学校作りの中で、そのことを一番眼中においてやってきました。
 先生方は基本的にまじめです。これだけの中で東京でも大阪でも教育ががらっと悪くなんかなっていないのは、先生達が頑張っているからであって、先生達がまじめだからです。そこに依拠しない教育改革なんてあり得ないわけです。今の教育改革は先生を悪者にしていじめれば教育がよくなるんだろうと思っている。そんなわけないじゃないですか。日々格闘しているのは先生達なんですから。

教育の言葉で、希望や夢を語り続けよう
 今の改革の都教委や石原達の最大の弱点は、「こんなふうに変えれば子ども達はもっと生き生きしますよ。そのために先生達を生き生きとさせれば教育はこんなふうによくなりますよ」という希望や夢は絶対語らない。語れないんですよ。そこに最大の弱点がある。それが私がさっき言った彼らの危機の表れだと思います。だとすれば私たちはあきらめないで、教育の道理を、教育の言葉を学校にあふれさせていくということが大事なんじゃないか。
 もう一つ付け加えると青年問題が大きな問題になっています。新しいタイプの教師の登場と我々みたいな古いタイプの教師は退場、入れ替わりというようになっています。青年教師が最大の矛盾を抱えています。精神疾患で倒れていく青年教師も増えています。同時に、全く逆の青年も教師に出てきた。前を知らないから「こういう競争社会は当たり前じゃないの」というのが増えている。私が最初に話した東京ののほほんとした状況を知らないから、これが当然だと。大阪のこういう状況が当たり前なんだ、東京のああいう状況が当たり前なんだと考える青年教師がやっぱり増えているだろうと思います。そういう意味でも若い教師を援助しながら一緒にやっていくことは大切ではないかと思っています。
 中途半端な話で大変申し訳ないんですが、時間が来たので終わらせていただきます。
(渡部さん講演録おわり。パネルディスカッション録に続く)

(つづく)
2011年3月14日
リブ・イン・ピース☆9+25

教育基本条例は何をもたらすか 〜東京と大阪の教育現場から〜
講演録(その一)
講演録(その二)
講演録(その三)
講演録(その四)
講演録(その五)
講演録(その六)
講演録(その七)