湯浅誠氏の講演を聴いて


 1月9日、「自立生活サポートセンター・もやい」事務局長であり、昨年は「年越し派遣村」の村長を務め、今は内閣府参与になっている、あの湯浅誠氏の講演を聴いた。北河内平和人権センター20周年の記念講演会として、大阪府守口市の守口文化センターで開催された。

 湯浅氏は、格差の問題を「イス取りゲーム」に例える。イス取りゲームでは、必ず座れない人が出る。それを見る場合に2つの見方があると言う。
1つは、座れなかった人に注目する見方。もう1つは、イスの数に注目する見方だ。
 前者の見方は、その人が座れなかった理由をあれこれ分析する。例えば、「音楽をちゃんと聞いてなかったんじゃないか」とか「動作が遅かったんじゃないか」とか。だから、座れなかったのはその人の責任、と考える。これが「自己責任論」。
 しかし、世の中には完璧な人なんていない。ある人について分析すれば、必ず何らかの欠点が見つかる。だから、「自己責任」と言うことは簡単だ。そして、そう言ってしまえば、問題をその人個人に封じ込めることができる。
 これに対して、後者の見方は、「その人が座れなかったのは、そもそもイスが足りないからだ」と考える。実際、座れなかった人の欠点をあれこれ議論しているうちに、イスそのものがもっと減ってしまったのが今の状態、と湯浅氏は語った。

 その湯浅氏でさえ、「自己責任論」を克服することは大変難しい、という。誰しも、幸せは自分の努力の賜物と思いたい。幸せでない人は「努力不足」なのだと。
 日本でこうした考えがいかに根を張っているかを示しているのが、12年連続自殺者3万人以上という現実だ。人口比での自殺率は世界で第8位だという。苦しんでいる本人さえ、その原因が自分にあると思い込み、命を絶つ。
 そして、余裕のない人が増えるほど、「自己責任論」が強まる。苦しんでいる人を助けると、自分の職が奪われたり税金が上がったりと、しわ寄せが自分に来るのではと考えるからだ。
 しかし、湯浅氏に言わせれば、それは逆だ。まともな職に就けず苦しんでいる人を放置すると、その人はどんなひどい条件でも仕事をしようとする。そうなれば、他の人の労働条件もひどくなる、あるいは職を失う。

 困難にぶつかった時、それを乗り切るために助けとなる環境(湯浅氏言うところの「ため」)は、人それぞれ持っているものが異なる。家族や友人の支え、経済的な余裕などは、人によって全然違う。それを本人の責任にしてしまうのは間違っている。
 「ため」の足りない人の「ため」を補うのが、「もやい」であり、「派遣村」であった。湯浅氏は、こういう場はとにかく小さいものでいいから数が必要、「質より量」と言う。

 では、労働組合はそのような場になっているか。
 労働組合は「非正規労働者の組織化」を掲げてはいるが、それが「自ら闘う準備ができている人」への支援にしかなっていないのではないか、と湯浅氏は苦言を呈した(講演会の参加者には、労組関係者が多かった)。刀折れ矢尽きた状態から、声を上げられるところまで一緒に歩むこと。そういう「居場所」を提供することが必要。それは労組が本来の姿に戻ることでもある。

 しかし本来こういう場は、民間や個人ではなく、政府や自治体による「セーフティネット」として提供されなければならない。湯浅氏はそのために内閣府参与になった訳だが、やはり苦労しているようだ。

 官僚は、制度を作って広報すれば役目を果たしたと考える。後は当事者が申し込んでくるのを待つだけ。申し込まないのはその人の責任。これも「自己責任論」。当事者の中に入っていって、積極的に利用を勧めようなどという姿勢は全くないと言う。

 そしてお決まりの縦割り行政。厚生労働省内の部局間の調整、旧厚生省と旧労働省の調整、他省庁との調整、‥‥。とにかく山のような調整に時間が費やされるのだと言う。そしてもっと問題なのは、調整をしている間に元の目的に合わない形に変えられてしまい、当事者にとっては役に立たない制度ができること。この調整の過程に当事者が加わる仕組みがぜひとも必要、ということだった。

リブ・イン・ピース☆9+25ブログより。一部加筆)

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NHK解説委員室ブログ 視点・論点「シリーズ格差・貧困」 湯浅誠(NHK)
 http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/4865.html
 http://blog.livedoor.jp/amaki_fan/archives/51570210.html(動画)