[報告]8月7日リブインピースアットカフェ
被爆から65年 長崎の被爆者山科和子さんのお話を聞く
壮絶な被爆・証言体験と今なお続く差別

 8月7日(土)、大阪市の市民交流センターなにわで“被爆から65年 長崎の被爆者山科和子さんのお話を聞く” を行いました。25名が参加しました。
山科さんは89歳というご高齢にもかかわらず、生き残った者の使命と思い、今でも小中学校などで証言活動を精力的に行っています。当日山科さんは、戦時中に着ていた服装のもんぺ姿で、地図や写真を使って証言を行いました。
 山科さんは幼稚園が広島、小学校が下関と居を転々とし、長崎駅長の父と一緒に長崎に移り住み、1945年8月9日、爆心地から約2キロ離れた勤務先の旅行会社で被爆しました。長崎は江戸時代から外国人が多く温かい交流があったが、大東亜戦争(山科さんの表現)によって、長崎の街は全く変わってしまったと、当時の様子を語りました。
 8月9日勤務先で被爆し家に帰った山科さんは両親の遺体を探して発見します。黒こげの死体の写真を見せ、父も同じように仰向けに倒れ、骸骨を真っ黒にしたような姿で横たわっていたと説明しました。母はうつぶせになって死んでいたそうです。
 周りには自分の油でちょろちょろ火が燃えている死体がころがっていました。父の遺体をみても涙も出なかった、放射能を知らなかったので両親の遺体と過ごした、これが被爆を強めることになったと言います。弟や妹を10日ほど待っていましたが帰ってこず遺体も見つからず、家族みんなを亡くしてしまった山科さんは、父の喉と顔の骨をひろって長崎を出て福岡の九大に行きます。
 ところが九大で「あなたに上げる薬はない」といわれ一ヶ月ほどして再び長崎に戻りました。山科さんは顔から血膿を出し、バラックの病院に駆け込みます。すると医師が「君のお父さんはよく遊んだね」「親の因果が子に報う」と暴言を吐きました。またどこでかぎつけたか夜に米兵がアパートに「ハロー」といってやってくる。それで下宿も追い出され、山科さんは九州から神戸に行きました。
 山科さんはそこで一から勉強し直して学校の先生になりますが、18年経って身体が真っ黒になり、被爆の影響が出てきました。風呂屋に行くと、あんたが来ると他の人が風呂に入れないから来るなと言われる、店にいって品物を手に取ってどうして食べるんですかと尋ねるとぱしっと手をたたかれ、あんたが来ると物が売れんようになると言われて追い返される。山科さんは外に出るのは夜を待って、帽子をかぶって長袖を着たと、悔しい気持ちを語りました。
 山科さんは、そのような経験から、こんなつらいことは二度とあってはならないと、被爆の恐ろしさ、悲惨な体験を語る活動を始めました。
 山科さんは、証言活動を始めた当初はアメリカ憎しという感情が強かったが、被害者意識だけでなく、日本の加害責任についても認識をするようになったといいます。アメリカの真珠湾を訪れた時、「ジャップゴーホーム」と叫ぶ女性に出会いました。驚いていると、その人は真珠湾で息子が死んだそうです。それから山科さんは南京や重慶なども訪ね、日本が行った侵略や虐殺の真実を自分の目で確かめようとしてたと言います。大虐殺などについて「ねつ造だ」などの論がでるたびに、それらの遺跡を自分自身で訪ね、確信をもち、証言活動を豊かにしていったそうです。アウシュビッツなども訪れました。また、証言活動を通じて、相手の立場にたつことを学んだとも言っていました。山科さんは1982年ニューヨークでの国連軍縮特別総会での証言をはじめ、世界20カ国以上で証言をしていますが、キリスト教の国では十字を切り、韓国や中国など仏教の国では数珠をもって手を合わせ、それぞれの宗教や習慣に敬意を払い、心を通わせる準備を行った上で証言にはいるそうです。
 証言後、参加者から、今も差別があるというのはちょっと理解できないとの質問が出されました。いまだに結婚差別などがあるだけでなく、子どもが、放射能がうつるといじめにつながることもあるそうです。ですから、催しで被爆者の相談会などをする場合に、会場に一切「被爆者」という言葉を掲げないなどの配慮をしているといいます。
 オバマの核廃絶宣言をどう思うかとの質問には、ゴタゴタ言う前に広島に来てまず被爆の現実を見るべきだと怒りを込めて語りました。
 山科さんの壮絶な被爆体験と、証言活動を通じて得た体験、そして今なお続く差別と、65年経っていまなお続く深刻な実態を知りました。被爆と敗戦、侵略と植民地支配の歴史を問題にし続けなければならないと思いました。

リブ・イン・ピース☆9+25


○しんどい想いを持ちながら真実を知る努力を続けながら自分を変え、まわりの人たちを変えていこうとされている山科さんにお会いでき、自分も…と思いました。

○山科さんの被爆の体験、及び戦後被爆者としての差別をうけながら証言をつづけられてきた人生に、圧倒された想いがし、自分の被爆者に対する認識がまだまだ弱いなと反省させられました。
また広島と比べて長崎の原爆被害について知らないことにも気づかされました。これを機会に勉強し直したいと思います。

○山科さんの貴重なお話有難うございました。
すごい生き様に驚きました。被爆の話をすることが私の使命だという生き方に感銘を受けました。

○たぶん30年ぶりに山科さんのお話を聞きました。
学生の時に聞いた印象とは違う形で、53歳の大人として「原爆が落とされるとはどういうことなのか?」というのを感じることが出来たと思います。
特に、(黒こげになってしまった)お父さん、お母さんの葬式をどうしたのかな?と思いながら聞いていて、「両親の死体の一部だけを切り取って、結局は置き去りにした」というのは非常にショックを受け、その時の山科さんの状況と長崎市内の状況がよく伝わり、身につまされました。(多分学生の時には気がつかなかったと思います)

○テレビでは原爆は危険だとかそういうことをやってるけど、ここでは差別の話など、テレビではあまり聞けない話も聞けてよかった。

○きちょうな体験談ありがとうございました。
 未だに被爆者の人に対して差別があること、大人が結婚差別をするというのはわかりますが、放射能がうつるという間違った知識のために子供達がいじめなどをするというのにおどろきました。

○一人で生きてきたつもりでも人のつながりでいかされてきたというお話がよかったです。