#つなごう改憲反対 連続講座第1回への
沖縄出身学生からのメッセージ

 5月21日に開かれた、#つなごう改憲反対連続講座第1回「何のための9条改憲?」に沖縄出身の学生さんからメッセージが寄せられましたので紹介します。



 2022年5月15日は、土砂降りの雨でした。なんだか、50年前と同じような天気になってしまったようで、変わらない沖縄を象徴するような一日だったのかなと思いました。

 沖縄での祖国復帰運動は、「平和憲法のもとにかえる」ことを第一義においた市民運動でした。「アメリカ世(ゆー)のなかで、例えば米兵が絡む事件・事故に沖縄人が被害にあっても調査もされない、基本的人権も奪われてるというなかで生まれた時代のうねりです。71年、どうやら沖縄には基地が残るらしいと分かった時、わたしの父曰く、みんながチルダイした(打ちひしがれた)そうです。基地を残してはならない、どうか県民の思いを聞いてほしいと当時の屋良朝苗主席をはじめとした琉球政府がまとめたのが「復帰措置に関する建議書」でした。しかし屋良主席が羽田空港に着いた頃、国会では返還協定が強行採決され、ついにこの”幻の建議書”は沖縄返還前に国会で取り上げられることはありませんでした。

 もしこの50年前の「建議書」を読んだことのない方がいましたら、ぜひ、前文の「はじめに」だけでも読んでほしいです(沖縄県公文書館が全文を公開しています)。基地の残ったままの沖縄にしてはならない、どうにか少しでも県民の思いを伝わらないかと、屋良さんがひたむきに書いた様子がひしひしと伝わる文章になっています。この「建議書」の思いを引き継いで、今月玉城デニー知事が「新たな建議書」を岸田総理に渡しました。国会の答弁で「見た」とだけ回答した岸田総理の姿勢に、「沖縄県民に寄り添う」という言葉の空虚さを感じずにはいられません。

 ヤマトゥのウチナーへの無関心は、この国の政府だけでなく、メディアからも感じます。「復帰」に対して沖縄の人がどう複雑な思いを抱いているのか、元山仁士郎さんのハンストや、玉城デニー知事が新たな「建議書」を提出したことなど、ヤマトゥのテレビメディアはほとんど報道しませんでした。こうした無関心の状態が50年の間、どんどん加速していることに焦りを覚えます。

 1953年、「クリスマス・プレゼントだ」と称して奄美大島の返還がなされた際、当時のダレス米国務長官は、「ブルースカイ・ポリシー」を提起しました。「極東に脅威と緊張の状態が存在する限り」米国が引き続き長期的支配の権利を行使するーーつまり、アジアの平和と安全にいかなる脅威もなくなり、空が青くなるまで沖縄は返還されないという立場を鮮明にしたものです。極東の脅威がある、こうした脅威認識の主張は、ここ数ヶ月のメディアの報道の姿勢と重なります。ロシアのウクライナ侵攻を受けて、「台湾有事」や「改憲論」、「核シェアリング」という論調が目につくようになってきました。国防のために米軍基地を手放してはならないとあたりまえのように報道されるようになっています。奇しくも、「復帰50年」という節目に沖縄が再び「軍事の要石」として位置づけられることになろうとは思いもしませんでした。こういう時代だからこそ、平和憲法をもとに「脅威になる兵器を保有しない」「軍縮こそ目指すべきあり方」だとして、軍拡を前提とした議論に歯止めをかけるべきだと感じます。

 改憲反対、憲法九条を守ろう、そう強く思うみなさんと連帯し、この半世紀以上の沖縄県民の悲願である「平和憲法のもとへかえる」ことを、わたしも自らの信念として抱いています。「復帰」の節目に、ぜひ一人でも多くの方に「建議書」の存在を知ってもらいたいと願っています。そして、二度と戦争を起こさない国に向けて連帯の輪を広げていきたいです。 

2022年5月16日