天理・柳本飛行場フィールドワークに参加して

 5月17日(日)、「柳本飛行場フィールドワーク〜朝鮮人強制連行と日本軍「慰安婦」をたどる」(リブ・イン・ピース☆9+25主催)に参加した。
 大阪から何度かの乗換えを経て田舎の無人駅に降り立つと蒸し暑い。晴れ間はのぞいているものの、終わる頃まではもたないなと誰もが思う曇り空だった。今回の案内役である「奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資料を発掘する会」の高野真幸氏が紹介され、30人余りの参加者の下、早速駅前で解説が始まった。資料によれば駅前がかつて「海軍施設部」になっており、まさに降り立った目の前に当時の飯場だった建物が目に入ってきた。少し歩くとすぐ近くに強制連行された朝鮮人の帰国事業の一環として戦後立てられた国語講習所もあった。またこの近くに当時慰安所があったことも同時に紹介された。いまでも住んでいる方がおられるという当時の施設を目の当たりにし、ピクニック気分は吹き飛んでしまった。

 奈良らしく(?)古墳上で昼食を済ませた後、いよいよ防空壕と飛行場の痕跡を巡るフィールドワークが始まった。民家を抜けても田植え前の田んぼと休耕田、ビニールハウスが広がるだけかと思いきや、防空壕が姿を現した。降り出した雨の中、雑草茂る防空壕上に上っただけでなんだかタイムスリップしたような感じになった。いったいこの眼下でどれほどの数の学徒と地元民、そして朝鮮人が河川の付け替えや飛行場の建設に動員されたのかと思うと想像を絶してしまう。



 


(クリックで拡大)
 そしてビニールハウスのイチゴのほのかな香りと雨にはしゃぐアマガエルを横目にあぜ道を進んで飛行場滑走路跡へ。天理市の名で飛行場に関する説明板が目立たぬところに設置してあった。それは戦後50年を機に設置されたものだが、朝鮮人強制連行と慰安所の存在、不戦の誓いと後世に史実を伝えることを明記した素晴らしいものだった。ここでは高野氏の解説も一段と力が入った。それはこの説明板が粘り強い地元での聞き取りや資料発掘の成果であるからに違いない。参加者皆が高野氏の思いを感じ取っていた。

 今は道路になっているが、田んぼとの境界に当時の余りに薄っぺらい滑走路コンクリートの跡を見ることが出来た。また、昼食後に柳本公民館で独自に入手した天理市全図という地図があり、ここには一切飛行場について触れられていない。ところがその地図と頂いた資料の地図を見比べると、その道路の走り方から滑走路の一部が浮かび上がってきた。そこには滑走路の存在というウソのつけない史実があった。
 雨の中駅に戻った頃には相当な距離を歩いていて皆口々に「しんどい」「疲れた」と口にしていた。私も同じだった。しかしこの一帯でわずか65年前に起きていたことに想いを馳せるのには少なすぎる時間だった気がした。
 蛇足だが、早くから天気が悪そうと聞いていて参加しようか迷っていた矢先、熱のこもった雨天決行の知らせを耳にして直前に参加を決めた。現地でいろいろなことに触れてみて、参加して本当によかったと強く思っている。

2009年5月17日 Y



戦争の歴史を掘り起こす、地道で粘り強い活動に頭が下がりました

 あいにくの天気でしたが、予想以上に参加者が多く盛況でした。
 その副作用で説明がよく聞き取れない場合もあったのは残念でしたが、高野真幸さんはじめ「奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資料を発掘する会」の皆さんが、地道に、きめ細かく、丁寧に活動をされてきたのだということが、お話からひしひしと伝わってきました。
 最初に駅近くで説明された、強制連行被害者を含む労働者の住居、戦後の国語学校、「慰安所」のあった場所を巡る話など、様々な方から聞き取った話の紹介からもそれは伺えました。

 一番印象的だったの話は、滑走路の長さについての話です。
 ゼロ戦が離陸するには600mもあればよい。それなのに1500mもの滑走路を造ったのは何故か?
 ここに大本営を作って天皇を連れてくる計画だったことと関係があるだろうとのことでした。

 こうした歴史も、それを発掘しようという人々の意識的な活動がなければ、風化し埋もれてしまいます。
 そうした地道な活動のの成果が結実したのが、飛行場跡の説明板でした。
 あまり目立たない場所に設置された小さな説明板ですが、朝鮮人の強制連行や「慰安所」にまで触れた内容には驚きました。市と市教育委員会が連名で設置したものとしては、異例の内容ではないかと思います。
 しかもそれが、奈良県天理市というかなり保守的であろうと思われる土地に設置されるまでには、高野さんらの相当に粘り強い働きかけがあったことと思われます。行政との交渉などあまりしたことのない身としては、本当に頭が下がるとしか言いようがありません。

 本当は駅前などの目立つ場所に設置したかったが難しかったといいます。
 また、設置されたのが95年で、それ以降右翼の攻撃が強まり、今ではこういう内容のものは設置が難しくなっている、ということでした。参考にするため他の地域から見学に来られる方もあるが、同じ内容のものはなかなか作れないということでした。

 雨の中、心のこもった案内と説明をしてくださった高野さん、そしてこの企画に参加してくださった皆さん、本当にありがとうございました。

リブ・イン・ピース☆9+25 O



天皇による侵略戦争遂行の戦跡――「松代大本営地下壕」、「日吉台地下壕」と並ぶ、
本土決戦に備えた大本営跡=柳本飛行場

 奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資料を発掘する会の高野さん、案内していただき有り難うございました。
 私は、1998年10月に、長野市松代の「松代大本営地下壕」と、2000年に横浜・日吉の慶応大学の地下に作られた海軍司令部の「日吉台地下壕」をフィールドワークしていました。高野さんからいただいた資料に「海軍の司令部を日吉から」という文章を見て、「日吉台地下壕」ではないかと思いました。「日吉台地下壕」は1944年に日本海軍がマリアナ沖とサイパンを陥落し「絶対国防圏」を失い、海上艦隊内の先頭艦上で指揮を執るべきものを、主要な艦隊を撃沈され、本土決戦に備え、連合艦隊司令部を陸上に上げたものでした。この壕は、側面が総コンクリート作りで、現在では機材はもうありませんでしたが、司令長官室、作戦室、通信室・暗号室などがあり、敗戦までの約1年間実際に機能し、戦艦「大和」の出撃命令や特攻作戦の指示を出していました。私が驚いたのは、この司令部の屋上に展望風呂がついていたことです。当時の状況下、よく風呂に入る余裕があったものだと思いました。司令部と天皇が居た皇居の宮中防空室とは有線でつながれていました。地下壕と言っても、全面がコンクリートづくりで、それが今作られたと思えるくらいに新しかったので驚いたことを、覚えています。
 「松代大本営地下壕」は、本土決戦の指揮中枢を入れるシェルターとして、1944年初め頃に計画され、天皇の御座所や政府の主要機関と日本放送協会(NHK)の海外局などの天皇制国家中枢を移転させようとしていました。同年11月11日から始められた大本営の現場作業は、強制連行や日本各地の工事現場から移された朝鮮人労働者や、勤労動員された日本人があたらされました。朝鮮人労働者は7000人以上動員されたとも言われています。堅い岩盤を発破で爆破するなどのやり方で、昼夜二交替の最も過酷な労働でした。工事の犠牲者は明らかにされていません。地下壕は完成せずに、敗戦をむかえました。私は地下壕を掘った途中のむき出しの岩肌を見て、天皇の生き残りのため、どれほど惨いことをしてきたのか、想像をはるかに超えると思いました。
 そして、今回の柳本飛行場は、本土決戦のため、実際に使用し、米軍機とも交戦したと聞き、驚きを越えて、恐怖を感じました。
 「松代大本営地下壕」、「日吉台地下壕」をフィールドワークした時、実際に強制連行された朝鮮人や「慰安所」の痕跡に触れることはできませんでした。しかし、今回、錆びたトタン屋根の住居や、「慰安所」があった場所を見て、天皇の侵略戦争遂行の為に、どれだけ多くの強制連行された朝鮮人が労苦を強いられたかということを想像できました。もっと多くのことを今後とも知りたいと強く思いました。フィールドワークに参加して本当によかったです。有り難うございました。

2009年5月24日  KB



ボロボロなトタン屋根の家と天皇の影響の大きさに驚き

 フィールドワークに参加させてもらい、貴重な体験をすることができました。ありがとうございました。フィールドワークでは、現在も住んでいるというボロボロなトタン屋根の家に驚きと、高野さんのお話を聞く中で、天皇の影響の大きさを感じる事ができました。物資や人手が不足しているだろうのに天皇の手前わざわざ不要なコンクリートありの長い滑走路など非実用的なものを作らせていたのは、天皇が人のための存在ではなく、天皇の強い権威を見せ付け、有無を言わさず人を動かすための存在だったのだと考えさせられました。今残る防空壕を見たり登った事も貴重な体験です。「慰安婦」の存在を隠そうとする日本で資料を集め聞き取りを行なってきた高野さんの長年の重い想いや、慰安所や強制連行について書かれた説明板と接することができ、嬉しかったです。
*「ピクニック」という言葉に、気軽に参加することができました。ありがたかったです。忘れないように、知ることをやめないように、今後も参加していきたいです。


2009.5.19. Y.O.