洞(ほら)部落フィールドワーク報告

 「貴族あれば賤族(せんぞく)あり」――生まれながらに“尊い”とされる天皇のような特権層がいることで、生まれながらに“卑しい”とされる人々が作り出されているのではないでしょうか。
 民主主義の社会であるはずの日本に厳然として残る差別と身分制度。私たちは「神武天皇陵」のために強制移転させられた洞(ほら)部落を訪ね、それを目の当たりにしてきました。
 2600年以上前から日本という統一国家が存在し、その支配者として天皇が存在したという作り話のために、畝傍(うねび)山のふもとに暮らしていた人々が、“聖域”に被差別部落が隣接しているとののしられた挙げ句、追い出されてしまいました。その差別の理不尽さ、天皇陵において今なお身分差別が残っているおかしさ、そして、厳しい差別の中でもそれに対して抗ってきた人々の営みを知ることができました。
 現在、畝傍山の北東部のふもとから中腹にかけて広がる「洞部落」の跡地は「神武陵」も含めて宮内庁の管轄地とされ、事前に許可を得なければ一般の人が立ち入ることができません。畝傍山の南東部にある橿原神宮方面から何も知らずに迷い込んできた観光客が、見回りの宮内庁の役人に見つかると大目玉を食らったりもします。かつてそこに人の住まいが存在したとことを一般の人の眼から遠ざけようとする宮内庁の姿勢は、何を物語っているのでしょうか?

 2010年2月13日、阪南中央病院労働組合主催の「洞(ほら)部落フィールドワーク」に、リブ・イン・ピース☆9+25も共催で加わり、総勢29人が参加しました。
 奈良県橿原市にある洞部落は、「神武天皇陵」のために、畝傍山のふもとから強制移転させられた被差別部落です。「神武陵」が近代になって作られたのに対して、洞部落の人々はそれ以前から畝傍山に住んでいました。それなのに、「神武陵」を見下ろす地点に被差別部落が存在するのは「恐懼(きょうく)に耐えざる(おそれおおい)こと」であるとして1917年から20年にかけて移転させられてしまったのです。
 この「神武陵」と洞部落の跡地などを部落解放同盟大久保支部の方に案内していただきました。彼女は天皇制に対する怒りを根底に、ユーモラスな口調で部落の歴史を語ってくれました。
 13:00に近鉄の畝傍御陵前駅に集合。さっそくこの駅舎に関する解説から始まりました。中が見えないようになっていますが、貴賓室(きひんしつ)があるというのです。JRの畝傍駅にも貴賓室があり、この狭い地域で2箇所もの駅に貴賓室があるというのはこの地域ならではだということでした。
 駅を出発して「神武陵」に向かいましたが、その途中の家の表札の中には、実際の町名ではない表記の地名を掲げているものもありました。被差別部落と同じ町名となるのを嫌った人による行為でした。そんな細かいところにまでこだわることに、あらためて地域住民の差別意識の深さを感じました。
 さて、「神武陵」に到着しました。「神武陵」が現在の場所だと決められたのは江戸末期でした。それまで3カ所の候補地があり、江戸初期には別の古墳が「神武陵」だとされていましたが、幕末に再論争があり、そこは「綏靖(すいぜい)陵」だということになり、「神武田(じぶでん)」とも呼ばれていた洞部落の一部が「神武陵」だとされました。しかし、洞部落の言い伝えでは、そこは「糞田(ふんでん)」とも呼ばれ、死牛馬の解体をおこなっていた「草場(くさば)」の可能性があるという話でした。動物の屠殺(とさつ)や処理を「賤業(せんぎょう)」と呼んで忌避する差別意識を持つ人々からすれば、「神武陵」がそうした“過去”を持つことは耐え難いことでしょう。宮内庁が洞部落の存在をできる限り人目に触れさせまいとしているのは、こうしたことがあからさまになっては天皇制の権威が失墜すると考えているからかもしれません。
 しかし、案内の方からは、大いに権威が失墜するような話をたくさん聞かせていただきました。
 まず、「神武陵」は参拝者から見ればいかにもうっそうとした森の中にあるように見えるのですが、その森は実はハリボテで、航空写真で見ればわかるのですが、森の部分はわずかで、その先は田んぼなのです。(今は立ち入り禁止で誰も耕していませんが。)
 また「神武陵」への道沿いに杉の木がたくさん植わっていますが、これは1940年のいわゆる「紀元二千六百年」記念行事(神武天皇の即位2600年を祝う)の一環として洞部落の人々が労役にかり出されて植林したものでした。この時の作業の報酬として「金鵄(きんし)」という煙草が2本(2箱ではなく2本!)配布されたそうです。
 「神武陵」を見学した後、私たちは洞部落の跡地へと山の中を登っていきました。
 そこは一見ただの雑木林にしか見えませんが、よく見ると奇妙なところがいくつもあります。そのひとつがシュロの木でした。奈良の山の中にシュロの木が自生するということはありえません。誰かの家の庭先に植えられていたものが大きくなったのです。また、家の跡を根こそぎ取り払った後に植えられたためにしっかりと根付かず、台風で根こそぎ倒れかけたままになっている木がありました。
 200戸以上あったはずの建物の跡はまるでなく、唯一煉瓦で囲いのしてある井戸だけが、ここに村があったことを示していました。その井戸の上の方には神社があったのですが、それは残酷なことに村人自身の手によって取り壊させたということです。
 さらに登っていくと、「神武陵」のもう一つの候補地「丸山」にたどり着きました。そこは六つの石柱で囲まれていました。案内の方の話によると、以前案内したあるグループは、どうやら本気で「神武天皇」の存在を信じているらしく、その「丸山」で君が代を歌い、祝詞をあげだしたというのです。しかも、そのメンバーの一人は有名な漫画家だったというからびっくりです。
 畝傍山の頂上には元々「神功(じんぐう)皇后」を祀った神社があったのですが、女を祀った神社が「神武陵」を見下ろすのはけしからんとしてこれも別の場所に移転させられてしまいました。
 洞部落の跡地を見学した後、私たちは移転先のある「おおくぼまちづくり館」で、展示やDVDを見たり、さらに詳しい話を聞いたりしました。
 ここでは、洞部落の移転が単に強いられたものとしてではなく、部落内のかなりのインテリが政府との交渉に当たって移転をとりまとめ、これを機会に被差別部落の改善を図ろうとした面もあったということが述べられました。以前は被害の面だけが強調されていましたが、単に「かわいそうな部落」というだけでは天皇制と闘えないという案内の方の言葉が印象的でした。

2010年2月28日
リブ・イン・ピース☆9+25



参加者の感想
・この間のフィールドワークは正直衝撃的でした。
 まだあんな差別制度が堂々と残ってること自体びっくりしました。本で読んだり話を聞いたりしたことはありましたが、あの異様な雰囲気は実際にあの場に行かないとわからないな、と思いました。うまく説明出来ないですけどあの場所でしか体感出来ない何かがあるような気がしました。
 あと、あぁいう差別があることを知らずにのほほんと暮らしている自分についても色々と考えさせられました。
・行ってよかった。住民を追い出したのは、いただけないと思った。「おそれ多く」は納得できない。オレならやっつけるなあ。
・許可を取れないと入れない山(強制移転させられた元住居)に入れたのが貴重でした。
・王政復古という(?)国の方針転換によって、慌てて初代天皇の墓を造り、部落民を強制的に立ち退かせてでっち上げた。虚構の日本史が今の日本社会をつくって、一般市民の生活がふり回されていると思い、おかしいなぁと思った。
・山登りが自然とふれあえてよかった。遠出ができて遊び気分でいけて楽しかった。天皇制賛成も反対もできない私には辻本さんの語りが過激だった。
・人数がいたにも関わらず、マイクを使用してくれたり、閑静なところだったので、説明が聞こえやすくてよかった。
・辻本さんの生活の中で身近に目にする被差別部落民への差別や天皇制による妙な空気の話を通じて悔しい思いが伝わってきた。
・日常生活で天皇制についてそんなには意識してこなかったのですが、特に秋篠宮の「民草」については、強烈に印象に残りました。
・天皇制と被差別部落の関係のあまりの理不尽さに衝撃と憤り。洞村を跡形もなく根絶するその徹底性にりつ然とする。この問題にまた地道な運動にとりくみ続けている大久保支部の辻本さんに敬意。
・部落民とは区別するために、行政上存在しないのに地名を使っているのにびっくりしました。存在したかどうかわからない人のための洞部落移転であったにもかかわらず大した反対がなかったのかと思ってたのですが、説明であくまで強制だった(決意を持って受け入れた)こと、交渉や反論があったと聞いて、納得しました。