シリーズ「尖閣諸島問題」をどう見るか ──歴史的経緯を中心に
(その3)日本は、敗戦で尖閣諸島を放棄しなかったのか

日本政府は、沖縄返還とともに日本に返還されたと主張
 日本政府は、尖閣諸島を「日本固有の領土」と主張する上で、もう一つの論拠を挙げています。それは、サンフランシスコ平和条約(1951年)によって尖閣諸島は琉球諸島とともに米軍の施政下に置かれることになった、沖縄返還協定(1971年)によって、琉球諸島の一部として日本に返還された、というものです。
 サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971年6月17日署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれています。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものです。
尖閣諸島の領有権についての基本見解(外務省)

日本の主張はポツダム宣言・カイロ宣言と日中共同声明に反する
 しかし、このような日本政府の主張は大きな問題を含んでいます。
(1)まず、日本が受諾したはずのポツダム宣言(1945年9月2日調印)に反します。ポツダム宣言第8項は、こう規定しています。
「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州、四国 及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
ポツダム宣言(国立国会図書館)

 この「吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とは、どの島を日本領にするかは中国を含む連合国で決めるということを表しています。このことを日本は降伏時のポツダム宣言受諾で受け入れています。
 日本政府は、サンフランシスコ平和条約を論拠としていますが、サンフランシスコ講和会議は片面単独講和であって、中国(中華民国と中華人民共和国)は会議に招かれず、条約に加わっていません。中国を排除した講和会議で一方的に決めた条約の文言を持って、尖閣諸島を日本領と主張することは、そもそも敗戦を受け入れたポツダム宣言に反した不当なものです。

(2)しかも、サンフランシスコ平和条約の「日本の権利、権原及び請求権の放棄」を規定した第2条にも、「南西諸島や小笠原諸島を合衆国の信託統治に置くことの承認」を規定した第3条にも「尖閣諸島」の文字はなく、勝手に第3条に「尖閣諸島」が含まれているかのように後講釈しているにすぎません。
第二条 (b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
第三条 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。
対日講和条約 日本国との平和条約(中野文庫)
※最近外務省が公開した外交文書から、沖縄返還交渉の際、返還協定に「尖閣諸島」を明示するよう日本側が執拗に求めたのに対して、中国に対する配慮から米国は最後まで明記を認めなかったという経緯が明らかになっている。
 「尖閣も返還対象」明示渋った米 71年の沖縄返還交渉(朝日新聞)

(3)さらに、日中共同声明(1972年)では次のように確認しています。
3 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基く立場を堅持する。
日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(外務省)

 沖縄返還後の72年に、「ポツダム宣言第8項に基く立場を堅持する」ことを確認していることは、本シリーズ(その1)で述べたように、尖閣諸島の帰属については中国の主張を尊重し、日本は領土要求せず棚上げすることをあらためて表明したと考えなければなりません。

(4)また、ポツダム宣言では、上記のように「カイロ宣言の履行」が義務づけられています。カイロ宣言(1943年11月)には、次のように書かれています。
 三大同盟国(英、米、華)の目的は、日本国から、1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島しょを剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が中国から武力又は貪欲で盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある。
カイロ宣言(国立国会図書館)

 本シリーズ(その2)で述べた経過からも分かるように、日本は日清戦争の勝利に乗じて一方的に尖閣諸島を自国領にしました。そのやり方は、カイロ宣言の「満州、台湾及び澎湖島のような日本国が中国から武力又は貪欲で盗取した一切の地域」と述べられている「盗み取った」というにふさわしく、したがって尖閣諸島はカイロ宣言の履行により放棄したと考えるべきなのです。

日本の領有権主張も70年代から
 外務省は「中国が尖閣諸島の領有権を主張し出したのは、石油開発の動きが表面化した1970年代になってからであり、それまでは全く問題にしていなかった」と主張しています。
 なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです。
尖閣諸島の領有権についての基本見解(外務省)

 では、日本はどうでしょうか。沖縄県石垣市が標石を立てたのは、1895年の閣議決定から70年以上もたった1969年5月です。米からの沖縄返還が具体化する中で、沖縄とともに尖閣諸島が日本に返還されるという形を作るために、あわてて立てたのです。「70年代から領有を主張し出した」というのは、日本も同じことなのです。
 いやむしろこの時になって日本が突如領有権を主張し始め、沖縄返還交渉に乗じて尖閣諸島を再び盗み取ろうという動きを示したため、中国も対抗上主張するようになったというのが真実ではないでしょうか。

2011年3月5日
リブ・イン・ピース☆9+25


シリーズ「尖閣諸島問題」をどう見るか ──歴史的経緯を中心に
(はじめに)「領土ナショナリズム」と粘り強く闘おう
(その1)なぜ「尖閣諸島問題」が起きたのか
(その2)日本政府による「尖閣諸島は日本固有の領土」という主張は真実か
(その3)日本は、敗戦で尖閣諸島を放棄しなかったのか
(その4)「棚上げ」合意のもう一つの重大な意味