日本政府は、尖閣諸島を「日本固有の領土」としていますが、その根拠は、外務省のウェブサイトにある「尖閣諸島についての基本見解」(以下「見解」)に書かれています。そこでは、以下の点を挙げています。 (1)尖閣諸島が無人島であり清(当時の中国)の支配が及んでいないことを確認の上、1895年1月14日の閣議決定で日本の領土に編入した(無主地先占)。日清戦争後の下関条約により日本が清から割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には、尖閣諸島は含まれていない。 (2)第2次大戦で敗戦後、1951年のサンフランシスコ平和条約第2条に基づき日本は領土を放棄したが、それに尖閣諸島は含まれない。同条約第3条に基づき米国の施政下に置かれ、1971年6月17日、沖縄返還協定により、沖縄とともに日本に返還された。 (3)中国は、尖閣諸島が同平和条約に基づき米国の施政下に置かれたことに対し異議を唱えなかった。東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化してから尖閣諸島の領有権を主張し始めた。 ※尖閣諸島についての基本見解(外務省) しかし、これらはすべて事実に反する一方的見解です。以下でそれを見ていきます。 (1)1895年の閣議決定について――尖閣諸島は「無主地」ではなかった。清の弱体化に乗じて奪い取った 日本の内務省は、閣議決定の約10年前、沖縄県県令西村捨三に、沖縄県と清との間に散在する、尖閣諸島を含む無人島を調べるよう内命を発しました。しかし、西村は、「これらの島々のことはすでに清も知っており、名前を付け、琉球航海の目標としている可能性がある」と、懸念を表明しました。 これを受けて、内務卿山県有朋は外務卿井上馨に意見を求たところ、井上は「台湾地方の島嶼を日本が占拠する動きに清が注意しているので、不要の紛糾を避けるほうがよい」と意見を述べました。その結果、山県は、「目下見合せる方がよい」と結論を出しました。 ※参考:『尖閣列島・釣魚島問題をどう見るか――試される21世紀に生きるわれわれの英知』(村田忠禧著 隣人新書) すなわち、閣議決定より10年前に、日本政府は、清が尖閣諸島を自国領土と見なしている可能性があること、つまり「無主地」とは言えないことを認識しており、尖閣諸島を公然と日本の領土に編入すると、清との間で紛糾を招くと考えたのです。しかし、編入をあきらめた訳ではなく、「目下見合せ」て、抗議されることなく編入できるように、機会をうかがうことにしたのでした。 その後1894 年に日清戦争を開始し、日本の勝利が確定的となった1895 年1 月14 日になって閣議決定をします。清が敗戦により弱体化した今なら、抗議されることもないと踏んだのです。「火事場泥棒」そのものです。しかも、周辺諸国にその旨を公示もせず、閣議決定の内容を官報にすら掲載せず、標杭も建てず、こっそりと一方的に日本領土としたのです。こういうやり方が示しているのは、当時の日本政府が、尖閣の領土編入が正当な行為ではなく、盗みであることを自覚していた、ということです。 以上から、「無主地先占」により尖閣諸島は日本固有の領土であるとする「見解」は、歴史的事実に全く反します。逆に、侵略戦争の過程で奪ったものであることは明らかです。閣議決定が日清戦争の講和の少し前だったからといって、どうして侵略とは別などと言えるでしょうか。台湾まで放棄せざるを得なかった清が、尖閣諸島のことなどかまっていられなかったのは当たり前です。しかも、こっそりと編入したにもかかわらず、清が異議を唱えなかったなどという理屈は成り立ちません。 (2)サンフランシスコ平和条約について――「見解」はポツダム宣言・カイロ宣言に反する 日本政府は、サンフランシスコ平和条約を論拠としていますが、決定的な問題は、サンフランシスコ講和会議が片面単独講和であって、中国(中華民国と中華人民共和国)は会議に招かれず条約に加わっていない、という事実です。中国を排除した講和会議で一方的に決めた条約の文言に、中国が拘束されないのは当然です。 しかも、同条約の第2条にも第3条にも「尖閣諸島」の文字はなく、第3条に尖閣諸島が含まれるというのは、日本政府の勝手な解釈でしかありません。 ※サンフランシスコ平和条約(1951年9月) 第二条 (b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 第三条 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。 同平和条約をタテとする「見解」の主張には、大きな問題があります。まず、日本が受諾したポツダム宣言に反します。同宣言第8項は、日本の主権を「吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」と規定しています。これは、どの島を日本領にするかは連合国が決めるということを表しています。すなわち、その一員である中国も決定権を持っています。このことを、日本は降伏時のポツダム宣言受諾で受け入れているのです。 ※ポツダム宣言(1945年9月2日調印) 第8項 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州、四国 及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ そして、ポツダム宣言では、上記のように「カイロ宣言の履行」が義務づけられています。尖閣諸島を、日本が日清戦争の勝利に乗じて一方的に自国領にしたのだから、カイロ宣言に言う「中国から武力又は貪欲で盗取した一切の地域」に含まれるはずです。したがって、カイロ宣言の履行により返還しなければなりません。 ※カイロ宣言(1943年11月) 三大同盟国(英、米、華)の目的は、日本国から、1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島しょを剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が中国から武力又は貪欲で盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある。 さらに、日中共同声明では「ポツダム宣言第8項に基く立場を堅持する」ことを、改めて確認しているのです。 ※日中共同声明(1972年9月) 3 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基く立場を堅持する。 以上のように、日本政府が、ポツダム宣言、カイロ宣言に反することを主張し続けているのは、極めて重大な問題です。それは、アジア・太平洋戦争の敗戦によってもたらされた結果に、異を唱えるということであり、再度戦争を起こすことを厭わないということを意味します。 (3)「中国は異議を唱えなかった」について――サンフランシスコ平和条約そのものに異議 前述の通り、中国は51年のサンフランシスコ講和会議に招かれませんでいた。これに対し中国は、中国抜きで作られる条約は無効であると異議を申し立てています。現在日本政府が尖閣領有正当化の根拠としている条約そのものに、この時点で異議を唱えていたのです。また、71年の沖縄返還協定にも、同様に異議を唱えています。 逆に、日本はどうでしょうか。沖縄県石垣市が魚釣島に標石を立てたのは、1895年の閣議決定から70年以上もたった1969年5月のことです。米からの沖縄返還が具体化する中で、沖縄とともに尖閣諸島が日本に返還されるという形を作るために、あわてて立てたのでしょう。「70年代から領有を主張し出した」というのであれば、日本も同じことではないでしょうか。むしろ、この頃に日本が沖縄返還に乗じて尖閣諸島を再び我が物にしようという動きを示したため、中国も対抗上主張するようになったと見ることもできるのです。 「見解」が全く無視していること――侵略戦争と植民地支配の責任 最後に、「見解」のみならず、尖閣諸島についての日本での議論では無視されていますが、決定的に重要な問題があります。尖閣「棚上げ合意」は、日中両政府が「五分五分」で手を打ったというような性格ではありません。中国政府と人民は、その陰で大きな犠牲を払ったのです。 1972年の米ニクソン大統領訪中をきっかけとして、日本は中国と国交交渉を始めましたが、戦争への賠償はしない、すなわち戦争責任を負わないということが大前提でした。これに対し中国側は、「中国は賠償の苦しみを知っているので、この苦しみを日本人民になめさせたくない」(周恩来首相)という考えで、賠償請求を放棄してもよいと考えていました。 しかし、交渉の席で日本側は、1952年に中華民国(台湾)との間に結んだ「日華平和条約」で台湾に賠償を放棄させたことを持ち出し、「戦争状態は終結し、賠償問題は存在しない」と強弁しました。これに対し、周首相は、「蒋介石が(賠償請求を)放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である」と怒りを露わにしたといいます。 結果的に、日中共同声明では、「中日両国国民の友好のため」という名目で賠償請求の放棄を盛り込みましたが、受けて当然の莫大な賠償を放棄した中国にとって、それは苦渋の選択であったに違いありません。にもかかわらず、日本政府は、賠償を免れたことをタテにとって、その後も侵略戦争と植民地支配の責任を否定し続けているのです。 こうした経緯とあわせて考えると、尖閣の「棚上げ合意」を反故にしようとする日本政府の態度がいかに犯罪的であるか、が浮かび上がります。合意と同時に行われた賠償請求放棄が、中国にとっていかに大きな犠牲を払うものだったか。私たちは、このことを忘れてはなりません。日本人としてどう考えるか。ここが問われているのです。尖閣諸島の問題をこれと切り離して、「中国の拡張主義」などとあおることは、侵略戦争と植民地支配の責任を忘れ、中国の人民と政府が日本に示してくれた「友好」の精神に、侮辱で応えることなのです。 2020年12月4日 シリーズ 「新冷戦」に反対する ~中国バッシングに抗して 「はじめに」と記事一覧 関連記事 (No.31)日中の「4項目合意」(14年11月)以降、尖閣周辺は緊張していない (No.21)中国海警法を口実にした海上保安庁の「第二自衛隊化」をやめよ (No.4)「尖閣諸島への中国の脅威」は本当か?(上) |
|