晴天にも恵まれた当日午前10時、近鉄大阪線関屋駅(奈良県香芝市)にて、「NPO法人どんづるぼう地下壕を考える会」の田中正志さんの案内で、どんづるぼう地下壕に向かいました。 以前、採石場があったと思われる場所も通りました。30〜40分歩くと、どんづるぼうに近づきました。山の中腹まで、ロープ伝いによじ登りました。やっと地下壕の入り口が見えました。 地下壕は、「本土決戦」が始まる前に、九州方面にやってくる米軍の艦船に特攻攻撃の指令を出す場所として作られようとした秘密基地です。地下壕の北西10kmの地点には八尾飛行場があります。戦争中は「大正飛行場」で陸軍の飛行部隊がいました。 1945年6月から8月の敗戦までの短期間に掘られました。掘ったのは、日本陸軍の陸軍第19地下施設隊でした。そのうち約100人は、20才〜21才までの徴兵された朝鮮人でした。付近の二上小学校が宿舎にされていたと記録されています。しかし、8月15日の敗戦のため実際に使われることはありませんでした。 地下壕は、略図のように、WとEの2カ所に、2kmの長さに及びます。現在、Eの地下壕は、京都大学防災研究所が使っているため、立ち入りできません。地下壕に実際入ってみると、かなり天井が高く、幅は広く、所々に、つるはしの跡が見えました。入り口を入ってすぐ右に曲がると上に向かう出口がありました。この出口は、地下壕の上に皇族が入るといわれていた建物への地下通路でした。朝鮮最後の皇太子・李垠(イ・ウン)が滞在していたとの証言もあります。李垠は、当時の日本の皇族と同じく軍の司令官を務めていました。 また、上に向かって直径20cmぐらいの穴が開けられていました。空気抜きのためで、この場所を炊事場所にしていたと考えられ、床には灰のあとがありました。天井には釘が刺してありました(上の写真)。この釘に糸を張って掘るための基準にしたと考えられています。天井部分には、つるはしで削った跡が鮮明に残っていました。側面には、ダイナマイトを仕掛けるための穴が開けられていました。地下壕は、格子状に掘られ、外部から見えにくい状態でした。 地下壕の労働では、退役した日本人兵士が比較的軽度なダイナマイトを使った比較的軽度な作業を行い、朝鮮人兵士が、重労働の土砂の搬出作業をさせられたそうです。 戦争の遺跡である、どんづるぼう地下壕が思っていた以上にきれいなまま残っていることに驚きました。1945年8月15日から時間が止まっているかのように感じます。日本が敗戦のその時、壕を掘らされた朝鮮人兵士は、この日をどのようにむかえたのでしょうか。 現在、安倍政権が、「集団的自衛権」という名前で戦争への道を突き進もうとしている中で、私たちは、戦争遺跡を見て、知って、歩くことの大事さを痛感しました。 2014年6月8日 参加者の感想 「地下壕に行ってみてこれだけの広大な物を2ケ月余りで作ってしまう国家権力の恐ろしさを感じました。この存在をもっと多くの人に知ってもらいたいです。オプションの二上山登山は過不足なく歩いた感じがあり適切なコース設定だと思い、やはり下見しただけの事は有るなと感じ入りました」(Y) 「こんな大きな地下壕がたった2ヶ月で造られたのかと、とても驚きました。そして、もし本土決戦になっていたらと思うととても恐ろしくなりました。戦争は絶対にダメだと改めて思いました。 地下壕へ行く途中、石器に使用されていたサヌカイトという石をとりに寄り道をしました。その石は二上山が噴火したときに噴出した石と教えてもらい、驚きました。関西にも火山があったこと全然知りませんでした。いろんな意味で勉強不足を知るフィルドワークでした」 (トン) 「ひんやりとした壕の中で聞いた田中さんの話は本当にぞっとさせられるものでした。フィールドワークの後は当麻寺まで足を伸ばしました。当麻蹴速(たいまのけはや)の塚など、相撲と古代史のファンにとっては見逃せない史跡もありました。有名な牡丹はもう終わっており「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」という兼好法師の心境を味わってきました。」(鈴) 「20年ほど前に見学した時と、壕内はほとんど変わっていませんでした。 そのことにびっくりしました。 長きにわたる「戦跡保存を!」求める人々や会の取り組みがあってこそ──と思いました」(H) |
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