9条と象徴天皇制『昭和天皇 二つの「独白録」』
独白録――天皇が訴追を逃れ延命するための政治文書

2010年6月27日 リブ・イン・ピース@カフェ

天皇の延命工作を物語る「二つの独白録」
 1997年に放送された番組NHKスペシャル『昭和天皇 二つの「独白録」』が今年8月にDVDで発売されることになった。昭和天皇の戦争責任を否定するため、いかに彼が平和主義者であったのかの証拠として引き合いに出される「独白録」だが、極東裁判の訴追を逃れなんとか生き延びようとする昭和天皇と側近・宮中グループ、そしてGHQの反共部分の仕組んだ巧妙な政治的文書であったことが番組から明らかになる。
 その決定的な証拠の一つがNHK取材班が米国で突き止める「英語版の独白録」と関係者の証言だ。「独白録」が雑誌「文藝春秋」にスクープされた当初(1990年)、多くの歴史家やメディアが“昭和天皇の苦悩の吐露”などと宣伝したのに対し、歴史に真剣に向きあおうとした歴史家たちは、極東裁判開廷の直前に病床であわただしく作成された不自然さを指摘し、裁判提出用の英語版の存在を確信していたのである。

日本支配のために天皇制を利用するGHQの方針
 1946年5月極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれた。しかし、大日本帝国憲法で国家元首として政治軍事外交の最高の統治者であった天皇の問題は東京裁判で扱われなかった、なぜ天皇は訴追されなかったのか?
 1945年8月15日連合国はポツダム宣言で一切の戦争犯罪人を厳重に処罰することを決定していた。が、その中に昭和天皇を含めるかどうか態度を決定されていなかった。
 日本は降伏に際して国体の護持、すなわち天皇の国家統治の大権を認めるよう連合国に求めていた。
 しかし敗戦直後から連合国や侵略されたアジア諸国からは、国家元首としての昭和天皇の責任を問う声が強く上がっていた。米国の上院は昭和天皇を裁判に掛けることを決議、中国は国民政府海外の雑誌に「ミカド去るべし」の論文を発表、フィリピンの弁護士会はアメリカ大統領に昭和天皇を裁判に掛けるよう要請、オーストラリアは国家元首たる天皇は一兵卒より罪が大きいと天皇を戦争犯罪人として裁くよう公式に要求していた。
 しかし、マッカーサーは連合国総司令官でありながら、これら連合国の意向や世論を押さえ、米国の占領政策を円滑に実施するという立場にあった。そのためには天皇が役に立つ存在であると考え天皇制を維持することを決めた。「天皇を告発するならば日本国民の間に必ずや大騒乱が引き起こすであろう、天皇は日本国民統合の象徴であり、天皇を排除するならば日本は瓦解するであろう」と、1946年1月25日に本国あてに極秘文書を打電している。そして、マッカーサーの勧告に米国は天皇の訴追を回避するために動き始めたのである。当時東京裁判で東條英機らA級戦犯容疑者への尋問が続いていた中、早々とマッカーサーは天皇不訴追の意向をしめしたのである。
 天皇制を存続させるための条件として出されたのが、憲法9条=武力の不保持と交戦権の放棄であった。マッカーサーは、国体護持を軸にした新憲法「松本委員会試案」が毎日新聞によってスクープされた2日後の1946年2月3日、マッカーサー3原則と言われる新憲法原則を示し、民政局にGHQ草案の作成を指示、草案作りを加速するのである。
マッカーサー3原則(1946年2月3日)
1)天皇は国の元首の地位にある。皇位は世襲される。
  天皇の職務および権限は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意志に応えるものとする。
2)国権の発動たる戦争は、廃止する。
  日本は紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を今や世界を動かしつつある崇高な理念に委ねる。
3)日本の封建制度は廃止される。
  貴族の権利は後続を覗き現在生存するもの一代以上には及ばない。
  貴族の地位は今後はどのような国民的または市民的な政治権力も伴うものではない。

東京裁判用に作られた「独白録英語版」
 もっとも天皇が訴追がされなかったのはアメリカの占領政策のためだけではない、戦後直後から戦争責任回避と天皇の延命、自己保身のため昭和天皇と側近・宮中グループが積極的に動いたからである。
 中でも「独白録」は、東京裁判用に、天皇の責任を回避するために作られた昭和天皇の戦争との関わりを語った機密記録である。マッカーサーの軍事秘書フェラーズ准将の要請で、元天皇御用掛・寺崎英成が天皇への聞き取りを行なった。1946年3月18日御文庫の御政務室で本格的な聞き取り作業が行われた。聞き取りは断続的に4月9日まで5回8時間にわたって行われている。『二つの独白録』とは日本語版と英語版を指す。裁判提出用の英語版は戦後ずっと、発見されるまで他ならぬフェラーズ自身が所有していた。
 フェラーズは天皇と戦争の関わりについて情報収集に努め、寺崎を通じて天皇に質問を投げかけ、天皇に無罪の立証を求めた。フェラーズは調べていくに従って戦争を終わらせる力が天皇にあったのなら、なぜ開戦を彼は許可したのか疑問をもったという。
 寺崎は、ファラーズによる開戦の問いかけをそのまま天皇に問いかけている、「終戦に際し陛下が偉大な力をふるわれたことは内外の等しく瞠目していことであるが、なぜ開戦に同様の大きな力をふるわれなかったのか、これも内外に等しくもっている疑問であります」と。
 天皇は風邪で療養中であったにもかかわらず、戦犯裁判に天皇の責任が取り上げられるのではないかと急いだようである。
 天皇は寺崎に腹案があるがフェラーズがほんとに信用できる男かを確認した上でフェラーズに機密を話すことを許可し、こうした状況の中で寺崎によって英語版の独白録が作成されフェラーズに手渡された。

天皇を「無力な囚人」と描くことで戦争責任を回避
 英語版は天皇の保身のためにつくられたことが、日本語版との相違によってわかる。最後の後の結論部分で、日本語版には「開戦の際東條内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治家における立憲君主としてやむ終えぬことである。私がもし開戦の決定に際してベト、拒否したとしたら国内は必ず大内乱となり私の信頼する周囲のものは殺され、私の生命も保障できずそれはよいとしても結局凶暴な戦争が展開され今時の戦争の数倍の悲惨事が行われ果ては終戦できかねる始末となり日本は滅びることになるであろうと思う」とあるが、
英語版では、「立憲政治下では天皇は内閣の決定を裁可しなければならない。1941年の11月か12月に、もし私がベト、拒否したとしよう大内乱となったことであろう。私の信頼する周囲のものは殺され、私も誘拐されるか殺されただろう。いずれにせよ、私は囚人に等しく無力だった。私の反対意見は宮中の外には絶対に洩れなかっただろう。凶暴な戦争が展開され、私が何をしても終戦もできかねる始末となったであろう」と下線の部分が日本語版と違い、天皇の無力さが強調される形になっている。
 つまり天皇はフェラーズの問いに対して、立憲君主制の元首として天皇が開戦を裁可したことで戦争はあの程度の惨禍で済み、また終戦を決断する余力を残しておいたという驚くべき後講釈を展開したのだ。しかし図らずも天皇は開戦時も終戦時もそのような政治判断をする力と権限を国家元首として持っていたことを述べているのである。
 この英語版の「独白録」は緊急事態に備えフェラーズのもとにおかれていた。天皇を訴追せず「陛下をお守りするために」すべての罪を東條が引き受けるという基本戦略は東條に直接伝えられ、裁判はそのように進んだ。
天皇と宮中グループは、天皇の延命と訴追の回避を最大の関心事とし、その目的のためにはいかなる部分と手を組むこともいとわなかった。このような天皇・宮中グループの意図に、日本をソ連・共産主義からの防波堤にしようというフェラーズらGHQの反共グループとが見事に結びついた。47年沖縄売り渡しの「天皇メッセージ」はその極まったものである。

天皇を戦犯より救出した大恩人として勲二等が贈られたフェラーズ准将
 1946年11月3日GHQ指導のもと天皇を国民統合の象徴とする新憲法が公布された。
 そして2年後の1948年11月12日東京裁判の判決が下された。東條ら七人に死刑が宣告された、天皇は退位もせず、戦争責任問題の決着を迎えた。「独白録」は世に出ないままその役割を終えることになった。それに先立つ9月20日には、米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望むとする「天皇メッセージ」が送られている。象徴天皇制の在置と憲法9条は沖縄の基地化と不可分に結びついている。
 この番組をみて感じるのは、天皇と軍部を区別し、すべての責任を暴走した軍部に押しつける考えは、米国とGHQの情報戦によって植え付けられたフィクションではないかということだ。フェラーズは終戦前から米軍の対日心理作戦を担当し、「軍首脳部は・・・陛下を欺き奉る」と、この戦争を遂行しているのは軍部であって決して天皇ではないという宣伝ビラをまき、早期降伏を呼びかけている。対日工作で天皇と軍部を切り離すことが有利だと判断し、早くから天皇の利用を考えていたからだ。天皇はのちにフェラーズに対してこれらの宣伝に対して謝意の書簡を送りさえしている。
 1971年2月フェラーズ准将は連合国軍総司令部における唯一の親日将校として、天皇陛下を戦犯より救出した大恩人であるという「功績」で日本から勲二等が贈られた。

現在の対米従属構造の根源の一つとしての「天皇外交」
 1946年7月に再開された聞き取りの記録「聖談拝聴録」の中で、戦争の原因にについて「軍備が充実すると使用したがる軍人の癖、そして軍部の主戦論に付和雷同した日本人の国民性が戦争防止を困難にした」と、戦争へ突き進んだのは日本国民の国民性のせいだとし、また敗戦後の日本については「敗戦の結果とはいえ我が憲法の改正もできた今日において、考えてみれば我が国民にとっては勝利の結果極端なる軍国主義となるよりもかえって幸福ではないだろうか」と、恐るべき無責任な発言をしている。誰が開戦命令をしたのか、ポツダム宣言をもっと早く受諾していたら広島、長崎に原爆が落とされることはなかったのではないか。東條に全責任を押しつけ、国家元首たるものが保身に邁進し責任をとらなかったことは、現在のアメリカに日本が従属する関係に大きな役割を果たしたのではないかと思う。
 昭和天皇は自己保身と延命という関心から、日本の共和制化・共産主義化を恐れ続けた。敗戦当初は天皇中心の国体の護持を執拗に追求した側近たちと、自己の延命と皇室の存続さえ保障されればいいと考えていた天皇の間には温度差さえあった。「独白録」は、45年9月27日のマッカーサーと昭和天皇初会見から始まるそのような一連の延命工作の一場面である。是非とも続編の作成を期待したい。
 米軍による沖縄・琉球諸島統治を進言した「天皇メッセージ」、ソ連や中国を排した片面講和に対する共鳴、朝鮮戦争への米軍参戦や日本への米軍駐留に対する感謝・歓迎の意の表明等々。天皇のこれらの重大な政治的行為「天皇外交」が現実の日本政府の政治決定にどの程度具体的影響を与えたのかはきっちりと解明されなければならない。それ自身が昭和天皇の戦争責任と戦後責任の重大な要素となる。少なくとも戦後のある時期まで天皇・側近と日本の支配層、そして米政府・軍は互いに利用し、依存し、牽制しながら、「対米依存・従属構造」を作り出していっただろう。現在我々が直面している醜悪な対米従属構造の根源の一つは、間違いなくそこにある。


[資料]

1945年
7月26日 米英中が「ポツダム宣言」を発表。
8月15日 終戦の詔書を放送(玉音放送)。
8月30日 連合国最高司令官のマッカーサーが厚木に到着。
9月2日 東京湾の米戦艦ミズーリ上で重光葵らが降伏文書に調印。
9月13日 マッカーサーが憲法の改正を最初に口にする。
9月27日 マッカーサーと昭和天皇の第一回会見。
10月4日 GHQは人権指令(天皇に関する自由な議論を奨励していた)を出し、戦前の治安維持法、特別高等警察が廃止され、共産党員、政治犯が釈放される。「自由の指令」を発令。
マッカーサーが近衛文麿に憲法改正を示唆。
「第一に日本の憲法は改正しなければならん。憲法を改正して、自由主義的要素を十分取り入れる必要がある。」
10月9日 東久邇宮稔彦内閣に代わり、幣原喜重郎内閣が成立。
10月11日 マッカーサーが幣原首相に「憲法の自由主義化」を示唆。
10月25日 憲法問題調査委員会(松本委員会)が設置される。
11月22日 近衛が「帝国憲法改正要綱」を天皇に奉答。
12月26日 憲法研究会が「憲法草案要綱」を発表。

1946年
1月1日 昭和天皇が「人間宣言」を行う。
2月1日 毎日新聞が「松本委員会試案」をスクープ。
2月3日 マッカーサーが3原則を提示、民政局にGHQ草案の作成を指示。
2月8日 日本政府がGHQに「憲法改正要綱」を提出。
2月13日 GHQは要綱を拒否、日本側にGHQ草案を手渡す。
3月6日 日本政府、GHQとの協議に基づいた改正要綱を発表。フェラーズが天皇聞き取り実施を宮中グループに示唆。
3月18日〜4月9日 天皇聞き取り(→「独白録」)。
4月17日 日本政府がひらがな口語体の「憲法改正草案」を発表。
4月29日 極東国際軍事裁判起訴。
5月3日  極東国際軍事裁判審理開始。
5月22日 第1次吉田茂内閣が成立。
6月20日 第90回帝国議会に改正案を提出。
11月3日 日本国憲法を公布。
12月1日 「憲法普及会」が組織される。

1947年
5月3日  日本国憲法を施行。
9月20日 米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望むとする「天皇メッセージ」。

1948年
11月12日 東京裁判判決。