[講演録](その五)

教育基本条例は何をもたらすか 〜東京と大阪の教育現場から〜
  
第二部 パネルディスカッション(2)

■司会:
 ありがとうございました。では次は中学校教員のAさんお願いします。

■Aさん(中学校教員):
様々な家庭環境の子どもたちがいる中でのクラスづくり
 私の勤めている市は、公立中学校は5校、小学校が10校あります。就学援助率が3割を超えています。大阪府の就学援助率が28%なのに対してこの市の平均は34%になっており、大規模校がないのに、全ての学校で事務職員が複数配置されています。この就学援助率は所得がいくら以下と決まっているんですが、それが引き下げられる計画があります。今受けている子どもたちが受けられなくなるというのと、事務職員が減らされるんじゃないかと、懸念しています。さっきもありました学力テストでは、大阪府の平均をはるかに下回っている市です。「学力向上」ということでずっと言われているんですが、組合の女性部など話し合いしている時に、それは学力向上以前の問題で、50分の授業を座って受けられない生徒が3割もいる学年があるとか、そういう話がでました。教室に入らず、校内あるいは学校外で問題行動を起こす生徒を、宿泊を伴う行事に連れて行き、三食しっかり食べさせた時は、何の問題も起こさず、集団行動ができたというような話も聞きました。
 赴任して30数年経ちますが、若い頃からクラスの中心には一番しんどい子を据えてとか、しんどい子に寄り添っていくのが大阪の教育やと聞いてきました。私の赴任地には地区(被差別部落)はありませんので、しんどい子というのが障害を持っている子であったり、暴力的な子であったり、家庭環境が厳しかったり、在日・渡日の子であったりするわけですが、しんどい子がいっぱいで選べないと思った時もありました。いつもそうなんですけど。

競争より協力。成長は助けたり助けられたりする中で得られるもの。
 そうした中で、今年20歳になる学年が中学3年の時、卒業を前にしてクラス代表である評議委員が学年集会でクラスの報告をしたことがありました。そこで「1年間いろいろあったけれど、先生の助けを借りず自分たちで起こった問題を解決してきました」と報告しました。ずいぶん手助けしたつもりだったんですが、その言葉を聞いてなんか嬉しいなと思いました。教育は2万%強制だというハシズムでは、何をしても生徒達の達成感はえられないと思います。強制の中には自分達で問題を解決をするという、そういうような考えも出てこないんじゃないかなと思うんです。
 このクラスも行事の度にだれかが泣き、ケンカし、学校内だけでなく外でも問題が起き、知らずにやったということからパトカーやら消防車がきたりして、生徒指導や学年や保健の先生や色々な先生に助けられてきた生徒達です。でも、「問題が起きないのが良いクラスではない。問題が起きても自分たちで解決できるのが大事だ」という私の言葉に応えて、6月はじめの修学旅行の帰りのバスで、ルール違反が見つかって、それまではカラオケで楽しく帰り道やってたんですが、「カラオケやっている場合じゃない。反省会をしなさい」というと議長が二人出て、一人は風紀委員だった子なんですが、学校に着くまでマイクを回して反省会をしてました、最後の方は反省会というより語る会になっていました。
 文化祭の劇や合唱コンクールでもいろんなことでもめてもめて、話し合いばかりして練習時間が足りなくなるのではと心配するほどやっていました。このクラスでは、この子が提出物を出してませんと担任に連絡が来たとき、「誰々が未提出だけど、このままほっておくの?」と呼びかけると、必ずだれかが助けにきてくれて、一緒にやろうとかいって提出物未提出ゼロにするということもありました。競争する中ではそういうことはあり得ないし、人のことはどうでもいいということになると思うんです。この子達は、協力が大事で、助けたり助けられたりする中で変わって行くんですが、競争より人を助ける方がずっと気持ちいいし、一人よりみんなでやるほうが楽しいし、力につながることを感じられたんだと思います。競争と排除の基本条例は私たちが大切にしてきた取り組みや、生徒の成長を阻害するものでしかないと思います。

生徒は教員の想像や思いを超える
 生徒に教えられることもたんさんあります。昨年転勤してすぐに担任した3年のクラスには、支援学級に在籍する生徒がいました。教室になかなか入らず、4月のクラス写真撮影の時には、下を向いてしまって頭しか写らないような状態でした。2学期の合唱コンクールの時、音楽の授業も音楽室に入らないで廊下で過ごすような状態でしたが、全員で歌わせたいと思い、何とか舞台に立たせたいと、支援学級の先生といっしょに一生懸命説得して、結局当日になったんですが舞台に立つことになりました。歌うのが好きなクラスで、本当に一生懸命練習していましたから、私は、あまり目立たないところにうしろのほうで審査に影響しない程度に立っていたらいいなと思っていたのですが、当日見るとど真ん中の最前列で前を向いて、口を開けて歌ってたんですね。口パクだったか、本当に歌っていたのかはわかりませんが、あとで音楽の先生に聞くと、練習の時もその子の場所をちゃんと空けていたそうで本人がきたら「ここやで」と、さっと入れてくれたそうです。本人も廊下で聴いて覚えていたのかもしれません。生徒はこちらの想像や思いを超えることがよくあります。本当にしんどいことがいっぱいあるんですが、九つしんどいことがあっても、一つこういうことに出会えることで教師を続けられるのかなと思う話でした。

■司会:
 ありがとうございました。では次は高校教員のAさんお願いします。

■Bさん(高校教員):
すでに始まっている予算配分格差
 すごく話しにくくなってしまいました(笑)。いわゆる東京の「教育改革」に絡めて、大阪の今の改悪との関係で言えば、この資料「やっぱり危ない教育基本条例案」という1枚裏表の資料、後で教育基本条例が中身変わりました(今回の新条例案、特に2月提案、これが成案ということになってます)ので、それの関係で少し報告させてもらおうかと思ったんですが、一番後ろ4ページの11番で「新自由主義的教育改革」、それと同じページの右側で9番、知事、府教委、校長、教職員、こういう*マークがあると思うんですけど、校長のところをちょっと見ていただきたいんです。2つ目の*マークのところで、当該目標の実現に向けて、広い裁量を持って学校運営を校長が行うと。各学校の予算は、学校教育計画、各学校の学校教育計画に定めた目標を達成するために必要な経費を要求する。校長が教育委員会に対して、これこれの教育目標に従ってこれこれの内容を実行するので、ついてはこれこれのものを買うためにこれこれの予算を要求すると。こういう形にしなさいと。これが条例の中に書き込まれています。
やっぱりあぶない教育基本条例案

 ただ、実態としてその11番のところを見ていただきたいんですけど、これは今執行されている予算です。この11年度の予算で、エリート育成ということで進学特色校10校に対して、通常の学校経営予算は約2500万ですが、それにプラスして1500万円、1校につき1500万円が付加されています。それ以外に、特にがんばった学校という2校に対して使途を限定しないう形で各1億円ずつ、2億円が支出されています。それ以外に、校長マネジメント予算ということで、1校当たり500万円前後という予算で10〜15校に対して、500万円が支給される。これは校長がこれこれをやりたいので500万円くれというプレゼンをやります。教育長、教育監らの前でプレゼンをやって、「おたく当選、お宅に決まりました」ということになれば500万円が支給される。それ以外は校長マネジメント予算として一律100万円です。100万円学校と500万円学校と1500万円学校と1億円学校がある。

校長は予算獲得競争に駆り立てられる
 これが予算配分で現実にやられてて、それが何をするのかということをすべて教育委員会が確認をして、そもそも作る段階で教育委員会が承認しないような中身、ひいては新しい条例になれば知事が承認しないようなものについては到底エントリーすら問題にならないというような形になり、やりたいことをやろうとすればそもそも一連の流れをクリアしないと、予算すら下りてこない。ということは、1億円追加された学校と2500万しかない学校との間で5倍の格差のついた各学校の予算編成になる。こういう差別が現実に行われてて、この競争の中に全校長が投げ込まれてしまっているということが既に現実として進行しています。
 それに付け加えて、府立学校の学区制の廃止があって、3年連続で定員割れをした学校は有無を言わさず――言葉だけ「再編統合」と変わりましたけれど「廃校」ということについてはこれは譲らないということですから――、確実に廃校にしてやるぞと、こういう流れになってますから、その中でまず自分のところの学校が定員割れをしないために、必死でがんばらなければならない、という状況。そして、1回定員割れを起こせば次の年度に定員割れを起こさせない努力を最大限尽くさなければならないという、そういう状況になります。

予算をとれない校長は保護者らからバッシング?!
 そういう流れの中で、予算も「お宅がんばってないやないか。つけられませんよ」というふうになれば、校長はまず予算をまずは獲得するために必死になってがんばらないと、「校長お宅何してんねん。うちの学校なんでこんだけの予算しか取ってこられないんですか」と、当然保護者は怒ります。教職員も「校長何してまんねん。お宅にがんばってもらわないことにはうちの生徒はとんでもない差別を受けてるじゃないですか」ということになっていくので、条例が成立する前に、既にこういう形で教育委員会、府教委から校長を支配するということが、現実に進行していっているというのがあります。これが条例案によって確定的に、条例の中にそのことが書き込まれてしまうということになるので、有無を言わさず競争体制の中に投げ込まれていってしまうという、そういう形になっているのが現実です。今言った予算については、例えばがんばった学校については、この2012年度は3校3億円に拡大をされてます。そんなような状況で、ますますこの体制を強化していくという形になっている。そういう中で、そこに人事評価が単年度のものとして1年ごとに評価をする。そして、学校評価も単年度、1年毎ですから、1年毎にどこまでやれたのかやれなかったのかということを、学校単位でも、教職員個々人の単位でも、それを強制されるという形になりますから、じっくり落ち着いて、例えば高校3年間ですから、3年間の高校生活を通じて1人の生徒について見ていこうと、この子について3年間みんなで一緒に考えていこうやと、いうふうなことができるか。おそらく今後できなくなっていくだろうと思います。

子どもたちに寄り添った教育ができなくなる
 私個人のことからいっても、私自身が教員として色んなことを経験して、生徒がこういうシグナルを発した時に最初に思ったことと違うということは山ほどある。ほとんど違う。ほとんど違うという反応で、その生徒がどういうシグナルを発しようとしているのかわかるのに、1ヶ月2ヶ月3ヶ月とかかるのはざらのことで、1年たってやっとあの時君が言ってたことはこういうことやったんかとわかります。そんなに明確に話ができないです。自分自身の心も整理ができない中で、ちょこんと横に座ってる。横に座って何もしゃべらない、という子どもに対して、それでもじっと待って話をするまで待っておこうと、いうようなことが、この体制の中で許されるだろうかというふうに考えてしまいます。
 ある1人の生徒が、おそらく母親が自分の目の前で倒れて亡くなったんですけど、倒れて病院で亡くなりましたけども、その子がどうしたか。そのまま病院から学校へ来たんです。で、母が亡くなりました、とこう言って、じっと私の横に座ったままで一切動かない。母が死にましたとだけ言って、こちらも慌てふためくんですけど、どうしてもそのことを受け入れることができず、何が起こったのかも自分には全く分からない。自責の念にずっとさいなまれているという、何もできなかった自分に対して。その子どもが少し回復をするまで、卒業してなお何年間かかかりました。やっと数年かけて次の段階に入っていくと、そんなことは普通のことで、特に多感な時期に色んな経験をした子どもが1つの壁を乗り越えていくのに数年かかるというのは当たり前のことで、そんなことに対応していけるような学校体制というのは絶対必要だと思うんですけど。このめまぐるしい、仕事が次から次から来て、これをやらなければならない、あれをやらなければならない、という状況の中で、その子1人のために、その日はまる1日中一切授業しないで、その子の横に座ってるだけということが、その時は許されました。周りの教員がすぐに察して授業の対応をやったり、色んなことをやってくれましたけども、別の教員たちも自分の仕事に追われて、評価に追われて、中学校に宣伝に行かなければならないとか仕事に追われてる中で、そんなことができるかどうかということは、おそらく東京ではできなくなっていってるんじゃないかと思いますけども、そういうことはできなくなっていくだろう。
 いま、中学校で話されたように、小学校でもそうですけども、家庭に入り込んで1人の子どもについてみんなで考えていくと、いうふうなことができなくなっていくんじゃないかなと思っていますので、非常に今重要なターニングポイントというか、そこを必死で、そこは何とか守らなければならない部分として、教職員はがんばろうとしてるだろうと思いますけれども、このまま行けばがんばりきれない状態になるんではないかと、危惧をしています。

(つづく)
2011年3月17日
リブ・イン・ピース☆9+25

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