育鵬社公民教科書批判

2011.8.18
                        子どもたちに渡すな!あぶない教科書大阪の会

 「新しい歴史教科書をつくる会」(「つくる会」)から分裂した「日本教育再生機構・教科書改善の会」(八木グループ)は、今回かなり他社の教科書に似せて、育鵬社歴史・公民教科書を作成した。そのため、「つくる会」(藤岡グループ)が作成した自由社歴史・公民教科書が右派の主張を露骨に押し出しているのにくらべると、かなりソフトな印象を受ける。
 たとえば、公民教科書を例にとると、「多文化社会」に触れ、コリアタウン(大阪市)の写真まで掲載している(p.12)。だが、よく見ると「多文化社会」を尊重しようと教えるのではなく、「グローバル化」社会の中ではむしろ「自国の文化」を尊重し、「日本文化の素晴らしさを海外に紹介する」ことが大切だと教えていることがわかる。つまり、徹底した自国中心主義が本質なのである。いくらコリアタウンの写真を載せようとも、日本の公立中学校には多くの在日韓国・朝鮮人の子どもたちが在籍し、ともに同じ教科書で学ぶのだという視点がここにはない。
 このように、他社の教科書に似せても、"衣の下から鎧が見える"のが育鵬社教科書であり、自由社同様、子どもたちに偏った「愛国心」を注入し、「戦争」へと導く危ない教科書であることに変わりはない。ここでは、その"危なさ"をいくつか指摘したい。

1 八木秀次氏が語る「編集方針」―「良き国民づくり」のための教科書
 育鵬社教科書の執筆者であり、「教育再生機構」の理事長である八木秀次氏は、市販本の冒頭で育鵬社公民教科書は「"良き日本国民"であるための教科書」だと述べている。
 「『個人』に偏重し、家族や地域などの共同体、国家を軽視するとともに、それらに伴う伝統や文化、道徳をないがしろにしてきた戦後教育に根本的な転換」を求めた新教育基本法にのっとって、「よき国際人であるためには、まずよき日本人であれ」と教えるのが育鵬社公民教科書だというのである。
 八木氏は「地球市民」など存在しないし、「自分のアイデンティティの確認」つまり「自分はどこの国の人間であるか」がまず問われるという。これはよく言われることであり、一見正しいように聞こえるが、「アイデンティティ」は、必ずしも「国家」という枠組みにとらわれたものでなければならないわけではない。現にヨーロッパでは「EU」という枠組みで政治経済が動き、「EU市民」としてさまざまな権利も与えられている。また最近では「東アジア共同体」という新たな枠組みをつくろうという動きもある。
 これらは20世紀において、「国家」と「国家」が激突し、あるいは他国を支配して、多くの犠牲者を生み出したことの反省にもとづくものである。21世紀はどのように「ナショナリズム」を超えるかが課題となっているのである。それゆえに自由社と育鵬社を除く他の5社の公民教科書は、教育基本法と学習指導要領の改定という圧力がありながらも、地球的な視野から考えるという立場で編集されている。にもかかわらず、育鵬社は「日本国」という枠組みのなかに子どもたちを閉じこめ、時代を逆行させている。
八木氏は育鵬社公民教科書において、特にわかりやすく記述したテーマとして「日本人の宗教観」「天皇の存在意義」「国防」「領土」をあげている。このことからも、天皇を神格化し、ふたたび「お国のため」「天皇陛下のため」に「命をかけて戦う国民」づくりが育鵬社公民教科書の目的であることが透けて見える。

2 「マッカーサーによる押しつけ憲法」論を主張し、「改憲」へと誘導
 育鵬社はよほど日本国憲法が嫌いなようである。大日本帝国憲法を「アジアで初めての本格的な近代憲法」として美化し、詳しく取りあげる一方で、日本国憲法はGHQが「1週間で憲法草案を作成」し、日本政府に「受け入れるように厳しく迫」った押しつけ憲法であったと反発する(p.41)。
 そしてこのような憲法は一刻も早く「改正」しなければならないとばかりに、「憲法改正」については2ページをつかって詳しく記述している(p.50〜51)。これまでの扶桑社版では「世界最古の憲法」(理由:制定以来一度も改正していないから)と揶揄していた。さすがに今回はそこまでは書いてないものの、各国の改正数の多さをあげ、日本の憲法は"遅れている"と、子どもたちに印象づけようとしている。しかし、各国ともに改正は基本原則にかかわるものではないことには触れず、右派が「憲法9条」という平和主義にかかわるものを変えようとしていることと、同じレベルではとらえられないことは巧みに隠しているのである。

3 日本国憲法の三原則を歪めて記述
(1)「国民主権」より、「天皇の役割」を詳しく説明
そもそも育鵬社は「国民主権」の項の題名が「国民主権と天皇」となっており、「国民主権」より天皇についての説明が断然多い(p.42〜43)。そこでは、「天皇は国の繁栄や国民の幸福を祈る民族の祭り主として、古くから国民の敬愛を集めてきました」と、憲法の規定にはない説明までしている。
育鵬社の公民教科書には天皇の写真が多く6枚ある。これは他社が1〜2枚であることにくらべると非常に多い。なかでも、p.37の「日本国憲法の基本原則」の扉の大きな写真は、天皇が鳩山総理大臣を任命している場面であるが、総理大臣がうやうやしく天皇から任命書を受け取る姿によって、あたかも天皇が総理大臣の上に立つ「国家元首」であるかのような印象を与えようとしている。
さらに、p.159では皇居を訪問したアメリカのオバマ大統領が、90度腰を折って天皇に挨拶する写真まで載せている。この写真はアメリカでは「国辱もの」として大統領に非難が浴びせられたが、育鵬社はあえてこの写真を掲載して、大国アメリカの大統領ですら日本の天皇にはこのようにへりくだるものなのだと、天皇の権威づけに利用しているのである。
なぜ、育鵬社はこのように天皇を大きく扱うのか。ここ数年間、日本の政治は安定せず、総理大臣はくるくると変わってきた。右派が期待を寄せ、期待通りに教育基本法を変えた自民党の安倍総理大臣も長くはもたなかった。右派勢力にとって政治家はしょせん使い捨ての存在であり、「国民統合の象徴」足りえない。そのため、世俗を超えた存在として天皇を神格化し、天皇のもとに国民を統合しようと、天皇の政治的利用をもくろんでいるのである。

(2)「基本的人権」は軽視
 「基本的人権」については、他社の教科書では、守られるべき「基本的人権」について詳しく説明した後で、「公共の福祉による基本的人権の制限」についても触れるという構成をとっている。また、戦前の「治安維持法」などによる人権の抑圧の反省から、「人権の制限」は「必要な範囲で最小限に」すべきだとも説明される(たとえば、教育出版p.61)。
ところが、育鵬社は「公共の福祉による基本的人権の制限」から記述し、制限項目を大きく取り扱っている(p.46〜47)。これは日本国憲法の精神の否定にほかならない。
 なかでも、育鵬社がこだわるのは「性別役割分業」である。育鵬社は「男女の性差を認めた上で、それぞれの役割を尊重しようとする態度」が大切だと教える(p.53)。「夫婦同姓制度」は「家族の一体感を保つ働きをしている」(p.55)、「専業主婦」も「家族の協力のひとつのあり方」(同)といったように、従来の男女観・家族観を重視し、「ジェンダーフリー」を事実上否定するのが育鵬社である。
 また育鵬社は「外国人参政権」の付与について否定的である(p.63)。外国籍でも一定の条件を満たす住民、なかでも永住権を取得している人々には地方参政権を与える国は増えつつあり、日本でもその声は高まっているが、右派はそんなことをしたら、在日韓国・朝鮮人や中国人に地方政治が乗っ取られるとして強く反対している。実際には地方参政権を与えている国でそのようなことはおこっていないにもかかわらず、「参政権は国家の構成員のみに認められた権利」であると、排外主義的な主張をするのが育鵬社である。「参政権がほしければ日本人になれ。帰化しろ」というのである。
育鵬社は自らの排外主義を正当化するために、「EU市民権」についてもその立場から一面的な解釈をしている。「EU」では「EU」加盟国の市民であり、一定の居住期間を満たしていれば地方参政権が与えられている。これを正しいとすれば、日本の永住資格をもつ在日韓国・朝鮮人は当然地方参政権を与えられてしかるべきである。にもかかわらず、むしろ制限している例として「EU」を取りあげるのは誤りである。

(3)「平和主義」を否定し、「国防」の意義を強調
 「平和主義」の項目は、他社が過去の戦争の反省から「憲法第9条」の意義から説明するのとは異なり、「自衛隊」と「国防」の意義の説明が大半を占める(p.48〜49)。「兵役の義務」を課した各国の憲法を紹介し、それが"世界の常識"であるかのような印象を子どもたちに与えようともしている。他社の教科書のなかには軍隊を廃止したコスタリカの憲法を紹介したものもある(たとえば教育出版p.65)のとは大きなちがいである。
 育鵬社はさらに、「日本の安全と防衛」という項目を設け、北朝鮮による「拉致」問題を、人権問題というよりは「国家の主権が侵害された」事件として、中国の原子力潜水艦の領海侵犯事件と同列に扱い、日本の「防衛力」の弱さの証明に利用している(p.172〜173)。北朝鮮と中国の脅威を煽り、それに備えて軍備力の強化が必要であることを強調し(p.168〜169)、また、「日本の国際貢献」として期待されているのは自衛隊による軍事貢献であるかのようにも解説している(p.170〜171)。
 自衛隊と最新兵器の写真が満載で、9枚もあるのも突出している。グラビアで「世界平和の実現に向けて」と題名をつけておきながら、「領土」「テポドン」「拉致」と「自衛隊」の写真ばかりというのも異様である。小泉もと首相の靖国神社参拝の写真を載せているのは育鵬社だけである。
「平和」は軍事力によってしか守れないと教え、子どもたちを戦争へと導く危険な教科書が、育鵬社公民教科書である。

4 貫かれているのは、「個人」より「国家」を重んじる「国家主義」
 育鵬社公民教科書は、学習に入る前に「公民とは何か」を詳しく論じている(p.5)。「公民」とは「公の一員として考え、行動する人」のことであり、そのような「公民意識を身につけることこそが公民学習の狙い」であるという。ケネディ大統領の「国があなたのために何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国のために何ができるかを問おう」という有名な就任演説も引用している。
 これらは一見正しいようではあるが、「公の一員」である前提には「個人の確立」が必要であるというのが近代社会の常識である。「個人の人権の保障」抜きに「公の一員」であることを強制するなら、それは全体主義であり、ファシズムである。ケネディ大統領の言葉は、国に対して受け身ではなく、積極的に国民が政治に関与していこうという呼びかけ以上のものではないにもかかわらず、育鵬社は意味を歪めて引用している。
 「個人」と「共同体」の関係をわかりやすく表したものに「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉がある。このたびの東日本大震災においてはまさしくこの精神が発揮されたが、「個人」と「共同体」は対等であり、双方向の関係にあるのが本来の姿である。「共同体」を「国家」と置き換えても同じことである。
 しかるに現実の「国家」は一部の政治家や官僚および財界に牛耳られ、「国家」の構成員の大部分をしめる大衆の願いはなかなかかなえられない。そのようななかで「国家」を「個人」より重視すれば、「個人」は踏みにじられ、ファシズム社会が到来するしかない。
 育鵬社は「国家と私」という項目をもうけ、「国家」の重要性を子どもたちに教えている(p.32〜33)。「私たち国民は国に守られ、国の政治の恩恵をうけています」、「国家に保障された権利を行使するには、社会への配慮が大切であり、そして権利には必ず義務と責任がともないます」と、あくまでも「個人」より「国家」を重視すべきだと教えているのである。
 戦前、「国家」の名のもとに戦争に突入し、若者たちが「お国」のために他国民の命を奪い、自らの命も失った悲惨な過去を反省するなら、「国家」優先の「国家主義」がいかに危険なものであるかがわかる。しかし、戦争そのものでなくとも、育鵬社はさまざまな課題で「国家」優先を子どもたちに押しつける。
育鵬社が「国家規模の政策については、どのように考えればよいのでしょう」と問いかけるのは、「原子力発電所の開発計画」の是非である。ここでは結局「建設を受け入れる」という「合意」に導いている。
 東日本大震災にともなう福島第一原発の放射能被害がどこまで拡大するのか、被災者のみならず全国の人々がおびえているにもかかわらず、「国策」の名のもとに、今なお原発を子どもたちに押しつけようとする育鵬社公民教科書を怒りなくしては読めない。このような教科書をあえて採択した教育委員会は子どもたちにどのような責任をとるのか。p.33だけをとっても、育鵬社公民教科書は絶対に子どもたちに渡してはならない教科書であることはあきらかである。

5 「国旗・国歌」への忠誠を強制
 育鵬社は「国家としての一体感を守り育てることは大切であり、そのためにあらためて国民意識が必要となる」という(p.158)。この「国民意識」、「国家としての一体感」を生み出す道具として活用されるのが「国旗・国歌」である。
 人は誰でも何らかの集団に所属しており、帰属意識ももっている。慣れ親しんだ集団のシンボルである「旗」や「歌」に素朴な愛着心を持つのは自然な感情である。スポーツの国際試合で「日の丸」を振って日本チームを応援し、勝って「君が代」が演奏されればいっしょに口ずさむのも自然な態度であろう。しかし、だからといってあらゆる場面で「国旗・国歌」に忠誠を誓わせるのが正しいわけではない。
 現実の「国家」にはさまざまの立場の人がいる。国家によって踏みにじられている人々は素直にその「国家」を愛し、「国旗」を仰いで「国歌」を歌えるだろうか。ましてや、強制的につれて来られたり、何らかの事情で他国で暮らさざるをえない人たちは、過去の戦争を強く想起させる「日の丸・君が代」を素直に受け入れることはできないだろう。にもかかわらず、在日の子どもたちも含めて子どもたちに「日の丸・君が代」を押し付けているのが文部科学省である。
 育鵬社はこの文科省の意を受けて、「国旗・国歌」を尊重しない日本の若者を批判し、サッカーのラモス選手に「君が代」をちゃんと歌わない日本人選手を批判させている。また、星条旗に向かって忠誠を誓うアメリカの子どもの写真を掲載し、日本の子どももこうすべきだと教えている(p.160〜161)。
 2001年の9.11直後、アメリカでは写真にあるように「愛国心」が鼓舞され、「テロリストとの戦い」のためにアフガニスタン、イラクへと戦争を拡大していった。しかし、それがベトナム戦争同様、アメリカを底なし沼へと引きずり込み、双方に大きな犠牲をもたらした。だが、育鵬社はそのような「愛国心」の行き着いた先のことは、決して子どもには教えない。
 「国旗・国歌」が強制される時代が、戦争につながる危険な時代であったことは、歴史が物語っている。

6 「領土」問題で、他国との対立を煽る
 文部科学省は新学習指導要領の解説書(地理的分野)において、「竹島(韓国名独島)」についても「北方領土」と同様に記述するように指導した。その結果、今回「竹島は日本の固有の領土である」とか「韓国が不法に占拠している」と記述する教科書が増えた。また、「尖閣諸島(中国名釣魚島)」についても、2010年9月の漁船衝突事件をきっかけに、文部科学大臣が教科書に記述することを約束し、「中国が領有権を主張している」と記述する教科書が増えた。
 「竹島」については、地理の解説書で指示されていることからして、公民教科書で書く必要はない。にもかかわらず、多くの社が公民でも書いたのは、自由社・育鵬社が地理教科書を発行しておらず、公民教科書で「領土」問題を書くことに対抗してのことであると推測される。教育出版は歴史教科書でも書いている。
 しかし、その取り扱い方において、育鵬社は突出している。グラビアに3つの「領土」の写真を大きく掲載し、本文では外務省のウェブサイトの文を引用して日本政府の主張をそのまま載せて、子どもたちが相手国に強い反感をもつように煽っている(p.157)。
 そもそも、この3つの「領土」問題は日本の侵略戦争と深くかかわって生み出された問題である。「尖閣諸島」は日清戦争において、戦況が日本に有利にかたむいた1895年1月に沖縄県への編入を閣議決定したものであり、「竹島」は日露戦争の真っただ中の1905年1月に日本海海戦にそなえた望楼建設の必要性から島根県への編入を閣議決定したものである。特に「竹島」はその後の韓国併合に先駆けて日本の領土に編入したものであるから、日本が戦後「竹島」を放棄せず今も領有権を主張することに、韓国では非常に反発が強い。
 また「北方領土」は、日本が早期にポツダム宣言を受諾していれば旧ソ連軍による占領を招くこともなかった問題である。旧ソ連に近いという地理的関係からして、アメリカ軍が占領し、戦後は沖縄と同じような経過をたどったのではないかと推測されるが。
 いずれにしても「領土」問題は日本、相手国双方ともに経済的な利害が絡む問題であり、関係者にとっては切実な問題である。特に「排他的経済水域」が設定されている今日では、小さな「岩」でも領有にこだわるのは、「沖の鳥島」を日本政府が死守していることからもあきらかである。だがそうであるがゆえに、「領土」問題は政府間の冷静な話し合いによって解決するほかはなく、現にこれまでも漁業交渉やビザなし交流などがおこなわれてきた。
 歴史的経過を教えず、「固有の領土」論を主張する日本政府の立場だけを教えるのは、子どもたちに友好国への反発を根づかせるだけであり、百害あって一利なしである。こんな教科書で学んだ子どもたちはアジアの人々との友好を築くこともできないだろう。
 育鵬社が「領土」問題で相手国への反感を煽るのは、「領土」問題が国民のナショナルな感情を刺激し、いざ戦争となったときに燃えやすい課題であるからにほかならない。戦争をするためには「大義名分」が必要だからである。
 また、育鵬社は中国と北朝鮮を「人権侵害国家」としてとりわけ大きく取りあげている。戦争をするためには「敵」が必要だからである。

7 経済
(1)労働者の権利、社会福祉は軽い扱い
前回(1998年)の学習指導要領の改訂によって、「経済」の分野では国民を「労働者」というよりもっぱら「消費者」として扱う教科書が増え、競争を前提とした新自由主義的な経済を肯定する記述も増えた。しかし、その後の「格差」「ワーキングプア」の増大という社会情勢を反映して、今回は「非正規雇用」などの労働問題を詳しく扱ったり、社会福祉のあり方を詳しく記述する教科書が増えた。
しかし、育鵬社公民教科書はそれらに関する記述は他社にくらべて少なく、掘り下げもない。「専業主婦」を美化していることからして、女性の結婚による退職の状況を表した「M字型雇用」のグラフも取りあげていない。

(2)「財政再建」では、橋下大阪府知事を絶賛
 育鵬社は「財政再建」に短期間で成功した例として、橋下知事を大きく取りあげている(p.139)。「職員給与を都道府県最低水準まで引き下げ」「建設事業費を大幅に削減」「市町村補助金の削減」を成功した政策として絶賛しているのである。だが、この結果、大阪府では教員採用試験の受験者が集まりにくくなり、教育現場では非正規雇用の教職員が急増し、そのうえ雇用条件が悪いため、産休・育休・病休の代替者も見つからず、授業ができない、担任がいないといった学校が急増した。しかし、育鵬社はそのような負の側面はまったく取りあげないのである。

(3)エネルギー政策では「原発」推進
 先に、育鵬社は「国策」と称して「原発」を子どもたちに押しつけていることを述べた。これはそもそも文部科学省が政府・経済産業省からの要請を受けて、「原子力発電」を肯定的に記述するように指導していることにもとづいているが、それでも他社は「原発」の危険性をできるだけ記述しようとしている。たとえば教育出版の場合は「原子力発電は、日本でも発電量の約30%を占めています。一方で、いったん事故が起こると重大な被害が発生することや、放射性廃棄物(使用済み核燃料など)の処分に慎重な対応が必要なことなど、課題も残されています」(p.184〜185)と記述している。
 それに対して育鵬社は、「原子力発電は、地球温暖化の原因となる二酸化炭素をほとんど出さず、原料となるウランをくり返し利用できる利点があります。そのため、石油等を輸入にたよる日本では重要なエネルギー源となります。今後は安全性や放射性廃棄物の処理・処分に配慮しながら、増大するエネルギー需要をまかなうものとして期待されています」と、電力会社・経済産業省の見解をそのまま載せている(p.178〜179)。
 それだけではない。p.33では、「原子力発電については、原子力産業の発展や安全性、環境問題や資源問題、エネルギー保障、軍事保障などを総合的に考える必要があります」と、「軍事保障」つまりは「核武装化」にまで言及している。福島の事故によって「脱原発」が大きな世論となってきているなかで、今なお「それでも原発は必要だ」と言いつのる政治家や財界人がいるのは、「原発」がもたらす利益の大きさだけでなく、将来日本の「核武装化」を視野に入れているからである。育鵬社がだれの利益を代弁しているのかが、ここからもあきらかである。

8 こんな教科書では社会科の学力はつかない
(1)ディベートは、右派が注入したい偏ったテーマばかり
 最近、新聞を使った「NIE」の授業や、ディベートの授業が、しばしば取り入れられている。育鵬社も新聞の社説から賛成反対の記事を取り、ディベートを子どもたちにやらせようとしているが、設定されているテーマは右派が強く世論を誘導しようとしてきたものばかりである。(p.80〜81)。
[1] 「子どもの権利条約(条例)」―子どものわがままを助長するとして、「教育再生機構」が反対キャンペーンを張ってきた。
[2] 「教育基本法改正」―日本会議などの右派が働きかけ、安倍内閣当時に実現。
[3] 「選択的夫婦別姓法案」―家族の一体感を壊すとして、今も右派は反対している。
[4] 「外国人参政権法案」―日本の主権が脅かされるとして、右派は反対。
[5] 「インド洋での海上自衛隊の補給支援活動終了」―民主党政権が終了させたことに自民党は強く反対した。
 育鵬社はいうかもしれない。賛成反対の両方で意見を闘わせるのであるから、偏らない討論ができると。だがこのようなテーマばかりを選んで、実は右派の主張を子どもに聞かせることに狙いがあるのだ。半分の子どもは右派の主張側で論陣を張るのであるから、それを自分のものとして取り込む可能性も十分ありうる。それこそが狙いであるともいえる。
 このような手法は、「つくる会」の創設者のひとりである藤岡信勝氏が「自由主義史観研究会」を名乗っていたときに、「大東亜戦争は是か非か」などのテーマでディベートをさせ、侵略戦争を正当化したのと同じである。

(2)およそ深まらない「対立」と「合意」
 新学習指導要領において文部科学省は「現代社会をとらえる見方や考え方」を身につけさせるために、「対立と合意」、「効率と公正」について理解させることを指示した。そのため各社ともにいろいろなテーマで話し合いの仕方を教えるページを設定しているが、なかでももっとも多くのページを割いているのが育鵬社である。
 「家族と私」(p.28〜29)、「地域社会と私」(p.30〜31)、「国家と私」(p.32〜33)、「世界と私」(p.34〜35)というテーマで、「対立」から「合意」に至る過程を詳しく説明している。
 「世界と私」という項では「給食の残飯がもったいない!」ということをきっかけに、「私たちの食料事情は世界にどのような影響をあたえているのでしょう」と大きなテーマにチャレンジしている。話し合いの中で、日本は食料自給率が低いことや、世界には飢餓で苦しんでいる人がたくさんいることに子どもたちは気づいていくのであるが、「合意」は給食を食べ残すのはもったいないので「給食完食運動」をおこなうというものであり、「毎日の食生活が世界と関係していたということを実感した」というのが結論だというのだからあきれてしまう。これでは小学校低学年レベルではないか。
 中学3年生の授業なのであるから、「日本の食料自給率が低い」ことに気づいたのなら、そこからいろいろな方面に考察を広げ深めていけるはずである。「なぜ低くなってしまったのか」「なぜ農業に従事する人が少ないのか」「政府の農業政策はどうなっているのか」など、政治にも経済にも国際情勢にも広げて考え、子どもたちなりの提言もできるはずである。「世界には飢餓で苦しんでいる人がたくさんいる」ことに気づいたのなら、「そこはどこなのか」「なぜそんな問題がおこるのか」を、それまでに習った地理的・歴史的知識も活用して考察できるはずである。
 せっかく作ってもらった給食をきちんと食べることは栄養の面からも、モラルの面からも必要なことであるから、「完食運動」を悪いとは言わないが、道徳の授業ではないのだから、あまりにもお粗末な結論だろう。しかし、これも「あらゆる教科で道徳教育をおこなう」ことが文科省の方針であるから、許されるのかもしれないが。

9 沖縄を軽視
 育鵬社公民教科書の表紙の日本列島の写真には、沖縄が欠けている。「北方領土」はあっても沖縄がない。沖縄の米軍基地について、沖縄の負担の大きさや基地被害についてもまったく取りあげていない(p.169)。日米安保同盟のためには沖縄の犠牲はやむをえないというのが育鵬社である。

<付>教科書の案内人として、どこの教科書もアニメのキャラクターを載せている。育鵬社の男女生徒はなぜか学生服とセーラー服である。他社のキャラクターは自由服である。扶桑社版では自由服のキャラクターだったのに、今は少なくなった学ランとセーラー服というのはいかにも古臭い。育鵬社公民教科書は日本の伝統文化をたくさん取り上げているが、これも日本の伝統的な服装のひとつというのだろうか。