リブインピース@カフェ 憲法問題連続企画 第5回
「沖縄に憲法9条はなかった」2013・6・23

(1) 沖縄を本土決戦の「捨て石」にし(沖縄戦)、挙げ句の果てに米軍に売り渡すというのは、終戦工作の段階から、天皇と側近の明確な意志。日本国憲法の適用範囲から、戦争犠牲者である朝鮮・中国人と沖縄を外すという差別構造。
[報告]1-1 戦後初の衆議院選挙から見えてくる沖縄の切り捨て
[報告]1-2 沖縄切り捨てにおける天皇の主体的役割――天皇メッセージ
 東京裁判での天皇の訴追を免れようとする。
 共産主義革命を防止するために、米軍が沖縄に駐留するようマッカーサーに懇願。

(2) 52年サンフランシスコ講和での沖縄切り捨て。
 サンフランシスコ講和条約の重大な意味は、「講和で独立を果たした」ことではなく、同時に旧安保条約、日米地位協定が結ばれたこと、米軍の永続的駐留を受け入れたこと、米軍の治外法権を認めたこと、そして沖縄を米軍の施政権下においたこと。
[報告]2-1 日米安保条約と地位協定

(3) 72年沖縄返還。「核抜き・本土並」の沖縄の人々の願いを踏みにじる。
 ・米軍への沖縄人民の反発の高まりで、56年島ぐるみ闘争を経て、60年代にはいり「日本復帰」の動き、反米闘争の強まり。佐藤栄作首相はこれを政権支持に結びつける。
 ・米政府は、米軍による直接軍事支配ではなく、治安弾圧・住民取り締まりを日本政府と警察にやらせ、駐留経費も日本に出させ、基地の「果実」だけを享受する方針に転換。ベトナム戦争の真っ最中であり、出撃基地としての沖縄を確保し続けたいという思惑。
 ・しかし、「核抜き・本土並」の沖縄人民の要求をどうそらすかが問題
→返還密約−−緊急時の核の持ち込み、基地の自由使用、沖縄への基地の集中。
[報告]3-1 沖縄返還と密約

(4)沖縄での米軍基地建設と現在もつづく差別、事件、事故。なんら変わっていない。
[報告]4-1 沖縄を犠牲にしてきた基地建設
[報告]4-2 米軍による事件・事故の実態

(5)沖縄は朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争で出撃基地に。
 日本においては日本国憲法が最高法規のはずなのに、沖縄では日米安保条約と日米地位協定が実質的には日本国憲法に優先されている。沖縄における基地建設・米軍による事件や犯罪はそのことを如実に示している。沖縄の人々はそれを日々実感しているが、「本土」では基地周辺をのぞいては人ごとのようにしか感じられていない。憲法の平和・人権条項と日米安保との矛盾は日本全体の問題であることをもっと意識し、訴えていかなければならない。


1−1 戦後初の衆議院選挙から見えてくる沖縄の切り捨て
・第22回衆議院選挙
大日本帝国憲法下(帝国議会)での最後の、そして戦後初の総選挙
日本で初めて女性に参政権が認められた選挙。39名の女性が当選。
大選挙区制で、有権者1人につき2人又は3人に投票ができた。
沖縄県は最少定数の2人区で設定されるが、当選者は0人となっている。

・1945年12月衆議院選挙法改正
 http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s20_1945_06.html
「衆議院議員選挙法改正(1945年)」
改定の附則、最後のページに「沖縄県・・・竝海上交通杜絶其ノ他特別ノ事情アル地域ニシテ勅令ヲ以テ指定スルモノニ於テハ勅令ヲ以テ定ムルハ選挙ハ之ヲ行ハズ」とある。
この法改正で、日本では女性の参政権が認められたりしたが、一方で、沖縄の人々は国政参政権が奪われた。

・第89回帝国議会(選挙法改正が審議される)
 http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/ (帝国議会検索システム)
(昭和20年12月7日衆議院議員選挙法中改正法律案外一件委員会)
沖縄代表の漢那憲和氏が選挙権の停止に対して何とか思いとどまって欲しいと演説。
「この度の戦争において沖縄県の払いました犠牲は、その質においておそらく全国1位ではありますかいか。この県民の忠誠に対し政府は県民の代表が帝国議会において失われんとするに当たりまして、あらゆる手段をつくし、これを防ぎとめなければならないと存じます。そこで私が政府に伺いたい一点は、この問題について政府は今日までいかなる手段をとられたか、また連合軍最高司令部になんらかの申し入れをなされたのか、ということであります」
堀切国務大臣は「連合軍司令部の方と色々折衝したのでありますが、選挙を執行するということに付きましては、連合軍司令部の同意を得られませぬ」と答弁する。
しかし、日本政府は何の問い合わせもしていなかった。(小関彰一『憲法9条と沖縄』)


1−2 沖縄切り捨てにおける天皇の主体的役割――天皇メッセージ
・敗戦前から沖縄の売り渡しが画策されていた
「1945年6月下旬、昭和天皇は当月初めの御前会議で決定された「徹底抗戦」方針を自らが主導して軌道修正に乗り出し、元首相近衛文麿を「陛下の御内意」を体した天皇の特使としてソ連に派遣し、連合国側との和平に踏み出すこととなった。この際にとりまとめられた「和平交渉の要項」の「条件」の項において、「国土に就いては、止むを得ざれば固有本土を以て満足す」と記され、「解説」の部分で具体的に「固有本土の解釈については、最下限沖縄、小笠原、樺太を捨て」と説明されていたのである。
 つまり、沖縄は日本の「固有本土」ではなく、和平条件として連合国側に「捨て」られるものと位置づけられていたのである。」
(豊下楢彦(とよしたならひこ)『「尖閣購入」問題の陥穽』「世界」2012年8月号掲載より)
(「和平交渉の要項」の部分は矢部貞治『近衛文麿(下)』より)
*「固有の領土」…国際法上の概念ではなく、日本独自の表現。欧州では存在しない概念。

・マッカーサーとの会見(初回1945年9月27日)で占領を感謝、開戦責任を東条に
この会見で「天皇は全責任を引き受ける」と言ってマッカーサーを感動させた…のか?
実際は…この会見前後の 『ニューヨーク・タイムズ』インタビューや英国王への私信からすれば、むしろその逆で東条英機に開戦の責任を押しつけ、自らの責任を回避しようとしたことがわかる。
天皇とマッカーサー…占領を無事に遂行できたことに互いに感謝の意を表明
(豊下楢彦(とよしたならひこ)『昭和天皇・マッカーサー会見』より)

・「天皇メッセージ」――長期租借「フィクション」で米による沖縄の占領継続を希望。
1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛(ごようかかり)の寺崎英成(てらさきひでなり)を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモ。
(昭和天皇の侍従長『入江相政(いりえすけまさ)日記』(第10巻)」にも「アメリカに占領してもらふのが沖縄の安全を保つ上から一番よからうと仰有つたと思う旨の仰せ」(1979年5月7日付)とあり、これが天皇に真意であることがわかる。)

・天皇は、沖縄と琉球諸島の島々の軍事占領を米国が継続することを望んでいる
・それは米国の利益であり、日本に防衛を提供することになる。
・ロシアの脅威および占領終結後の左派と右派の衝突を契機にしたロシアの内政干渉を恐れている日本人は、米国の軍事占領の継続を歓迎するだろう。
・米国による沖縄の軍事占領は、長期――25年から50年、あるいはそれ以上の――租借というフィクションに基づくべきだ。
・そうすれば米国に永久占領の野心がないと日本人に確信させられるし、他国(特に中国・ソ連)が同じ権利を要求するのを禁ずることになる。
・沖縄の“軍事基地権”は、連合諸国と日本の平和条約の一部とするよりは、米国と日本との二国間条約によるべきである。
*このようなメッセージを発することそのものが憲法を無視した「天皇外交」


2−1 日米安保条約と地位協定
(1)サンフランシスコ平和条約
・第3条により、沖縄沖縄、奄美、小笠原を日本から切り離され、米国の施政下に残した。
・第6条(a)により、表向きの外国軍の撤退と米軍の駐留継続を規定。

(2)日米安保条約(旧)
・サンフランシスコ平和条約第6条(a)に基づき締結。
・署名当日(1951.9.8)の正午に、午後5時からサンフランシスコのはずれにある米陸軍施設で署名を行うと米側から通知。全文発表は調印式の2時間前。吉田茂首相はまるで連行されるように連れて行かれ、署名した。
・占領終結時に米軍の基地だったところはそのまま基地として残され、26万人の米兵そのまま駐留。名前だけが、占領軍が「在日米軍」に変わっただけ。米軍が日本を防衛する義務の規定もない。
・5条しかない簡単なもの。他国に軍隊が駐留する協定にもかかわらず、場所や基地の名を明記しない異例の条約。日本国内のどんな場所でも、米軍が必要だと言えば、米軍基地にすることができる(全土基地化)。「われわれが望む数の兵力を、〔日本国内の〕望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する」(ダレス国務省顧問[当時])。

(3)日米行政協定
・旧安保条約第3条に基づき締結。在日米軍の日本国内と周辺における権利などを定める。
・安保条約本体と異なり、国会での承認を必要としないが、米軍の権限などを実質的に規定するのはこの協定。
・全土基地化と在日米軍基地の自由使用、米軍と米軍人の「治外法権」を保障。

(4)日米安保条約(新)
・旧安保条約が、米国の「駐留権」にもとづく片務的な性格を持つ条約であったのに対し、双務的体裁を採る。
・全土基地化と在日米軍基地の自由使用、米軍と米軍人の「治外法権」などは維持。

(5)日米地位協定
・新安保条約第6条に基づき締結。
・条文上は日米行政協定より改善されたように見える個所もあるが、付属文書や密約により、本質は変わらない。国会での承認を必要としない実質的な規定であることも変わらない。
・米兵の犯罪容疑者について起訴までの身柄は米国が拘束する規定について、沖縄県や基地所在市町村が再三、改定を政府に要請してきたが、一度も改定されていない。1995年沖縄での少女暴行事件後、殺人と婦女暴行を「凶悪犯罪」として、起訴前の身柄引き渡しに米側が「好意的な考慮を払う」との運用改善で合意したのみ。

(6)「日米地位協定の考え方」
・沖縄の「本土復帰」(1972.5.15)によって、沖縄も安保の適用対象となる。それにともなって新たに発生する問題(核持ち込みなど)への対処も含め、地位協定の運用についてまとめた外務省の秘密文書。2004年1月、「琉球新報」が公表。
・公海上での米軍演習地域の設定や核問題など、締結時には想定されなかった在沖米軍・施設への地位協定適用を「本来、改定で対応すべきを、解釈で乗り切るために策定した」(外務省高官)とされる。
・日米地位協定の文言以上に、米軍の利益を擁護する実務解釈が示されている。

(7)日米合同委員会
・日米地位協定第25条で設置が定められている。
・原則2週間に1度開かれ、日本側から外務省北米局長や防衛省地方協力局長、米国側から在日米軍副司令官や駐日公使らが出席。
・数々の密約の舞台。

◎以上の全体の構造を通じて、全土基地化と在日米軍基地の自由使用、米軍と米軍人の「治外法権」が保障されている。すなわち安保条約と地位協定が憲法より上位にある。しかも、安保条約の運用を取り決めた地位協定、その運用について協議する日米合同委員会などでの合意、という形で、何重にも張り巡らされた取り決めの末に、最終的には多くが非公開で決定され、運用されている。

◎これらは日本全土に適用されるものであるが、在日米軍基地の多くが集中する沖縄に、その矛盾も集中している。

 [例 2004年8月 沖縄国際大への米軍ヘリコプター墜落事故]
 この時、米軍が墜落現場一帯を封鎖し、日本の警察にもマスコミにも立ち入らせなかった。マスコミの録画テープまで奪おうとした。こうした行動の根拠になっているのは、「日本国の当局は、‥‥合衆国軍隊の財産について、捜索、差し押さえ、または検証を行なう権利を行使しない」という、「日米地位協定についての合意」(1960..1.19)である。もともと、日米行政協定17条3項にそのような規定があったが、地位協定への移行にともなって削除された。しかしその裏で、この「合意」が結ばれて継続していたばかりか、行政協定にはなかった「検証も行えない」という規定まで追加された。


3−1 沖縄返還と密約
米統治下の沖縄…核保有を含む基地の「自由使用」

1961年 池田首相とケネディ大統領との会談、沖縄返還には応じない
1964年 佐藤栄作…「沖縄の返還を正式に要求」
1965年 佐藤首相、ジョンソン大統領に返還を求めるが、はぐらかされる
    米国にとってはベトナム戦争遂行に沖縄の基地が必要
    B52が沖縄から出撃(68年には常駐)
    佐藤「ベトナム戦争は極東に驚異」「日米安保に違反しない」と声明
    沖縄現地の反発→ライシャワー駐日大使が懸念
1966年 米国務省・国防省で沖縄返還の検討開始 「自由使用」が絶対的な前提条件
1967年 予備交渉の開始
    若泉敬が密使として派遣される…ロストウ大統領特別補佐官と懇意に
    佐藤…ベトナム戦争への徹底指示を表明。南ベトナムをはじめ東南アジア諸国へ    の経済援助の拡充。米国の財政赤字が減少する諸施策をとる
    →米国の態度が沖縄返還に傾く

1968年 琉球政府主席のはじめての公選実施。革新系の屋良朝苗(やらちようびよう)が当選 B52の大事故
1969年 反基地・反安保・即時返還の激しい住民運動
  3月 佐藤「核抜き 本土並み」返還を要求
  11月21日 日米共同声明「72年返還」を発表

☆極秘の合意事項(若泉敬が『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で暴露)
米国大統領…沖縄の施政権が日本に返還されたら、沖縄から全ての核兵器を撤去する
 ・しかしながら、重大な緊急事態が起きた場合は、事前協議の上再び核を持ち込む
 ・沖縄に現存する核の貯蔵地をいつでも使用できる状態に維持しておく
日本国総理…米大統領の述べたことを理解、事前協議が行われれば、その必要を満たす

米国の基本姿勢(1969年5月28日国家安全保障会議メモランダム13号)
「(2)軍事基地の通常の使用が、特に朝鮮・台湾・ベトナムとの関連において最大限自由であることを希望する」
 沖縄における核兵器を保持したいが、他の分野で満足のいく形で合意すれば、交渉の最終段階で、緊急時の権利を保持することを条件に核兵器の撤去を考慮する用意がある。

密約で達成。現在の沖縄での傍若無人の振る舞いにつながっている。

☆財政支出に関する密約(米の要求…在沖米資産の最大限の回収。返還に伴う米の支出は拒否。新たな財政支出を制度化=「思いやり予算」の原型。これら全てを日本側は認める。)


4−1沖縄を犠牲にしてきた基地建設
 〜終戦直後の普天間基地建設から「銃剣とブルドーザー」、「本土」からの海兵隊移転、辺野古新基地建設押しつけ、オスプレイ配備まで〜
(1) 終戦直後捕虜。住居や土地は立ち入り禁止。米軍基地建設進行
 沖縄住民は捕虜として米軍の沖縄本島に14〜16ヵ所の収容所に収容。他にハワイにも収容。1946年頃沖縄住民は米軍指定場所に移送。住居には鉄条網が張り巡らされ立ち入れず、米軍基地建設進行。

(2) 「銃剣とブルドーザー」による基地建設
・「琉球列島米国民政府(みんせいふ)」が、強制的に接収した土地に対して、賃貸契約を結ぶため、1952年「契約権」という布告を公布。多くの住民が契約拒否。年間の賃貸料が一坪当たり「コーラ1本代」、「タバコ1箱代」のもならない上、契約期間が20年と長期。

・民政府は1953年「土地収用令」を公布。契約を拒否する地主から有無を言わせず土地を奪取。立ち退きを拒否するものに対しては、家ごとブルドーザーでしきならすという非情な措置。「銃剣とブルドーザー」。暴力的な土地接収で、沖縄本島は「基地の中に島がある」状態。現在に至る基地問題の原点。

・民政府は、1954年「軍用地一括払い」という新方針出す。一括払いは土地買い上げ政策。これに対して、琉球政府立法院は全会一致で「軍用地処理に関する請願」を可決。一括払い反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対の「土地を守る四原則」を打ち出す。

・これに対して米下院軍事委員会が「プライズ勧告」という報告書を発表。(要旨)「沖縄は極東の軍事基地として重要な地域である、長期の基地確保も可能で、核兵器を貯蔵し、使用する権限を外国政府から制限されることもない。米軍は基地の絶対的所有権を確保するために、借地料を一括して支払い、土地を新規接収することもやむをえない」。

・1956年夏から住民の「島ぐるみ闘争」開始。住民の抵抗運動は止むことなく、最終的には米国側が、一括払いの方針を撤回し、適正価格で土地を借用することで、島ぐるみ闘争は終結した。米政府を動かした。

・日本本土の米軍基地を沖縄へ移設。米統治下の沖縄では基地面積は2倍に拡大。岐阜の海兵隊や伊丹の空軍が沖縄の米軍基地に移設。(次頁新聞記事参照)


(3) 1972年沖縄返還以後、沖縄への基地集中度がさらにアップ
・1972年以前と以後の本土の基地面積の比較。 (次頁グラフ参照)
1960年本土の米軍基地の面積は、3万3500f→1972年1万9500fに減少→1974年9702fに激減。1960年と比べると3分の1以下、72年とくらべると半分以下に激減。
沖縄の米軍基地(専用施設)1972年2万8000f、現在2万3000fで減少率は2割程度。
・返還された米軍基地の基地機能が普天間基地へ集中・・・・普天間基地が現在のようになったのは1972年沖縄返還以降。基地を返還するにあたって、米軍は日本政府に対し、軍事機能維持のために、返還されなかった基地に機能を移設することを要求。その移設先の1つが普天間基地。 2800メートル滑走路も1972年以降日本の財政支援でリニューアル。

(4) 辺野古新基地建設押しつけ
・1995年3人の海兵隊員による少女暴行事件。米軍基地撤去のうねり。普天間基地返還が焦点に。1996年SACO(沖縄における特別委員会)合意。普天間基地の返還条件に「ヘリ基地」建設=辺野古新基地建設を押しつけ。
・今年3月に政府が「埋め立て申請書」を沖縄県に提出。沖縄県知事1年かけて検討。来年1月名護市長選挙が最大の山場に。



(5) オスプレイ配備
・昨年10月1日に普天間基地に米海兵隊オスプレイ12機配備強行。日米合意の「飛行ルール」は無視。7月の参院選以後あと12機普天間基地に配備を強行を公表。2016年に嘉手納基地への空軍オスプレイ配備強行も公表。

 2013年6月17日、サッカー場(1987年8月に返還された米軍嘉手納基地の一区画)の工事現場から激しい異臭を放つドラム缶数十本が発見された。その中に「ダウ・ケミカル・カンパニー」の社名が記されていることがわかった。この会社は、ベトナム戦争時に米軍が散布した枯れ葉剤を供給していた。米軍にドラム缶使用の有無や返還前の用途について紹介しているが6月17日夜の時点でまだ回答はない。
 県内貯蔵を示す米当局の公文書があるにもかかわらず、米国防省当局は「沖縄で貯蔵された形跡は見つかっていない」と否定。米側の否定を理由に、日本政府も独自調査を拒んできた。
 人体・環境破壊を報道するジャーナリストの中村梧郎さんは、「これで沖縄に枯れ葉剤が貯蔵されていた事実が立証される」と、真相解明に期待を寄せる。


4−2 米軍の犯罪・事件・事故
〜宮森小学校墜落(59年)、少女暴行事件(95年)、沖縄国際大学ヘリ墜落事件(04年)等、復帰前も復帰後・現在に至っても米兵を訴追できない現状〜
 1952年から2007年までに公務内外で在日米軍が起こした事件事故件数は20万件を超え、日本人が巻き込まれて死亡した人数は1,076人である(防衛施設庁提出資料による)
 2010年に公開された外務省文書によれば、復帰前の1965年の時点で年間1000件に上っていた。1985年から2004年までに在日米軍の起こした事件・事故で軍法会議にかけられた者は1名で、懲戒処分者は318人である。

 示談で済ませている場合が非常に多いく統計は、事件・事故のすべてを網羅してない。 公務中と公務外では、公務外のほうが多い。
 沖縄が圧倒的に多い。

 公務中の米軍人の犯罪は地位協定で、第一次裁判権は米国にあると定めている 日本の法律で容疑者が裁かれない

 1953年に日本政府は在日米軍将兵の関与する刑事事件について「重要な案件以外、日本側は裁判権を放棄する」密約に合意している
、その後5年間に起きた約13000件の事件のうち、実際に裁判を行ったのは約400件で、97%の裁判権を放棄していたことが判明した(在日米軍裁判権放棄密約事件)ウィキペディア

1955年 6歳の子供が米兵の暴行殺害されたが、犯人は本国送還となりうやむやに。
1959年 小学校に米軍戦闘機が墜落し死者が17人。14年後に負傷者の1人が後遺症で亡  くなる。米軍は事故発生直後から現場を封鎖、主導権を握り駆けつけた家族の立ち入  りを禁止。(宮森小学校戦闘機墜落事故)
1963年 中学生が青信号で横断歩道を渡っているところへ信号無視で突っ込んできた   米兵の大型トラックにひかれて死亡した。加害者は軍法会議で無罪となった。
1965年 米軍のトレーラーが民家近くに落下し、小学生が押しつぶされ死亡した。
1969年 米軍の弾薬庫で致死性の高い毒ガスが漏れた。25人が負傷。弾薬庫には、サリ  ン、マスタードガス、VXガスなど1万3243トンが貯蔵されていた。
1970年 コザ市(現沖縄市)で道路横断中の住民が米軍人の運転する乗用車にひかれた。  米憲兵が被害者を放置したまま犯人を逃がそうとし、抗議する住民への威嚇発砲も行  ったため、つもり募る怒りを爆発させた住民が暴動を起こした(コザ暴動)
1972年 沖縄返還協定が結ばれ、沖縄は日本に「復帰」した。 

1995年 アメリカ海兵隊員2名とアメリカ海軍軍人1名の計3名が12歳の女子小学生を拉致した上、集団強姦した。実行犯である3人が引き渡されなかったことが問題になった(沖縄米兵少女暴行事件)
2004年 在日米軍のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落(沖国大米軍ヘリ墜落事件)

公務中米兵犯罪まかり通る不条理 
 公務中の米軍人が2009~11年に起こした死亡・傷害事件事故188件のうち、被害者が全治4週間に満たないけがを負った事例で3人が「処分なし」とされていた。残りの185件は全て懲戒処分で済まされた。被害者が死亡、もしくは全治4週間以上の重傷を負った事案を含め、刑事裁判を意味する軍法会議にかけられた例はない。
 ほとんどが交通事故とみられるが、国内で起きた事件・事故であるにもかかわらず、公務中という理由だけで刑事事件を起こした在日米軍人が特別扱いされている。 

2013年5月28日 米空軍嘉手納基地所属のF15戦闘機1機が、機体の「不具合」で本島東沖墜落事故
米軍F15戦闘機の墜落は嘉手納配備以来9回目で、復帰後の米軍機墜落事故は44件目。沖縄県のまとめたデーターによると1972年の復帰から2009年12月末までの米軍航空機関連事故等 総計497件



資料(PDFファイル)

2013年7月6日
リブ・イン・ピース☆9+25