シリーズ 「新冷戦」に反対する ~中国バッシングに抗して
(No.46) 本の紹介「撫順戦犯管理所長の回想」(下)
「撫順の奇蹟」から学ぶ――報復と憎しみではなく寛容と友好を

中国政府の方針はどういったものだったか?
 中国政府は戦犯に対して、一人も死刑にせず、人道主義的な教育によって更生させるという方針をとった。そこには“共産党の目標は 民族に対する報復ではない。軍国主義を滅ぼし、戦争をなくすことである”という基本的な原則があった。中国人民が、戦争と植民地支配での苦しみの経験から、ただ単に戦犯を罰することでなく恒久的な平和を強く望んでいたからであった。戦争犯罪は、個人的なものではなく、歴史的、社会的に生み出されたものである。戦犯を平和を愛する人に生まれ変わらせ、破壊的な要因を平和的な要因に変えることこそが根本的な解決方法である。それは、単なる「人道主義」にとどまらない。新しく生まれた中国が、あらたに日中の友好関係をつくっていくという基本方針があった。
※金さんの言葉として、“1950年当時、日本は米国の占領下にあり、全国民が苦しんでいた。戦争と植民地支配を経験した中国人民は日本国民に同情せずにはいられなかった。中国政府は日中友好と世界平和に寄与したいという信念からこの寛大な措置をとった”という記述もある。だが、当の日本政府は、侵略戦争の反省を忘れ、沖縄占領と米軍駐留継続を認める片面講和を締結し、日本の再軍備によりふたたびアジアの脅威になろうとしていた。

 しかし、管理所の職員にはこのような仕事を経験した人が誰1人いなく、適応には困難を来し、戦犯を教育し更生させることは政治性が強く、複雑で手間のかかる仕事であった。

戦犯としての自覚がない収容者
 それに反し、日本人戦犯たちは自分たちが戦犯であると自覚も反省もなく、「撫順戦犯管理所」の看板の「戦犯」とあることで初めて自分たちが戦犯として移送されたことを知ったという。そのうえ「武士道精神」を堅持し、態度は傲慢で中国人を「東アジアの病人」といって見下し、虚勢をはっていた。
 その中心人物として、日本軍59師団の師団長だった藤田茂の行いが記されていた。藤田は、管理所の所長室に行き「毛沢東に会いたいから、手配してくれ」「お前たちは国際法を踏みにじっている、戦争が終わったら捕虜はすぐに送還すべきだ」などと妄言を吐いたり、「自分たちは天皇陛下の忠良な軍人である、陛下の命を奉じて中国の秩序を維持するために来たのだ、だから戦犯ではない捕虜である、だから即刻送還すべきだ」などである。更に、藤田の主張に呼応して39師団佐々真之助や警視正の鹿毛繁太が監房の中庭で「戦後できたばかりの国にわれわれを拘留する権利はない」「釈放せよ!釈放せよ!」と叫ぶなど、民族の英雄だ、戦犯じゃない、捕虜だと表明したり反抗的態度をとっていた。
 それ故,このような戦犯たちの行動に職員の不満がわき起こる。

高まる管理所職員の不満
 同僚の中には日本軍に一家全員を惨殺された被害者も多くいて、“どうしてあいつ等をのうのうと生かしておくのか!おまけに奴らにたっぷり食わせるとは!一体どうなっているのだ、わけがわからない!”など不満を抱き、心中は穏やかでなく復讐心にもえていた。そして多くの看守たちが続々と退職を願い出た。
 金さん自身も中学で日本軍に強制労働をさせられ、日本帝国主義の過酷な迫害によって一家は故郷を追われ、兄、妹は非業の死を遂げたことを思うと日本人戦犯を憎まずにはいられなかった。毎日彼らの相手をするのは我慢ならなかった。しかし、党中央の決定は必ず無条件で実行しなければいけないと思っていた。そして戦犯たちの蛮行を抑えると同時に職員たちの気持ちも落ち着かせるのに苦労した。

“監獄がまるで学校のように”
 軍国主義思想の批判と人道主義教育を同時に行うというのが基本方針であった。「二度の世界大戦は人類にどのような被害を与えたか?」「なぜ戦争は避けられなかったのか?」「戦争が起きる根本的原因はどこにあるか?」「戦争によってあなたたちは何を得たか?」などを問いかけ、討論と自由な意見交流の場をもうけた。 
 日本軍は天皇や神に対する妄信的な崇拝と自民族に対する傲慢な自尊心と中国人への蔑視、軍国主義的「武士道精神」がある。階級によって分類し、社会的地位、経歴、思想的傾向を分析した。戦犯の60%は貧しい家庭の出身だった。
 戦犯の思想状況に応じて天皇の犯罪を暴き批判した。戦犯個人に批判を向けず、社会制度に向けた。戦犯の思想状況に応じて天皇の犯罪を暴き批判した。日本降伏前、天皇の個人財産は60億米ドルにも達したがその大部分は日本が侵略戦争中に重税を課して人民を搾取したものである。国内的には人民から収奪、対外的には略奪の結果であると説明し、天皇は決して天から降りてきた神ではなく軍国主義集団の代表であることを解き明かした。
 しかし、戦犯たちがマルクス主義を強制的に学習させられ、思想改造されたと言われることがあるが、実際は諸個人の嗜好にあわせた豊かな文化活動が奨励され、音楽 舞踏、演劇、美術、書道、体育等のグループがあった。参加は希望によるものとされた。その中の一つとして、政治理論教育、歴史教育があり、『満州事変-八・一五光復』(日本軍国主義侵略の犯罪記録)、レーニンの『帝国主義論』『社会発展史』などの理論書と歴史的資料を学習した。

罪の自覚・悔い改めの段階と戦犯たちの動揺
 1952年周恩来首相は戦犯教育の新たな段階、日本人戦犯が自ら罪を自覚し進んで悔い改めるよう促すことを指示した。自主的に自白することで自分の犯罪に向き合い、初めて自分の罪を認めることができるという観点から彼らが自覚して自ら変わるように、批判の重点を、抽象的な批判から個人の犯行の告白に導いていった。
「軍国主義は抽象的で実体のないものではありません、之をこしらえた指導者、実施した部下がいた。ではあなたたちはどの部類に属し軍国主義のために何をしたのですか?」学習と自白は全部で2年間続き、その間に80%の戦犯が自分の犯行を自供した。
 しかし、1954年3月初め起訴に向けて正式な取り調べが始まると日本人戦犯たちの情緒は不安定になり多くの戦犯たちが白状をしたことを後悔し始め、少し前に自供したばかりの罪状を絶対に認めようとしないものまで現れた。取り調べを前に自殺を図る戦犯もあった。また、戦争中に部隊を指揮して焼殺、略奪などの重罪を犯したことを思い出すたびに、“中国政府は決して軽い罪では済まさないだろうと、自白してもしなくても最後は死刑になる、ならなにも言わない方がましだ”と考えるものもいた。事実を認めると命がないと考えてウソをついたり、命令だから仕方がなかったなどと自己弁護に終始する者もいた。
 典型的な軍国主義者である「頑固な者」たちは最初から自白を拒否し、教育を拒んだ。「満州国」政府の最高権力者であった国務院総務庁長官の武部六藏は、「私がしたことは総て満州国のためであって、自白すべきことは何もない」と自画自賛し、尋問を拒否をした。

戦犯の信じられない残虐行為、その告白
*戦争犯罪を認めない佐々眞之介 元中将
 1945年3月襄陽城王家営(シャンヤンワンチアイン)村で、部下に農民を見つけ次第捕まえさせ18名の無実の農民を捕らえ、この農民たちの手に針金を通して一列に並べ新兵の刺突訓練(銃剣で刺し殺す訓練)の標的として殺害させた。もがく哀れな農民は全身血まみれになって息絶えた。
 佐々は占領した地域ごとに殺人の手法を変えた。襄燓(シアンファン)市を占領すると30名の住民を針金で縛り付け川に投げ込み溺死させた。部下が強姦することを黙認し多くの女性が被害を受けた。少女であろうが妊婦であろうが相手かまわず捕まえ犯し、最後に銃剣で刺し殺した。

*頑固分子 長嶋勤元少佐
 1942年旧暦8月2日旅団を指揮し莱蕪県の劉白楊(リウバイヤン)村を包囲し、放火して村全体を灰にした。山に隠れていた32名の農民を捕まえ、銃剣で突き刺した。農民を捕まえると兵士に命じて両眼をえぐらせ、残忍に軍刀ではらわたを暴かせた。人間性のかけらもなかった。部下がそんな残忍なことをするはずがないと言い訳をし、部下のせいにした。

*古海忠之元「満州国」総務庁次長
 武部六藏と2人で組んで悪辣な政策や法令を制定、緊迫する軍事費の問題を解決するために「アヘン増産計画」を策定し、自ら上海、南京に赴きアヘンを販売した。1943年東北人民の抗日闘争を鎮圧するために恣意的に失業者や家のない人を逮捕し強制収容所に送りカビの生えたトウモロコシ粉のパンを与えただけで鉱山の地下坑道で12時間労働をさせた。多くの労働者が亡くなり遺体は破れたむしろに包んで万人抗(無数の死体を一ヵ所に埋めた穴)に捨てた。

自白・悔い改めのためのさまざまな取り組み
 自白と悔い改めは困難を極めた。部下のせいにしてなかなか罪を認めない長嶋勤元少佐等に対しては部下の前で自白させる自白大会を行うなど、高級戦犯たちの自白は1年間続いた。実際に彼らがやったことを演劇で演じさせることで、殺された中国人の気持ちが分かるようになった。共産党中央の決定によって社会見学も行われた。長春、ハルビン、武漢、南京などの戦地を巡った。奇跡的に生き延びた人たちの証言を聞き「数百名の戦犯たちは、恥ずかしさのあまり、頭を上げることができなかった」。731部隊で、遺体を焼いた焼却炉や「マルタ」を収容した監獄なども見学した。自分の犯した罪の深さに向き合った。今ではそれらが自動車工場や製鉄所などに姿を変えていた。中国の広大な自然、経済復興、6億の農民の働く姿。中国人を見下していた戦犯たちは衝撃を受け、態度を改めた。
 最後に確定した資料によれば、日本帝国主義が中国を侵略した8年間に合計3000万人以上の中国の軍人及び民間人を殺害した。このうち94万9000人が撫順戦犯管理所に拘禁されている日本人戦犯たちによって殺害されたことが判明した。戦犯たちの犯行を調査、確認のため数百人が全国各地に行き証拠集めをしたとある。
※6章からなるこの本の1章分に「皇帝から一市民へ」と特別な戦犯として元「満州国」皇帝、愛新覚羅溥儀について書かれている。金さんは、チチハルに住んでいた当時、視察に訪れた溥儀に遭遇している。後に囚人として撫順戦犯管理所で会うことになるとは夢にも思わなかっただろう。
 日本の軍閥が手先を探し、溥儀が皇帝になりたがっていることを知って、積極的な謀略により1934年溥儀は、国を売って皇帝となった。しかし、皇帝とは名ばかりの日本の傀儡政権で日本の支配者のいいなりであった。
 日本敗戦後、彼も逮捕され酷寒のシベリアで5年間拘禁され、苦しみと災いに満ちた人生を送った。小さいときから甘やかされてボタンも掛けられず、靴紐も結べす、生活能力が全くなかった。管理所生活で初めて服が着れるように、洗濯ができるようにしたと、溥儀の更生は決して容易でなかったことがうかがえる。動作は緩慢、ドアを開けるのを待ってたり、水は出しっ放しと問題は山ほど。「満州国皇帝」になって溥儀は偏屈で猜疑心が強く,不平不満の多いい人であったとある。溥儀は自伝の中に自分の売国の歴史を曲げ愛国の歴史とし親族も溥儀の犯罪は殆ど書かず、美辞麗句に満ちたものであった。
 生活習慣も特質な人物でかなりの特異な人物であったが、更生し模範的な市民となって、中国の国政に関与したとある。

中国の平和と友好の政策に真剣に向き合うべき
 本の最後に、金さんは「歴史の悲惨な事実は、報復では消すことができない。仇を討つことで、歴史の事実はなくならない。逆に報復すれば、また悲惨な事実を残すことになる。撫順で起きたことは人類の英知が生んだ奇蹟だ」と述べたとある。そして、ヘイトスピーチが横行し非妥協的に相手を責める風潮が高まる今こそ、寛大に許すことで報復の連鎖を断ち切った実践の記録を是非読んでいただきたいと奇縁出版実行委員会のあいさつがある。
※中国共産党と政府が、いついかなるときにも原則的で人道主義的な政策をとってきたというつもりはない。文化大革命では誤った政策によって、商人や日本と関係を持つ人たちが「走資派」としてつるしあげられた。金さん自身も「日本兵戦犯に同情した」という理由で「罪人」となり投獄、下放(農村地方に送り思想教育すること)の辛酸をなめたことも記している。それでも金さんは、撫順で行った政策を人類の英知として誇りをもって語り継いできた。なお中国共産党は、「建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議」(81年)において文化大革命の誤りを認め自己批判している。

 中帰連と「撫順の奇蹟」については、たえず「中国共産党に洗脳された」「中帰連は中国の手先」「中国のプロパガンダ」などという非難が付きまとってきた。
※当時、釈放された戦犯たちが帰国の途についた船上で、日本の記者たちは「本当の話を聞かせてください」「中共の監獄での苦労を話してください」とまとわりついたという。そしてそのような証言を得られないとなるや、「たっぷりうまいものを与えられ、働かずに考えさせられては、誰でも「反省」してしまう」(朝日新聞)などと悪意に満ちた報道をした。侵略の反省や中国への感謝どころか、中国蔑視と中国共産党への偏見に毒されていたのは、政府だけでなくメディアや多くの日本国民も同様だった。

 今では、「撫順の奇蹟」すら忘れられ、過去に中国に与えた甚大な被害や、それにも関わらず中国が戦犯に対してとった寛容な政策を記憶にとどめるどころか、再び中国敵視、中国蔑視をあおっている。だが、私たちが中国との関係を問題にするとき、とりわけ中国に対する戦争責任と戦後処理を問題にするとき、この「撫順の奇蹟」と、72年日中国交正常化において中国が行った国家としての賠償請求の放棄は決して忘れてはならない事だ。
※日中国交正常化交渉の1972年当時、中国は中ソ対立でソ連とも緊張関係にあり、東を日本、南を米国に囲まれ、核戦争の脅威も含め大きな軍事的緊張と危機を抱えていた。その緊張を緩和するために、日中国交正常化に踏み切り、当面の平和的発展の条件を獲得しようとした。72年の日中首脳会談で中国政府は、日本の侵略戦争について国家としての賠償を放棄し、それと引き替える形で経済援助を受け入れた。このとき日本側は共同声明に「いかなる賠償も放棄」と入れることを迫ったのに対して中国側はそれを頑なに拒否し、最終声明文で「いかなる」の文言は削除された。中国には日本軍によって親族を殺され土地や財産を奪われた人々が依然日本への怒りや憎しみを抱いており、外交交渉で国としての賠償は放棄しても、これら被害者諸個人の賠償請求権を放棄することなど論外であった。当時の田中角栄首相が「ご迷惑をかけた」と戦争の被害を他人事のように軽く言ったのに対して、周恩来首相が激怒したとの逸話も残る。 

 撫順戦犯管理所でとられた中国政府の対応は、米国をはじめ日本、EUが中国に対し軍事的、経済的に封じ込めようとして現在も変わっていない。「平和共存の道を探るべき」と繰り返し表明していることに私たちは真剣に向き合うべきだと思う。

2022年9月29日
リブ・イン・ピース☆9+25

シリーズ 「新冷戦」に反対する ~中国バッシングに抗して 「はじめに」と記事一覧

関連記事
(No.45)本の紹介「撫順戦犯管理所長の回想」(上)