大阪環状線鶴橋駅の改札口に集合。
40人以上の参加で駅は人で
いっぱいになってました。
高校で朝鮮語と世界史を教えているお二人の先生にご案内いただきました。
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鶴橋国際市場へと |
コリアタウンフィールドワーク
〜身近な韓国朝鮮を楽しもう
鶴橋は大阪市生野区にあり、在日韓国朝鮮人の集住する地域です。日本の近代化の中で、朝鮮半島は日本の植民地とされ、多くの朝鮮半島出身者が日本につれて来られ、戦後も住むようになりました。日本にはこのようなコリアタウンがいくつかありますが、鶴橋は日本最大のコリアタウンです。
今回のフィールドワークでは、チマチョゴリなどの衣類やキムチをはじめとした韓国の食材を売る店が所狭しと軒を連ねる国際市場で、まず身近な朝鮮半島を味わいます。そして、「つるのはしの石碑」や御幸森神社などで古代日本と朝鮮半島の歴史について学んだあと、戦前朝鮮半島から渡ってきた多くの人々によってつくられた平野川までを散策します。最後に活気あふれるコリアタウンで"韓流"ブームがつづく現在の日本と韓国の新しい関係を感じたいと思います。(案内文より) |
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敗戦直後の混乱期に大阪最大の闇市がつくられ、戦後の在日朝鮮の人々の生活を支える大切な場所となりました。その後鶴橋に居住した人々によっていまの国際市場が形成されました。1957年当時市内商店街でも少なかった巨大アーケードの下には、生鮮食品店や乾物など日本の食料品はもちろんのこと韓国食材・衣料品など専門店が約1500軒がひしめきあっています。 |
アーケードは当時のまま |
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アーケードに世界の国旗が飾られてました。
国際市場の名の如く…
アーケードを抜け弥栄神社へ
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祭神は渡来人の象徴とされるスサノオ命で、もとは牛頭天王社と呼ばれていたが、1892年に仁徳天皇を合祀して現在の名前に改まったと言われています。
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疎開道路を通って御幸森神社へ |
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太平洋戦争末期の1944年に建物を“疎開”させて道路を拡張したことから呼ばれています。 |
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御幸森神社に難波宮を開いた仁徳天皇がこの地に渡来してきた百済の人々と先進技術を借り受けるべく何度も訪れたそうです。 |
遙拝所の横に仁徳天皇が座ったとされる石がまつられていました。 |
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旧街道を通って安泉寺へ↓ |
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安泉寺…猪飼野の氏寺と言われているそうで、ここの住職は代々“飼甘”=いかい姓を名乗って、古代の猪飼野の歴史を残れされてるそうです。
このお寺は閉まってる事が多いそうですが、この日は通りからお寺の庭まで見えました。ラッキーでした〜。 |
安泉寺から つるのはし碑へと |
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「つるのはし」は日本最古の橋として名高い「猪甘津の橋」の古跡とされています。
「つるのはし」の由来は昔このあたりに鶴が多く群れてたこと、もう一説には“津の橋”から訛ったものと言われています。 |
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コリアタウンへ
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御幸通商店街は、旧猪飼野(今の桃谷付近、在日コリアンの集住度がもっとも高いと言われている)のほぼ真ん中に位置しているが、戦前の御幸通商店街で店を構えていたのはすべて日本人だった。この地域に住む朝鮮人の市場は、御幸通商店街の中央部にある南北の細い路地を入ったところにあって、小規模な店舗兼住宅が30軒ほどで同胞向けの食品店や日用雑貨店が営まれていた。
その後太平洋戦争で大阪への空襲が激化して、この周辺の日本人も田舎へ疎開を始め商店街には空き家が増えていった。そして戦後になってそれらの空き家を入手する朝鮮人が増え表通りである御幸通が「朝鮮市場」に変わっていった。
藤田綾子著『大阪「鶴橋」物語』より
1993年に「KOREA TOWN」「KOREA
ROAD」 に! |
沢山の種類のキムチが店頭に並んでました。
トマトのキムチもありました。
食欲をそそられながら →二つの小学校へ |
この日はお祭りでだんじりが通過。 |
御幸森小学校(生野区の公立小学校)
屋上にプールがあるそうです。
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朝鮮第四初級学校
言語や文化を学んでいます。
同じ小学校なのに、朝鮮学校は「各種学校」のため援助がおりず、設備などが十分にそろえられないそうです。
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最後に平野川へ
映画でこの川を観た人もいるかもしれませんね。
ここでフィールドワークは解散しました。お疲れ様でした。
解散して有志でフィールドワークを案内していただいたお二人の先生と交流を深めるために韓国料理を食べに行きました。とても有意義な時間でした。お二人の先生に感謝を申し上げます。 |
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