普遍的な“占領”の本質をえぐり出す
紹介:『沈黙を破る――元イスラエル軍将兵が語る“占領”』
(土井敏邦著 岩波書店 2008.5.)

日本の戦争責任とも重なるパレスチナ問題
 2004年6月、「沈黙を破る Breaking The Silence 」という元イスラエル軍将兵の青年たちのグループによって、自分たちが占領地で体験したおぞましいこと、道徳的に許されないと思われることを、自ら撮影した写真で明らかにしようとする写真展が、テルアビブで開催された。このグループは、2000年9月末に始まる第二次インティファーダの中で新たに兵役に就くに至ったイスラエルの若者たちで、その写真展は大きな反響を呼び、およそ7,000人もの人々が訪れた。それは、イスラエル国内の有力紙でも紹介され、イスラエル社会に大きな衝撃を与えた。
 この「沈黙を破る」というグループの代表は、1982年生まれの青年で、2001年3月から2004年まで3年間の兵役に就き、戦闘兵士として、また後には指揮官として任務に就いた元将校である。このグループのメンバーは、同じような体験をし同じような思いをもつにいたった同世代の青年たちである。

 このグループの紹介パンフレットは、自分たちのことを説明しながら、次のように述べている。
 「『沈黙を破る』は、過去4年ほどの間にイスラエル軍に徴兵された元戦闘兵士たちが作り上げたNGOです。占領地での兵役という体験、つまりパレスチナ人住民と対立し、日常レベルでその住民の生活に影響を及ぼすという体験が、個人として、また社会としても私たちを道徳的に崩壊させています。 ....
  (中略)
 占領地で兵役に就くことであらゆる将兵たちが“道徳”を失うという代価を支払っているという現実に、イスラエル国民は気づいてほしいのです。イスラエル国民の名において、しかも若い“伝達者”である将兵たちによって〔占領地で〕行われている行為に国民が向き合い直視し、その責任をとってほしいのです。自分たちの道徳の境界とは何か、そして自分たちの軍をどこまで正当化するつもりなのかを、国民は自らに問わなければなりません。」

 この写真展をきっかけに自らの体験を語り始める元イスラエル軍将兵が数多く現れはじめた。「沈黙を破る」のグループは、積極的に元将兵の証言を集める活動を行い、写真展の後1年ほどの間に約300人の証言をまとめ、証言集として公表した。

 本書『沈黙を破る――元イスラエル軍将兵が語る“占領”』の著者である土井敏邦氏は、この重要な動きをすぐにキャッチし取材を申し入れたが、当初このグループはイスラエル国内のメディアの取材にしか応じないという姿勢をとっていたため、丁重に断られたという。しかし、約1年を経て彼らは方針を変えた。イスラエルのことなのだからイスラエル国内に絞るべきだと思ってやっていたが、これはイスラエルに限った問題ではなく人間としての問題だと気づいたという。
 土井氏は、2005年夏から精力的な取材を行い、さらにそれの翻訳や評価にと、2年半の歳月と多大な労力を費やして本書を完成させた。本書は、パレスチナ問題の最新の最も重要な動向のひとつ、特にイスラエル国内の重大な動向をとらえている極めてすぐれた報告である。

 しかし、本書にはそれだけにはとどまらない重要な意義がある。“占領”ということのもつ普遍的な意味を明らかにすることを通じて、日本の戦争責任、加害責任の問題をとらえなおす重要な視点をも提示しているのである。そしてそれは、単に土井氏がパレスチナ問題からおしひろげ展開したというだけのものではないのである。土井氏は、実は早くから日本の戦争責任、加害責任の問題と格闘し続けてきた。それが本書の「あとがき」で詳しく明かされている。
 土井氏は学生時代に、広島の被爆者富永初子さんと出会い、2002年夏91歳で他界されるまで親密な交流をされていた。その富永さんを通じて韓国人被爆者のことを知り、1982年にはその取材に韓国を訪れた。さらに富永さんが「ナヌムの家」を訪れたいと切望しながらドクター・ストップで訪問を果たせないでいることを知り、1994年に富永さんに代わって「ナヌムの家」を訪れ、それ以降そこのハルモニたち、とりわけ姜徳景(カンドッキョン)ハルモニの生涯を追い続ける取材を行なってきたのである。
 そして、自分が追い続けてきた二つのテーマが、今回ついにしっかり結びついたことが次のように述べられている。「パレスチナ・イスラエル問題と日本の加害歴史の問題。まったく分離した関連のないように見えた私のなかのこの二つのテーマに、初めて明瞭な接点を与えてくれたのが、この『沈黙を破る』の元イスラエル軍将兵たちの証言だった」と。

占領に潜む野蛮な邪悪
 「沈黙を破る」の代表ユダ・シャウールへのインタビューは最も長く、彼自身の体験についてもこのグループのことについても、詳しい内容が語られている。1982年、エルサレム生まれ。「イスラエルの主流派つまり右派の家族の出身」と紹介されている。インタビューの中で本人も「私自身は右派の家庭の出身です」と語っている。2001年3月入隊。占領地、ヨルダン川西岸で兵士として、後には指揮官として過ごした。2004年除隊。

 「除隊が近くなって初めて自分自身の生き方について考え始め、生き方について一般市民の見方や考え方を持ち始めました。そのとき、鏡の前に立っている自分を見ると、頭に“角”が生えているのです。この三年間、自分はモンスター(怪物)だったということに、ハッと気がついたのです。 ...」
 比喩的な表現で語っているが、状況がとてもリアルに伝わってくる。以前とは様変わりの自分の顔つきにギョッとしたであろうということがよくわかる。

 「だんだん過去にさかのぼっていろんな出来事について思い出し始めました。軍に任務していた三年間、そして占領地での二年半、今だったらどう考えても道徳的に正当化できないいろいろな事をやってきたことを思い出したのです。 ...そんなに邪悪なことに自分が関わっていたなんて信じられませんでした。 ...それが占領に潜む野蛮な邪悪です。悪党になるのに慣れきってしまうのです。しかもだんだんそういうことが楽しくさえなってくる。一般市民の生活を支配する“権力”を持っていることが楽しいのです。十八歳やそこらの若者が、自分の祖父母くらいの年齢のパレスチナ人に向かって何でも好き勝手なことを言えるし、何でもできる、その“権力”を楽しむのです。」

 こういう道徳的崩壊に直面して、兵士たちは現実から顔を背ける方策を探し求め、「沈黙」していく。
 「自分の邪悪な行動をやり過ごすためには、やっていることを楽しまなければいけない。自分のやっていることを否定するために、自分のやっていることと正面きって向き合わないように、自分のなかに“沈黙の壁”を築いているようなものです。もし兵役中の一時期でも自分がやっているほんとうのことに気づいてしまったら混乱状態に陥り、いつもやっていた任務が何もできなくなってしまいますから。『沈黙を破る』というグループの名前はそこからきているのです。」

 彼は、自分たちの活動の目的をこう語っている。「イスラエルの社会に、占領地で起こっていることをきちんと直視してもらいたい。私たち自身の社会のためにです。問われなければならない疑問をきちんと問いたいのです。いったい、いつまで占領地でやっていることを正当化し続けるのか、いったい、いつまでこんなことをやり続けるのか、と。」

 彼らは当初、海外の報道機関に語ることは売国奴のようなものだと考えていた。そのため外国からの取材にはいっさい応じなかった。しかし、約1年の活動を経て、「やがてこの問題はイスラエルに限ったことではなく、人間としての普遍的な問題だということに気づいた」ことから、国際的な交流にも積極的になった。
 「私たちは、イスラエルの青年たちのことだけを語っているのではないのです。世界のどこかを占領しているあらゆる軍隊について話をしているのです。」

※ このころの状況については、署名事務局の次のサイト参照。
反占領・平和レポートNO.5(2002/02/19) : 占領それ自身が戦争犯罪である!/シャロン政権を「戦争犯罪と不道徳の政権」として拒否する!/2月9日テルアビブでの大衆集会/占領は我々すべてを殺しつつある!
反占領・平和レポート NO.6 (2002/03/05) : 緊急報告−−シャロン政権の新たな虐殺/身体を張ってイスラエル軍に立ちはだかる緊急行動を開始した女性たち
反占領・平和レポートNO.7 (2002/03/09) : シャロン政権崩壊の危機/インティファーダから民族解放=独立戦争へ
反占領・平和レポートNO.9 (2002/03/25) : 今日まで続く「6日戦争」の第7日−−元司法長官が軍務拒否を支持−−

占領地での退廃した現実の一部になっていった自分
 代表のユダ・シャウールと同じ1982年生まれの元兵士アビハイ・シャロンのインタビューにも、かなりの紙数がついやされている。「宗教に熱心でシオニズムの思想の強い家庭に育った」と紹介されている。2000年7月入隊。特殊部隊に所属し、占領地の各地を移動。2003年11月除隊。

 彼の祖父母はホロコーストの体験者で、彼は自分が「“ホロコースト”生還者の三世」だということを強く意識している。
 「だから自分に召集のときが来ると、『さあ、自分の番が来た』という感じです。私の父も、兄たちもその役割を担う番があった、そして今度は私の番なのです。 ...そこで自分の最善を尽くして、自分の持てるすべてを捧げるつもりでした。」

 彼が所属した特殊部隊は訓練期間が1年2ヵ月と長い。その最中に第二次インティファーダがはじまり、毎晩のように銃撃が行なわれるようになった。やがて、2002年3月の「防御の楯」作戦の少し前から、彼らの部隊はパレスチナ人の村や市街に侵攻するようになった。
 「私たちは行けと命じられれば、どこへでも行きました。 ...そういうなかで、私は占領地での退廃した現実の一部となっていきました。住民の生活のなかに進入し、家を破壊しました。 ...」「...そんなことをしていたら、人間の中で何かが崩れていき、心も退廃していかないわけがない。人間の生命にも、他人の財産にも、住民の家についてもまったく無感覚になってしまうのです。」

 そういう自己崩壊の危機に際して、現実に正面から向き合うことを避けようとする心理がはたらく。「そういう現実に気づくと、自己否定して、自分の殻に閉じこもってしまう。 ...自分が何者で、何をしているのかということにきちんと向かい合えない。 ...だからもう自分のなかに“鍵をかけてしまう”しかないのです。」

 「沈黙を破る」という自分たちのグループ名のポイントである「沈黙」ということについて、彼は、こう語っている。
 「ありとあらゆる言い訳をして、現実に起こっていることとはまったく違う呼び方をするために、すべての“言い訳の言葉”が載った“辞書”を用意しているのです。自分たちが実際やっている“虐待”とか“辱め”をそうは呼ばず、『住民を怖がらせる』とか『銃撃による抑止』といった言い方をするわけです。 ...自分たちが今やっていることを継続するために、違った名前を与える...。それがまさに“沈黙”です。それこそが、私たち自身が生み出している“沈黙”そのものなのです。」

※ 2002年4月にジェニンで大虐殺が行なわれた。当時の状況については、署名事務局の以下のサイトを参照。
反占領・平和レポート NO.12 (2002/04/13) : ジェニンの大虐殺−−数百人の死者と数千人の負傷者。真相究明を!
反占領・平和レポート NO.13 (2002/04/17) : パレスチナ人の法律家たちがジェニン大虐殺を連日調査・報告/イスラエルの「平和のための女性連合」は救援物資を持ってジェニンへ向けて大行進
パレスチナ 反占領・平和レポート NO.19 (2002/06/18) : ジェニン大虐殺を直接遂行した兵士の証言 / −イスラエル軍、そしてイスラエル社会そのものの狂気と頽廃− /「俺は、難民キャンプのど真ん中に、奴らのために競技場をつくってやったんだ。」

占領の高い“道徳的代価”
 「沈黙を破る」の顧問をつとめるラミ・エルハナンは、1949年生まれで、1997年に当時14歳の自分の娘をパレスチナ人の「自爆テロ」で失っている。その後、イスラエル軍に子どもを殺されたパレスチナ人遺族とパレスチナ人に子どもを殺されたイスラエル人遺族の平和運動組織「遺族の会」のメンバーとして、平和運動を続けている。

 彼は、「占領の高い“代価”」ということを強調している。「私が彼らの行動を賞賛する理由は、彼らが占領の高い“代価”にイスラエル人自身が注意を払わざるをえないようにしたからです。それは350万人もの住民を統治・抑圧し、占領して、民主的な権利をまったく与えないことの“代価”です。」

 占領に反対する声が、ついにイスラエル社会のバックボーンであるイスラエル軍将兵たちのあいだから広範に起こり始めた。
 「もちろん、これまでも将兵たちが立ち上がり、声を上げてきました。 ...しかしそれは『岩に穴を穿つ水滴』だったのです。一方で、この国の体制は、占領に反対する声を封じてきました。それでも長い年月を経て、これらの声が徐々に大きくなってきました。今ではその声を無視できなくなっています。」

 彼は、アリエル・シャロンが新党を結成してガザ地区から撤退するにいたった重要な要因に、この「沈黙を破る」の将兵たちの運動とその衝撃の大きさを見ている。
 「アリエル・シャロンがこれまでの政治的な方針と計画を変更し、ガザ地区からの撤退を言い出したのは、主流派である『沈黙を破る』メンバーによる運動や、社会の最高レベルの青年たちである空軍パイロットらによる抗議などの動きによって、シャロンがイスラエル社会の動揺を見てとったからです」と。

 イスラエル・パレスチナ問題の根本的な解決の方向についても、次のように明瞭に語られている。
 「イスラエル・パレスチナ問題の解決には二つの選択肢があります。一つはパレスチナ人が独立国家を持ち、彼らが自由に生きることです。もう一つは、一つの国家にイスラエル人とパレスチナ人が同等の権利と自由を持って生きることです。 ...その両方を拒否して問題の解決はありえません。それは不可能です。」「...もし我われが“占領”というこの異常な状況に終止符を打たないと、我われは生き残ることができないのです。」

※ 2002年7月、ハマスの一人の指導者を殺害するために、イスラエル空軍はガザの住宅街に1トン爆弾を投下し、9人の子どもを含む15人の死者、180人以上の死傷者を出した。その後、イスラエル空軍パイロットからも抗議の声が上がった。
反占領・平和レポート NO.40 (2004/6/18) : シャロンが政権延命の手段として持ち出し弄んだ「ガザ撤収案」
ガザの虐殺−−イスラエル軍がガザの住宅密集地を空爆、子どもや女性ら160人以上を無差別に殺傷する! / イスラエルとアメリカに抗議・糾弾の声を集中しよう!
パレスチナ 反占領・平和レポート NO.21 (2002/07/28) : ガザ虐殺を遂行したF16は一体誰が供与したのか? / −−軍事=侵略国家イスラエルを育成し支え続けるアメリカ
反占領・平和レポート NO.36 (2003/9/27) : ついに起こりはじめた地殻変動、イスラエル軍に激震! / 27名の空軍将兵が占領地での軍務拒否を宣言−−エリート中のエリートたちの反逆−−

戦前と連綿とつながっている現在の日本社会
 本書は次のような構成になっている。

 序章 「沈黙を破る」とは ―― なぜイスラエル軍将兵の証言を日本に伝えるのか
 I 占領地の日常 ――「沈黙を破る」証言集より
 II なぜ「沈黙を破る」のか ―― メンバーの元将兵と家族らへのインタビュー
 III 旧日本軍将兵とイスラエル軍将兵 ―― 精神科医・野田正彰氏の分析から
 あとがき

 上に紹介したのは、「あとがき」を中心とした冒頭部分を除けば、「II」の一部にすぎない。紹介したいと思う内容はまだまだあるが、書き出せばキリがない。ぜひ手にとって本書全体を読むことを推奨したい。

 最後に、日本との関わり、私たち自身との関わりについて触れている重要な箇所を指摘して、本書の紹介を終えたい。「III 旧日本軍将兵とイスラエル軍将兵」の終わりには、次のように述べられている。
 「元イスラエル軍将兵の行動パターンとその深層心理に日本軍将兵のそれを照射することによって、アジアの民衆と日本国民にあれほどの犠牲を強いた大戦を経ても、戦前の文化、社会体質、精神構造を引きずり、戦前と連綿とつながっている現在の日本社会の実態が、いっそう鮮明に浮かび上がってきた」。
 「『沈黙を破る』の元将兵たちをどう受け止めるかによってイスラエル社会の“健全さ”が問われているように、私たち日本の社会は、自らの“加害”の歴史と現実にどう向かい合うかによって、その“健全さ”と民意の“成熟度”が試されているような気がしてならない。ある意味では、『沈黙を破る』の元将兵たちの証言と向き合うことは、私たち日本人自身の“あり方”を問うことでもある。」

2008年10月22日
(H.Y.)