シリーズ 「新冷戦」に反対する ~中国バッシングに抗して
(No.45) 本の紹介「撫順戦犯管理所長の回想」(上)
「奇縁」――朝鮮から満州へ流浪の民、人民解放軍入隊、戦犯管理所長へ

 ここで紹介する「撫順戦犯管理所長の回想~こうして報復の連鎖は断たれた~」(金源著 桐書房)は、撫順戦犯管理所での日本人捕虜の処遇ついての、当時の戦犯管理所長の回想録である。日本兵がソ連のシベリアの収容所に捕虜として送られ、強制労働をさせられ満足な食糧も与えられず過酷な状況にあったということはよく知られている。たびたび新聞、テレビのドキュメンタリー、映画等でも取り上げられ、日本の被害体験として語られ続けている。しかし1950年、誕生したばかりの中華人民共和国の撫順(ぶじゅん)に戦犯管理所が置かれ、中国政府が戦犯に対して、時間をかけて罪に向き合い悔い改めさせ、一人も死刑にしないという人道主義的政策がとられていたことはほとんど知られていない。
 1964年までにすべての日本人戦犯が釈放された。生きて日本に帰った戦犯たちは、中国の人々に対する言い尽くせぬ感謝と同時に、自らが犯した罪への悔悟、残忍な戦争への反省、こうした思いの高まりによって「中国帰還者連絡会」(中帰連)を組織し、戦争犯罪を告白する活動や日中友好を働きかける活動を粘り強く行ってきた。日本兵の戦犯としての罪の大きさと、それにもかかわらず中国政府がとった寛大な政策への感謝が「撫順の奇蹟」として語られるようになった。
※2002年会員の高齢化に伴い中帰連は解散したが、若い人たちがその精神と事業を継承する目的で「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」を発足させた。

 この本は、元捕虜、帰還者ではなく、撫順戦犯管理所の所長であった金源(チンユェン)さんの人生を捧げた回想録であり歴史本である。中国で1998年に出版された本「奇縁-ある戦犯管理所長の回想」を一部省略し邦訳し、2020年6月15日に発刊されたものである。
※当事者たちの記録としては「金子さんの戦争―中国戦線の現実」(元陸軍伍長・金子安次さんからの聞き取り 熊谷伸一郎著 リトルモア)、「ある憲兵の記録」(元憲兵土屋芳雄さんからの聞き取り 朝日新聞山形支局著)などがある。テレビの優れたドキュメンタリー作品としてNHKスペシャル 「“戦犯”たちの告白~撫順・太原戦犯管理所1062人の手記」NHKハイビジョン特集「”認罪” ~中国 撫順戦犯管理所の6年~」などがある。
中国帰還者連絡会のホームページ、「国帰還者連絡会の人びと(上、中、下)」なども参照

 1972年の日中国交正常化から50年にあたる今年、安易な中国バッシングを戒め、平和と友好へと舵をきる一助とするため、改めて紹介したい。
 金さんは、韓国慶尚北道出身で、日本の統治下にあった1926年生まれである。日本の植民地下にあった朝鮮半島で生まれた金さんがなぜ日本に侵略されていた中国の撫順戦犯管理所長になったのか?そして撫順戦犯管理所とはどういったものだったのか?中国政府はなぜ戦犯に対して人道主義的政策をとれたのか?日本兵が犯した罪とはどんなものだったのか?など要約して紹介したい。

植民地に生まれ流浪の民となる金さん
 金さんが生まれた村は貧しく食べていくだけで精一杯の村で、80余戸のうち小学校にいけたのは4人だけでその1人であったとある。
※当時、日本は、たくさんの学校を造ったが、それは朝鮮民族のためでなく、経済的略奪と同時に民族精神を奪い取るためのものであった。そのため朝鮮語の使用を禁止し、授業はすべて日本語で、後には朝鮮語の科目も廃止され「皇国臣民」育成教育が推進され、朝鮮式の服装も辞めさせられ、和服を着るよう強制、正月や節句の食文化も禁止された。
 日本が韓国を併合し植民地統治権を確立したのちの1930年から朝鮮を踏み台にして強引に中国を侵略する政策を実行。対中戦争に備えて朝鮮への経済略奪を一段と激化させ、朝鮮を食糧と綿花の供給基地にするため農民の私有地を総督府や日本人経営の会社が強奪。数え切れないほどの人々が、生きるために故郷を離れて流浪の民となった。


 日本の植民地政策のもとで、金さんの家も、土地も家屋も没収され窮地に陥り、食糧も欠く有様で、小学校に上がった年に父親が満州に出稼ぎに出る。そこで父親はお金をだまし取られて顔向けができなくて家にかえれず、借金を返すために行方しれずになる。家族は夜逃げ、父親のいる満州に行くしかない。満州での朝鮮村に住む。
※1932年日本は「満州国」を建国、しかし山岳森林地帯は抗日遊撃隊が活発で、日本は支配を維持するために辺境の山里に火を放ち、村々を焼き払う。民衆の反日感情はますます強まる。
 満州を占領した日本帝国主義は各地で多くの開拓農場を開設し、そこで働けば食糧と種子、肥料を提供するとしたが、農場の借り賃は収穫の60%、その他肥料代を払うといくらも残らない。大勢の中国農民や朝鮮農民をだまして集めひどい搾取をしていた。


 日本人農場は1年間で離れて吉林省に移り住む。その後移り住んだ内蒙古西南屯で60余戸の朝鮮人が汗水流し開墾した水田を、北海道から来た青年開拓団に力尽くで奪われ、追い出された。またもや流浪の民となる。
 故郷を離れ満州の大地をさまよって5年、金さんは13歳。各地を転々としたため学ぶ機会を逸した。しかし、満州に落ち延びてきた朝鮮の有職者たちによって創設された学校で、経済的に困難であったが兄の説得で両親が勉強をさせてくれることになる。1942年太平洋戦争開戦の翌年に瀧江省立チチハル第三国民高等学校商業学校四年制に合格した。
※日本帝国主義は支配している民族が団結することを恐れ、グループ行動厳禁、朝鮮と中国の学生が喧嘩するようにそそのかしたりした。日本の皇民化教育は,小さいときから殴ったり叱りつけることで武士道精神を身につけられると公言していた。授業は少なく、戦況が日本軍に不利になると軍の奉仕隊化して飛行場の建設、道路修理、防空壕掘りなど重労働をさせられる。金さんが、後に囚人として撫順戦犯管理所で会うことになる「満州国」皇帝溥儀を見たのはこのチチハルであった。
 チチハルは軍事要塞で、多くの日本軍部隊が駐屯していた。関東軍第一、第二師団、陸軍第一四、一六師団など。近くのハルビンには七三一細菌部隊、五一六毒ガス部隊などが駐屯していた。太平洋戦争が始まると学校は軍事編成に変わった。

日本敗戦後、中国人民解放軍に入隊志願

 1945年8月8日ソ連が日本に宣戦布告し、チチハルは戦争状態になる。8月14日敗戦前日に召集令状が来て1日半の軍隊生活、8月21日に家族の元に帰る。
 1945年小学校の同級生・鄭英順(チョンヨンスン)と結婚、後に英順も撫順戦犯管理所で仕事をする。
 1946年3月初め、蒋介石率いる中国国民党(国民革命軍)との内戦に備え、毛沢東が率いる中国共産党(人民解放軍)が編成した軍隊組織である東北民主連軍に志願し入隊した。後、チチハルに移駐し対敵工作部に偵察員として配属される。
 1947年12月にチチハル市第三公安分局の偵察股長(こちょう)(係長)に転任、1949年10月中華人民共和国が建設されて、まもなく研修のため藩陽東北公安幹部学校に入学、そこで東北公安部政治保衛処の科長に呼ばれ、撫順戦犯管理所での任務を命じられる。金源さんは日本語が上手だったためらしい。

なぜ撫順管理所に戦犯が送られたのか
 敗戦後、日本人捕虜約60万人がソ連のシベリアに護送された。一般兵士は5年間の労役の後に日本に送還され、残り約3000人が戦犯としてソ連で服役した。
 すなわち、1945年7月26日、中国、英国、米国の三か国によるポツダム宣言署名後、日本人戦犯に対する裁判を実施することが決定された。その後極東国際軍事法廷(東京裁判)が中・米・ソ・英・仏・印・豪・蘭・カナダ・フィリピン・ニュージーランドの11カ国で組織され、3000人のうち2000人がソ連の軍事法廷で判決を受けた(1946年5月3日から1948年11月12日)。そして判決を受けていなかった969人が中国に引き渡されることになったのである。国際法上、中国政府は単独で日本人戦犯を処罰する権利を有し、1950年、この969人を収容することになった。そしてこの969人を収容するために撫順戦犯管理所が新設された。
 管理所は中国政府の方針により人道主義の原則が堅持されており、日本人戦犯には停戦前の身分、階級と同等の生活待遇が与えられ、毎日監房を掃除する以外の仕事はなく、庭も自由に散歩できる厚遇がされていた。
 管理所は戦犯を裁き刑を科すためではない。1949年に誕生した中華人民共和国政府、中国共産党は戦犯に対して、一人も死刑にせず、人道主義的な教育によって更生させるという方針をとった。
※撫順戦犯管理所について
 撫順は、かっては「石炭の都」として大規模な石炭の露天掘りで有名であって、1905年から1945年の40年間、日本帝国主義が石炭を略奪し、中国人の血と汗を最も多く搾り取った場所であった。撫順戦犯管理所の前身についても驚くことに、もともと日本軍が建設した監獄で、抗日人員などを収容し厳しく残虐な拷問を行った場所だった。地理的条件がよく、施設も良好であったため、困難な財政下にあったが多額の資金を投入し改修がされたものであった。各階に暖房、図書館、講堂、病院、浴室が新設された。
 ソ連から移送された969人に加え、太原戦犯管理所からの移送、中国国内や満州で拘束された戦犯、国民党の戦犯ら合計1300人が抑留された。

2022年9月29日
リブ・イン・ピース☆9+25

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