[シリーズ]沖縄にも、大阪にも、どこにも米軍基地はいらない(その3)
辺野古新基地建設計画と海兵隊駐留にこだわった日本政府

 本シリーズ(その1)で、伊波宜野湾市長が明らかにした資料によって沖縄駐留海兵隊のグアム全面移転が計画されている事実が暴露され、辺野古新基地が不要であることが明らかになったという内容を取り上げました。
[シリーズ]沖縄にも、大阪にも、どこにも米軍基地はいらない(その1) 海兵隊のグアム全面移転で、普天間の代替地としての辺野古新基地は必要ない (リブ・イン・ピース☆9+25)

 それでは、日米両政府は、なぜ06年7月に策定されたグアムへの海兵隊全面移転計画を隠してきたのか。つまり、米海兵隊本隊が沖縄に残るかのような嘘をついてまで、キャンプ・シュワブの辺野古新基地建設に固執しなければならなかったのでしょうか。
 この問題を考える上で一つ重要なことは、現在のような形での辺野古新基地建設計画は日本の側からの要請が強く反映している事、そしてまた沖縄海兵隊の全面移転の動きに対してブレーキをかけ司令部の移転だけにとどめたい、あるいは少なくとも全面移転が公になり辺野古新基地建設が白紙になるような事態は避けたいと考えてきたのは、日本の側であったのではないかということです。事態の進行はストレートではなく、様々な要因が絡み、紆余曲折をたどったと思われますが、以下で重要な事実について紹介したいと思います。

04年末から05年春、日本側は「海兵隊が引き続き、日本防衛に貢献できる場所」へ移設されるよう要請
 この点で、8月2日の沖縄タイムスの記事は、普天間問題が協議されていた04年末から05年春ごろ、日米交渉の場で、「普天間移設問題とは別に、沖縄からの海兵隊削減が議題に上った」という事実を伝えています。後に米軍はグアムを西太平洋上の一大拠点として構築することを決定し、2006年に米海軍省グアム統合計画室(JGPO)を設置します。そこから朝鮮半島や東南アジア、オーストラリアまで3〜6時間で飛行できるグアムを集約の拠点としていく計画が進められていく事になります。
 この交渉に関わった国務省、次期日本部長のケビン・メア氏によれば、海兵隊の移転地の選定について、日本側が「海兵隊が引き続き、日本防衛に貢献できる場所」への移設を求めたと語っています。そしてJGPOによると、当初海兵隊の移転候補地は日本国内だけでなく、米本土やハワイ、韓国、フィリピン、シンガポール、オーストラリアまで挙がっていたと言います。そして最終的にグアムへと収斂されていきます。
 
 04年末から05年春というのは、日米安全保障協議委員会(「2+2」)の共同発表(2005年2月)が行われるまさにその時期です。共同発表では「在日米軍の兵力構成見直し」「沖縄を含む地元の負担を軽減」が入っていますが、その中身として「沖縄からの海兵隊削減」が議題に上り、日米間で激しい駆け引きが行われていたことが分かります。この時点では、「グアム移転」という具体的中身には言及されていません。そして海兵隊司令部の移転が打ち出されるのが2005年10月の「中間報告」。その約半年後の2006年5月「ロードマップ」(「最終報告」)に、米軍のグアム拠点化方針に基づき、難解な表現で海兵隊本隊移設が記述される事になります。この過程には、米軍事戦略をめぐる変遷と、日本側の「海兵隊が引き続き、日本防衛に貢献できる場所」という要望への配慮が関わっているものと考えられます。
グアムに実戦部隊 在沖海兵隊も連動か 米軍統合計画(琉球新報)

 「ロードマップ」(最終報告 2006年5月)、「日米同盟:未来のための変革と再編」(中間報告 2005年10月)、日米共同声明(2005年2月)における、米軍再編・海兵隊のグアム移転の記述のされ方は以下のとおりです。

2005年2月
「2+2」共同発表 「同盟の変革:日米の安全保障及び防衛協力の進展」
「在日米軍の兵力構成見直し」
「沖縄を含む地元の負担を軽減」

2005年10月
「日米同盟:未来のための変革と再編」(中間報告)
「第3海兵機動展開部隊(VMEF)司令部はグアム及び他の場所に移転され、また、残りの在沖縄海兵隊部隊は再編されて海兵機動展開旅団(MEB)に縮小される。この沖縄における再編は、約7000名の海兵隊将校及び兵員、並びにその家族の沖縄外への移転を含む。これらの要員は、海兵航空団、戦務支援群及び第3海兵師団の一部を含む、海兵隊の能力(航空、陸、後方支援および司令部)の各組織の部隊から移転される。」

2006年5月
「再編実施のための日米のロードマップ」(最終合意)
「約8000名の第3海兵機動展開部隊の要員と、その家族約9000名は、部隊の一体性を維持するような形で2014年までに沖縄からグアムに移転する。移転する部隊は、第3海兵機動展開部隊の指揮部隊、第3海兵師団司令部、第3海兵後方群(戦務支援群から改称)司令部、第1海兵航空団司令部及び第12海兵連隊司令部を含む。」

2006年7月
「グアム統合軍事開発計画」
2006年7月に、米太平洋軍司令部は、「グアム統合軍事開発計画」を策定し、同年9月にホームページに公開した。その中に「海兵隊航空部隊と伴に移転してくる最大67機の回転翼機と9機の特別作戦機CV−22航空機用格納庫の建設、ヘリコプターのランプスペースと離着陸用パッドの建設」の記述がある。すなわち普天間飛行場の海兵隊ヘリ部隊はグアムに移転するとされた。
宜野湾市ホームページよりの引用)

 結局日米両政府は海兵隊のグアム全面移転を進めながら、それとは全く関係のない辺野古新基地建設を「パッケージ」させ、あたかも辺野古基地新建設がグアム移転の前提であるかのように振る舞ってきたのです。
 米側にとって辺野古基地は、沖縄に日本の予算で有事利用の海兵隊基地を作ってもらえる、在沖縄米軍基地の北部地域を中心とする近代化、巨大化を成し遂げるというメリットがあり、日本の要求にも合致するという意味があったのです。

98年にも、辺野古新基地について、「沖縄の戦略的位置」を理由にするよう日本側が要請
 これまで普天間基地が県内移設となったことについて日本政府は、「沖縄の戦略的位置」「沖縄の海兵隊インフラ」など、米軍の軍事戦略上の必要性、米側の要請を理由としてきました。ところがこのことについても、日本側からの要請であったことを明らかにする事実が分かってきました。 11月15日付琉球新報は、1998年3月のある日米非公式協議で、普天間飛行場移設をめぐり、キャンベル米国防次官補代理が、日本政府の決定次第では北九州など県外への移設が可能だとすることを日本側に伝えていたという事実を報じています。日本側はその場で、県外移設が不可能な理由について「沖縄の戦略的位置」を挙げましたがキャンベル氏はそれを打ち消し、地元の反対など政治的に移設先を準備できないためだと指摘したのです。しかも、日本側は県内移設の説明のために「米側の運用」を理由にして欲しいと要請し、これに対してキャンベル氏は即座にこの要請を拒否した上で、「北九州や四国への移設は可能か」とする日本側の問いにも「当然だ。沖縄以外にそのような場所があれば、われわれは瞬時に移駐を決断するであろう。」と答えたとされています。
 この中には、「県道104号越え射撃訓練の分散実施だけで、各地で騒ぎが起こっており、何千という海兵隊員の常駐を受け入れてくれる場所が一体日本のどこにあるというのか」(キャンベル)というような生々しい発言も含まれています。
 つまり、普天間県内移設・辺野古新基地に固執するのは、沖縄が戦略的な要衝だからではなく、海兵隊常駐を押しつけられるところは他にはないからではないのかとキャンベルは明言しているのです。そしてキャンベル氏は半ば恫喝するような形で、他で探せるものなら探してみろとばかりに迫っているのです。これに対して日本政府は、“沖縄が戦略上重要だから”という理由にしてくれと懇願しているのです。「各地で騒ぎが起こ」り、事件・事故が多発、深刻な住民被害を出している海兵隊をどこでもいいから受け入れろというキャンベルの対応も許せませんが、米の威を借る形で沖縄に犠牲を押しつけて決着させようとしてきた日本政府の対応も許しがたいものです。

わずか45メートルの海上ヘリパッド計画が、大滑走路建設計画に
 また、1996年の普天間返還合意の経緯を語った元国土庁事務次官下河辺氏の口述史実記録によれば、当時米軍側が要求していたのは、その後の基地拡大を予定していたとはいえ、ごく小規模の「面積的には4分の1」、滑走路も「45メートルのヘリコプターのセンターを作ればいい」と考えていたと言います。(下河辺氏はところどころで40メートル、50メートルなどとも語っていますが、いずれも当初の計画は小規模ヘリポートであったことを明言しています。)
※下河辺メモは、早稲田大学・江上教授によって2003年10月27日から11月25日まで下河辺淳氏に対して行ったインタビューをまとめたものです。

下河辺:今の普天間が、軍事的に設備が陳腐化したために、新しい軍事能力を新しい基地を作りたいっていうのが、海兵隊の本音なんですね。・・・米軍は移転したら45メーターでいいって言うんすからね。だから45メーターで移転する以外は、米軍考えなかったから、(1000メーター、2000メーターに)日本が延長したいなら、してもいいとはいってんですけどね・・・

 また、以下のようなやりとりもあります。

下河辺:普天間は移設しなけりゃ防衛上の役割は、果たせないっていうのが、海兵隊の結論ですから、移転って言うのは追い出されての移転ではなくて、軍事技術上の必要がある移転するわけですから・・・
江上:普天間基地が老朽化しているから、それで、新しい施設に移った方がいいということで普天間返還になるだろうなということ・・・
下河辺:だから面積的には4分の1で大丈夫って米軍は言っていたわけですよね。それが地元の市長さんたちが、軍民共用飛行場で、1000メーターの滑走路がいるからっていったから、小さい規模ではなくなっちゃったんですよね。
江上:このときの普天間返還合意は代替施設の条件付きでした。・・・
下河辺:移転と言うよりは、私は装備の近代化だと思うんですけどね。・・・
下河辺:女の子がレイプされ暴行したから、移転しますなんてことにはなんないですよ。・・・

 すなわち、一般に流布されている少女暴行事件とは関係なく、元々「軍事技術上の必要」「基地近代化」の必要から、小規模の新基地計画は事件以前から既定路線としてあったと言うのです。ここには、沖縄の反基地闘争への過小評価や基地被害の深刻さへの無理解がありますが、日米交渉の舞台裏を知る者としての、普天間返還の経緯が記されています。また別の所では、市街地にあり老朽化して危険な普天間基地を機動力のある新基地へ移転する計画は1960年代からあったとも言っています。
 同記録をまとめた早稲田大学・江上教授は「そこに地元側の要望で軍民共用飛行場で1000メートル規模の滑走路を造る、という流れになりました。工事で地元に金を落とせ、という建設利権が背景にありますが、V字滑走路という計画が出てきた背景には米側の思惑も見え隠れし、最終的には米軍の手の上で踊らされている」と述べ、「自民党のバラマキ政治の産物」に米側がつけ込んで巨大新基地計画にすり替えた、と結論づけます。
※『東京新聞』2009年10月30日・特報
下河辺淳氏オーラルヒストリー(琉球大学学術リポジトリ)

2009年12月21日
リブ・イン・ピース☆9+25