田保寿一のジャーナリスト職務歴とイラク取材


3.22イラク戦争開戦6周年 映画&講演会
(リブインピース主催)にて
ジャーナリスト職務歴
1988年 テレビ朝日で派遣社員として働きはじめる。
1990年4月 報道局「ザ・スクープ」に配属される。

1991年3月 湾岸戦争終結直後に特派員としてクウェートに入り取材活動を行う。
戦争時、原油で水鳥が油まみれになった事件が起き、その原油はイラク軍が流したとされたが、現地調査の結果、米軍の製油施設への空爆によるものであることを立証。
1991年8月17日 「水鳥映像の謎」を放送、ギャラクシー賞を受賞。

1992年5月30日 アメリカでそれまでモラトリュームだった死刑が再開されたことから、その背景を取材し「アメリカの死刑」を放送。
9月5日 「アメリカの死刑」の反響が良かったことから「日本の死刑」を取材報道。
12月5日 「日本の死刑2」
2003年4月10日 「死刑再開」のおよそ1年にわたり死刑について取材、4回放送。
この取材記録は1994年「死刑の現在」として太田出版から出版された。

1999年 「ザ・スクープ」から、報道局「スーパーJチャンネル」に番組を変わり、2003年まで、ホームレスについての取材を4年間継続し報道していく。

2000年 ホームレスと平行して取材していた北朝鮮拉致問題取材中、よど号グループの元妻、八尾恵さんと出会い、「有本恵子さんを拉致した。」という証言を得る。
「有本さんの原状回復のためには、この件で逮捕されてもかまわないが、この事実の公表は自分の手でしたい。」という八尾さんの決意を知り、彼女を1年以上かけてインタビュー、書き起こして文芸春秋に持ち込み2002年6月、彼女の著作として「謝罪します」出版。
2002年3月12日 八尾証言を、「スーパーJチャンネル」で放送
八尾さんを取材中、テレビ朝日の上司は、その価値を認めず、業務としてはホームレスを取材することを命じた。しかし、八尾証言を放送し政府が動いたので大スクープとされる。
2002年3月29日 「八尾証言」の取材はテレビ朝日の社長賞を受賞。
しかし、北朝鮮パッシングのような報道が横行したので、このテーマから退く。

2003年以降のイラク取材の理由と経緯
高校生の時に、『世界』などに掲載されたベトナム戦争リポートを読んでいたが、その報道が戦争の残虐さを伝え戦争をやめさせることに貢献したことからジャーナリストを志望。イラク戦争が起きた時、ジャーナリストであれば、この戦争こそ伝えるべきテーマだと考え、取材希望を局の上司に申し出た。しかし、上司から「うちの局は、イラク現地の取材をしないと決めたから、したいなら局を辞めてくれ」と言われる。
2003年9月 テレビ朝日との契約を解除、10月 イラクに入国し取材活動を開始。
2003年11月24日 テレビ朝日の報道局「スーパーJチャンネル」に取材リポートを持ち込み、イラクのスンニ三角地帯とファルージャの反占領運動の特集番組を放送。
2004年7月30日 テレビ朝日報道局「報道ステーション」で、大量破壊兵器疑惑を検証したイラクの核施設・ツワイサのリポート「イラク核施設の真実」を放送。

イラク取材・レジスタンス運動
2003年10月 テレビ朝日との契約切れと同時にイラクに入り、ベトナム戦争をモデルにイラク戦争を考え「米軍は誰と戦うことになるのか」というテーマで取材。
ファルージャを中心にスンナ派のスンニ三角地帯で、米軍襲撃事件が起きていたため襲撃事件の現場に行き取材を始めた。

○ムクタダ・サドル
2003年10月10日、シーア派のムクタダ・サドルが反占領運動を始め、「独自の政府を樹立した」と宣言したので、ナジャフ・サドルシティでムクタダ派の取材を開始。当時、英米のマスコミは、ムクタダ・サドルを、英国から帰国してシーア派を指導しようとしていたアブデルマジド・ホイ師をナジャフで暗殺した黒幕として報道していた。
ムクタダを取材してみると、夜間、100人を超える人々が、彼を訪ねて来て陳情をしている。ムクタダはそれを聞き、問題解決の相談に乗っていた。その様子が、日本の政治家たちがしていることと似ているので驚いた。
11月 ムクタダ・サドルのインタビューに成功したが、そのとき、私は、「日本の自衛隊がイラクに派遣されることをどう思うか?」と質問した。すると彼は「私は外国の政治に口を挟む権限がないので、政治的な意味でそれを良いとか悪いとかは言わない。しかし、もし日本が米国の顔色を窺って派兵するというなら、それは良い事ではないと思う。なぜなら、人は、自分の意思で物事を行うべきであり、誰の命令にも従うべきではないから。」と答えた。彼の言葉を聞き、私は、道理が通っていないのは日本政府で、ムクタダ・サドルの反占領運動は、理のある行為だと思った。
11月に一時帰国、複数のテレビ局で、ムクタダのドキュメントの企画を打診したが、日本のテレビ関係者でムクタダ・サドルのことが理解できる人は誰もいなかった。
そこで、テレビ朝日で、スンニ三角地帯の取材だけを報道して12月に再度イラク入国。
ムクタダ派の背景を取材。ムクタダ第一秘書のムスタフア・ヤクブに、ムクタダとイランとの関係などをインタビューする。
ムクタダ派の正月を見る機会があった。ムクタダ派の信徒たちは、バグダッドの街角にテントをはり、300人ほどが、ご馳走をつくりテントの中で一緒に食べながら、世を徹して一人ずつ信仰告白を行った。彼らは歌うように自分の激しく強い信仰への帰依を語っていた。
2004年2月 一時帰国し、3月にイラク再入国。
4月2日 ムクタダ第一秘書、ムスタファ・ヤクブがホイ師殺害容疑で逮捕され、ムクタダ派が激しい抵抗を開始した。多国籍軍に空爆され血を流して倒れる住民を目撃するなど、米軍と多国籍軍が住民を無差別殺戮している現場を取材。赤ちゃんまで皆殺しになったと訴える住民たちを毎日インタビューした。
4月14日 ナジャフで、検問中のムクタダ派民兵・マフディ軍に一時拘束されることになる。しかし、ムクタダと面識があることを説明して、数時間後に解放された。
4月18日 サドルシティ取材中に車に轢かれて脳挫傷となり帰国した。

○ファルージャとアルカイダ
2003年10月 ファルージャでは、一週間に数回、米軍襲撃事件が起きていた。地元のジャーナリストは、アルカイダ系組織「アンサール・イスラム」が町に来たと言う。米軍は、住民の家を強制捜索、市民を無差別に逮捕、米兵による住民殺害事件も起きていた。
2004年1月、市民による反占領運動組織が生まれたと住民から聞く。
3月、反占領運動をする住民たちが、外国人に対する攻撃を計画していると警告される。
3月31日、米国警備会社・ブラックウオーターの社員が殺害され遺体が橋に吊るされ、その報復として、米軍はファルージャ掃討作戦を開始。
この戦闘中、私は同時に起きたムクタダ派の戦闘を取材したので、ファルージャは取材できなかった。そして、脳挫傷になって帰国後、イラクでは外国人が拉致される危険が増したため入国が困難となった。
2004年11月と2005年1月、イラクで取材中、通訳をしてもらっていたイラク人ジャーナリストに現地の取材を依頼、取材テープを送ってもらい、ファルージャのリポートをテレビ朝日報道局「報道ステーション」で放送。
2006年2月 現地に入らないと、ファルージャで本当は何が起きていたのか、またアルカイダ系の組織とは何か、わからないので、私は比較的安全と言われるイラクのクルド地区に入国。ここでアンサール・イスラムという原理主義組織が生まれた歴史があるので、根拠地だった町に行き、イラクのアルカイダのルーツを調査取材。また、クルド政府に逮捕拘束されているアルカイダ系組織の構成員たちのインタビューを行う。
ムハンマド・アンサール・シャハブと言うイラン系アラブ人は、イラクのアルカイダ幹部だと自称した。帰国して調べると、2002年に、この人物を米国のジャーナリスがインタビューし、開戦直後の2003年3月に、サダム・フセインとアルカイダが繋がっていた証拠として彼の証言を報道。しかし、2003年8月、シャハブを、英国のジャーナリストが再取材、彼の証言は嘘だという記事を書いている。シャハブの私への証言は、以前取材した二人への証言とまったく違う内容だった。そのことから、シャハブの証言の信憑性は極めて低い。シャハブへの取材で明らかになったのは、イラクとアルカイダが連携しているという開戦理由を、嘘の証言で補強したジャーナリストがいたということだった。
シャハブ以外には、アブドラ・アフマンというアンサール・イスラム構成員のクルド人にインタビューを行った。彼は、アンサール・イスラムが、アルカイダ系といわれる組織になるプロセスを詳細に証言したが、それは、根拠地の住民の証言と矛盾がなかった。
アフマンによれば、イラク戦争が勃発し、アンサール・イスラムはイランに逃げたが、2003年夏、彼らはイラクに再入国、反占領運動をしているイラク人組織と合体してアルカイダ系と言われる「アンサール・スンナ」が誕生したという。この組織の別の構成員、また、ザルカウイの組織、「統一と聖戦」の構成員のインタビューも行った。この二人は戦争後、失業したので、傭兵として組織に参加したという。7人の斬首をしたという証言も聞いたが、「アルカイダ」の実態はきわめて曖昧で、謎の組織と言う面ばかりが鮮明になった。

○米兵のレジスタンス
2006年、「アルカイダ」と呼ばれるものの正体がわからないので、米軍の帰還兵たちが、その情報を持ってないかと思いクルド取材と平行して、米国取材を企画、イラク帰還兵たちと連絡をとり始めた。友人を通じて帰還兵と連絡がとれると「米軍はテロリストと、どのように戦ったか?また、テロリストたちに関する情報を上官からどう伝えられていたか?」とメールで訊いた。すると彼らは、「テロリスト」という言葉に抵抗を示し、「テロリストとは言わない。武装勢力と言う言葉は使うけれど」と返信してくる。反戦派のイラク帰還兵たちには「テロリスト」という言葉が政治的で危険な言葉であるという共通認識があるようだ。彼らは取材を受けることを拒否はしないが、誰がどういう経歴で、何を証言するのかがわからない。しかも米国は、非常に広く、複数の帰還兵にインタビューしようとすると、広大な国土を移動するためや宿泊費用が膨大にかかってしまうので、取材はなかなか実現しなかった。
ボストンからワシントンDCまでのピースウオークが行われ、そこに帰還兵のジミー・マッシーが参加するという情報を2007年の年末に聞いた。彼の名前をネットで検索すると、2004年、海兵隊員で初めて、米兵のイラク人無差別殺戮を告発したという情報が出てくる。
2008年1月4日、ジミー・マッシーをピースウオーク中取材しようと考えて渡米。
米国に行き、ジミー・マッシーはピースウオーク参加を止めたことがわかった。そこで彼にメールを送り、取材を申し込み、ワシントンDC到着後、そこからまた南へ約600キロのノースカロライナ州へ向かい、彼の自宅でインタビューした。ジミーの家の近くに住んでいた、帰還兵のジェイソン・ハードも取材をOKし、ジェイソン宅で、マイク・ロビンソンという帰還兵とも出会った。彼らの証言から、米軍の内部から見たイラク戦争が理解できるようになった。そして、取材過程で帰還兵たちがウインターソルジャーと名づけた公聴会を計画していることを知る。
2月に帰国し3月、再渡米。ウインターソルジャーの前日、アダム・コケシュにインタビュー。彼はファルージャ戦に参加したが「アルカイダとは、政府が国民に政策を支持させるための恐怖戦術に使われる亡霊だ。」と断言した。ファルージャの武装勢力の一人は、「自分たちはアルカイダではなく反占領運動をしている愛国者だ」と言った。米軍は、ファルージャ侵攻作戦を、アルカイダ系組織がファルージャにいるという理由で行った。これは、イラク戦争を始める理由が大量破壊兵器だったのと同じようなブッシュ政権の策略だと、帰還兵たちは考えていたのである。米軍は基本的には占領に反対するイラク住民と戦っており、その事実をごまかすためにテロリストの存在を捏造あるいは誇張しているということだ。それは、多くの帰還兵たちには自明で、ウインターソルジャーにおいて、「米兵が、イラク市民を虐殺、虐待している」と、帰還兵たちの口から、繰り返し証言された。
イラク戦争とは何か、未だその本当の姿は見えておらず、さまざまな政治宣伝を人々は信じ込まされている。ウインターソルジャーは、イラク戦争の事実解明が開始された記念すべき公聴会だった。私は、ジャーナリストとして、その検証報道を行いたい。

(この履歴は、田保寿一さんからいただいた資料をそのまま掲載しています。)

2009年3月22日
リブ・イン・ピース☆9+25