11月16日 タチソ・フィールドワーク報告
朝鮮人労働者の苦しみを想起して

 11月16日(日)、リブ・イン・ピース☆9+25の主催で、高槻市成合(なりあい)にある戦争遺跡「タチソ」のフィールドワークを開催しました。「タチソ」とは軍事工場等を疎開させようとした高槻の山腹にあるトンネル跡で、多くの朝鮮人が強制連行された場所です。当日は21人もの参加があり、高槻「タチソ」戦跡保存の会の橋本事務局長の案内で険しい山道を歩き、崩れかけのトンネルの中を見学し、当時強制連行された人々の労苦に思いを馳せました。
 当日の様子は、のちほどの参加者の感想文からお読み取りいただくとして、ここではタチソを見学した意義を改めて考えたいと思います。
 今、歴史をわい曲しようという排外主義勢力の攻撃によって、全国にある「強制連行」が次々と消されようとしています。私たちも2009年春にフィールドワークにいった奈良県天理市の柳本飛行場跡の説明板も、撤去されました。同様の攻撃は茨木市など、全国で引き起こされています。
 「強制連行はなかった」という理屈は、「朝鮮半島は当時『日本』であり、法律によって合法的に集めたのだから『強制』ではない」というものです。その論理では、韓国併合も、その支配の下で行われた圧政も、全て「強制ではない」と言い換えられてしまいます。
 私たちは、募集(1939年〜:総督府が割り当て、業者が募集)・官斡旋(1942年〜:閣議決定により朝鮮労務協会が実施)・徴用(1944年〜:国民徴用令の朝鮮半島への適用)という様々な形態の「強制連行」の合法性など、問うていません。日本による植民地支配によって多くの朝鮮人が、日本の侵略戦争と植民地支配のために苦役等に従事させられた、その責任を問うているのです。
 先述の天理市は「強制性については議論があり、説明板を設置しておくと、市の公式見解と誤解される」という理由で説明板を撤去しましたが、その議論の本質は「強制性の有無」ではなく、「植民地支配を反省するか否か」ということなのです。強制連行の有無を問う学術論争など存在しません。
 10年前ならそういう労苦を戦争体験者や在日一世のハラボジ・ハルモニたちから直接伺う機会もあり、絶対に覆すことのできない体験に裏打ちされた歴史的事実というものがありました。今回のタチソ・フィールドワークの事前学習で30年前に製作された映像を観ましたが、当時の事を体験し証言していた人はまだ50歳代後半〜60歳代。この人たちに「強制連行はなかった」などと主張しようものなら「お前に何が分かる!」と怒鳴られ、たちまち反撃されたことでしょう。来年は戦後70年、証言者はほとんどいなくなってしまいました。だからこそ「強制連行はなかった」などという差別発言がまかり通り、教科書からも消されようとしているのです。
 私たちに必要なことは、当時、暴力と劣悪な環境に支配された朝鮮人労働者の苦しみを想起すること、残された戦争遺跡や当時を生きた人の証言などを読み、現実とウソを見分ける力を身につけることではないでしょうか?
 それでは、私たちがフィールドワークでどのように朝鮮人労働者の苦しみを想起したか、参加者からの感想をお読み下さい。(だい)

朽ちてゆく戦争遺跡「タチソ」高槻地下倉庫を訪ねて

 「タチソ」フィールドワークに参加しました。ふだん学習会などにはなかなか顔を出さないけれど、現場を案内していただけるフィールドワークは本当に貴重な体験です。
 現地に行く前の学習会では橋本徹さん(高槻『タチソ』戦跡保存の会)からの概要説明と、1983年に製作された「戦争の傷跡・高槻地下秘密軍事工場」を観ました。
 関西に来て間もない私は、もちろん高槻市にこんな戦跡があるなどとはまったく知りませんでしたが、見学した事をフェースブックにアップしたところ、関西の人たちからも「初めて知った」という声が多く寄せられました。
 この31年前の映画でとても印象に残っているのは、実際に労働させられていた朝鮮人の方々の証言だけではなく、学徒動員された男女学生の方々の証言もしっかりと収められていることでした。
 一番過酷で危険なトンネル掘削作業の中心は3500名ともいわれる朝鮮人だったこと。そのうちの600名ほどは強制的に連れてこられた人々で、飯場は区別されていてお互いが交流できないようになっていたこと。
 戦後、帰国した人もいたが、戻るあてもなくその後バラックに住み続けた人たち。水道もない劣悪な環境や、差別を受けながらも、今では40軒ほどが残っていることなどを聞き、実際の現場へと向かいました。
 案内してもらわなければ決して行けないような場所に、軍事目的の壕として国内最大級のそれはありました。戦後69年、多くの壕が崩壊したり、危険な状態になって立ち入れなくなったそうです。入る事を躊躇(ためら)ってしまいそうな、土砂で埋もれてる入り口を入ると、そこには大きなトンネル空間が広がっていました。懐中電灯で照らしても暗い坑内で目を凝らすと、トロッコを走らせたレールと枕木の跡が残っていました。
 当時はカンテラの灯かりで作業を進め、一酸化中毒にもなりかねない危険なもので、岩面にはいくつもの穴が空けられ、そこにダイナマイトを仕掛けて爆発させ岩を砕いていたそうですが、岩の粉が充満する坑内の作業で肺をやられた人も多かったそうです。
 広いというものの、中央は天井から土砂が崩れてきていて山になっていて、当時の天井よりもだいぶ低くなったそう。
 人力でこれだけ掘れるんだ!と驚くとともに、どれだけ過酷な労働だったかと……暗い坑内に身を置きながら怖さを感じずにはいられませんでした。
 こんなにも貴重な戦争の傷跡を残す場ですが、土地の地権者が分からない所も多い現状では、市が買い取ることも、保存整備なども難しい状況らしく、雨が降るたびトンネル入り口に流れ込む土砂をどうすることも出来ない現状。トンネルが塞がれて入れなくなってしまう日もそう遠くないのでは……と、膝を付き這いつくばってやっとのことで壕に入りながら思いました。
 できれば保存して多くの人に知って欲しい。今、世の中がこんな状況だからこそ、戦争の傷跡をしっかりと目に焼き付けなければいけないと強く思ったフィールドワークでした。 (れいまま)

 「タチソ」とは、陸軍によって計画された高槻地下倉庫(タカツキ・チカ・ソウコ)の略号(暗号)です。陸軍は高槻の山腹にトンネルを掘り、軍事施設を移転させようとしました。
 敗色の濃い1944年秋、近隣の住民や学生も詳細を知らないまま動員されましたが、最も危険なトンネル内の作業には朝鮮人が担わされました。敗戦直後資料は焼かれ残っていませんが、その一部に強制連行された人がいたという証言も残っています。
 1944年の10月には、強制収容された田畑に飯場が建てられ、多くの労働者が集められました。その多くは朝鮮人でした。飯場は板張りで地面から床まで30センチもなく、ムシロが一枚敷かれただけ。家族持ちでは6畳1間、単身者で四畳半に5〜6人。50〜60人が生活していたと言います。1日3交代、時には2交代。24時間態勢の突貫作業でした。落盤や資材運搬中での事故、暴行によるけが人や死亡者が出たとの証言もあります。
 当初は「倉庫」目的だったものが、1945年1月には特攻機の生産工場の移転が計画され、夏頃にはゲリラ戦を想定したと思われる壕も多く掘られました。
 タチソの飯場跡には、タチソで労働を強いられた朝鮮人がそのまま暮らし続けています。住人と土地所有者の間には立ち退き問題が発生し、訴訟も起こされました。水道が設置されたのも遅く、1975年でした。土地の売買によって最終的に解決したのは戦後28年も経った1983年になってのことで、それまでは住居を建て直すこともできずバラック生活を強いられました。
 高槻「タチソ」保存の会は1990年に発足し、高槻市・大阪府に対して何度も保存の要望を行ってきましたが、「自治体単独は不可能(市)」「高槻市が実施すれば協力する(府)」「国の責任(両者)」などといい、保存に向けた真摯な態度は見せていません。保存の会発足から24年経った現在、第2名神高速の工事・開通によってトンネルの崩落は進み、フィールドワークも困難な状況となっています。