阪神教育闘争に学ぶ 民族教育と日本
(5/23リブインピース@カフェ報告)

 阪神教育闘争が起こったのは1948年4月24日です。
 戦後、つまり在日朝鮮人にとっての解放後、「金のあるものは金で、力のあるものは力で、知恵のあるものは知恵で」を合言葉に、在日朝鮮人の手によって日本国内に数多くの民族学校が生まれました。阪神教育闘争の起こった1948年4月には全国で556校もあったそうです。
 それらの学校は解放後すぐに祖国へ帰国しようとした若者たちが、自分たちが母国語を話せないことに愕然としたことに端を発したと言われています。在日朝鮮人はそれまで日本の同化政策によって、名前を奪われ、言葉を奪われてきました。解放を迎え、若者が自分の民族性を回復したいと切望したのは、自然な欲求でした。また子どもを「日本人」として育てざるを得なかった在日一世たちが、自分の子どもたちに民族性を取り戻して欲しいと願うことも。民族教育が爆発的に全国に拡がったのは、あまりにも当然でした。
 そういう感情は、私たち日本人には分かりにくいものかもしれません。しかしそこに激しい熱情があったし、今の日本社会に暮らす多くの在日朝鮮人たちにもそれが身から切り離せないリアルな欲求としてあるのだということを、まずは理解しなければなりません。そこには私たち日本人の責任が、少なからずあるからです。

 当時の日本政府は、GHQによる占領下にありました。この急速に拡がる民族教育に対して、日本政府は、そしてGHQは、どのような対応を行ったのでしょうか?
 日本政府は1947年10月、いったんは民族学校を各種学校として認める方向に動き出しましたが、その直後GHQは「朝鮮人諸学校は正規の教科書の追加項目として朝鮮語を許されることの例外を認める外は日本政府文部省のすべての指示に従わせるよう」と指示しました。
 本音では同化政策を推進したいがGHQには逆らうことが出来なかった日本政府にとっても、これは好機でした。1948年1月に文部省は、朝鮮語での授業や朝鮮語教育を正課から外し、課外授業として取り扱うよう指示しました。これは民族教育の実質的な否定に他なりません。更に朝鮮人学校の教師の適格審査を学校教育法に定める規定どおりに厳密に行うよう指示しました。教壇に立っている教師は朝鮮人の知識層でしたが、厳密さを求められれば失格という事にならざるを得ません。こうして日本政府は民族教育を全否定したのです。
 多くの子ども達は、民族学校で初めて言葉を学び、朝鮮民族の歴史を学びました。日本人社会で差別されているのはなぜなのか、貧しい暮らしをしなければならないのはなぜなのか、自分の民族がなんであるのかを、民族学校で学びました。在日朝鮮人の子ども達にとってそそれを学ぶことが必要だったのです。もし日本政府が、それぞれの子どもの目線にたった教育の必要を考えるのならば、決して事態はこうはならなかったでしょう。日本政府は、教育は国家の所有物と考え、「日本人」をつくるための道具と考えていたとしか思えません。
 1948年2月、GHQは朝鮮学校が文部省の通達に従わないのならば、朝鮮学校の閉鎖、またはGHQによる管理を示唆しました。文部省は、朝鮮学校が通達に従わないのならば学校閉鎖に踏み切るとして、都道府県に通達しました。
 3月、ついに文部省は閉鎖命令を出しました。当然、多くの在日朝鮮人がこれに反対し、抵抗しました。しかし日本政府とGHQは警官や軍隊を導入し、暴力的に排除したのです。特に兵庫県と大阪府では激しい抵抗闘争が繰り広げられ、後に阪神教育闘争と呼ばれるようになりました。

 神戸では知事が約束していた交渉を反古にしたために、多くの朝鮮人が抗議の座り込みを行っていました。4月15日、警察は座り込みをする在日朝鮮人73名全員を逮捕し、23日には学校閉鎖が強制執行されました。
 しかし運動の側も負けてはいません。24日には兵庫県庁前に1万人が抗議に集まり、県知事と交渉した結果、学校閉鎖の撤回など5項目の合意を勝ち取りました。きっとこの成果に、多くの人が歓喜したことでしょう。
 ところが同日深夜、GHQは非常事態宣言を発令し、合意文書の無効を宣言しました。第8軍司令官アイケルバーガー中将が横須賀から急遽飛んできての、戦後唯一の非常事態宣言です。そしてその後米軍の手によって、3日間で1732名もの在日朝鮮人を逮捕したのです。事件に関係してようがしていまいが、朝鮮人であれば無関係に捕らえられ、留置所に放り込まれました。そのうち136名が裁判に付され、39名が「運動の首謀者」として軍事裁判に付されています。15年の重労働が5名、12年1名、10年1名、5年以下の重労働が5名。重労働もさることながら、当時の在日朝鮮人は刑期を終えると韓国に強制送還となっていたはずです。

 大阪では23日に1万5千人もの朝鮮人が府庁前に抗議に詰め寄りました。26日には3万人もの抗議を背景にして、府知事と交渉をもちましたが、府知事側は「在留朝鮮人は日本国籍をもっているからその子弟は日本学校に入れるべき」と主張し、議論は平行線を辿ったといいます。府知事側にとって神戸での非常事態宣言後の状況が念頭にあったはずです。そのころ神戸では、多くの在日朝鮮人が留置所に放り込まれていた真っ最中なのですから。
 知事室にはGHQの大阪府軍政部長グレーク大佐があらわれて露骨な恫喝を行い、警務部長を通して、1分以内の知事室からの退去、5分以内の解散を要求したといいます。そして交渉の日を改めるためひとまず解散となった矢先、警官隊が群衆に襲いかかり放水、さらに無防備の群衆に対して銃撃まで加えました。この事件でわずか16歳の金太一少年が命を落としたのです。大阪でも42名が起訴され、軍事裁判で18名が重労働の刑を受けています。

 その後も闘いはねばり強く続けられ、一定の条件のもとで民族学校の存続が認められました。しかしその後、日本政府は1949年9月に朝鮮人の運動を牽引していた在日本朝鮮人連盟(朝連)の解散を命じ、10月には再び警官を導入して民族学校を強制閉鎖しました。11月には「小学校においては朝鮮語・朝鮮の歴史を教えることはできない」と文部事務次官通達を出しました。
 公立学校では基本的な考えとしては民族教育は認められないまま、現在でも多くの公立学校で、課外での民族学級が取り組まれています。
 1955年に朝鮮総聯が結成されて以降、民族学校再建が進み、現在では60校以上の朝鮮学校に1万人以上の子どもが学んでいます。また民族学校といえば朝鮮学校を語られることが多いですが、民団系や、どちらでもない独立した民族学校もあります。(ただし一条校として認可されないことによって差別されているのは、朝鮮学校だけです。)

 阪神教育闘争から62年が経った今日、在特会は朝鮮学校に押しかけ、暴力的で差別的な行動を撒き散らしています。日本政府は朝鮮学校に通う生徒の高校無償化を否定し、橋下知事は授業料支援など助成金の予算を凍結しました。
 なぜこんなことが許されているのでしょうか?
 こんなことが許されていること自体が、民族教育を認めてこなかった戦後62年の誤った教育方針の結果であると思わずにはおれません。そして近年は、日の丸・君が代の学校現場への強制など、「日本人をつくる」ための教育への締め付けが、なお一層進んでいます。
 教育とは本来、子どもひとりひとりのためのものであるはずです。それは日本人であろうが、在日朝鮮人であろうが外国人であろうが、同じです。在日朝鮮人にとって、民族教育は教育基本法のいう「人格の完成」には欠かせないものです。子どもたちがそれを望むなら、国はそれを保障しなければなりません。
 特にこの場合、教育本来の役割に加えて、日本の植民地支配に対する責任もあるはずです。日本に朝鮮人がいるのは、「好き」で「望ん」で、ここにいるのではありません。在日朝鮮人個々人の人生には様々な選択肢はあったはずですが、そのいずれもが朝鮮の植民地支配とその収奪抜きにはありえなかったことです。そこに日本の責任があることは揺るがしようのない事実です。そして現在でも続いている差別社会の現実が、より一層私たちの責任を問うています。
 4・24のツケは、62年経った今も清算できないまま、今日の差別に直接的に結びついています。今こそこれを清算し、差別も抑圧もない、すべての人が人間としての尊厳を失うことなく生きていける社会を実現させましょう。
 差別と、その奥に潜む土壌と闘うことが、これまでになく重要になっています。