[投稿]映画『沈黙を破る』を観て
占領者と被占領者の双方の内面に肉薄し
普遍的な“占領”の本質を見事に描き出している

 映画『沈黙を破る』(土井敏邦監督作品)の上映がはじまっている。
 この映画で語られている内容は、昨年5月に出版された著書『沈黙を破る――元イスラエル軍将兵が語る“占領”』(土井敏邦著・岩波書店)の中心的部分である。土井氏のこの著書は、リブ・イン・ピースでも内容を詳しく紹介している。そこでは、「沈黙を破る」というグループをつくり活動しているイスラエル青年たちのことについて、そしてまた土井氏の取材や関心事について、次のように紹介している。

日本の戦争責任とも重なるパレスチナ問題
 2004年6月、「沈黙を破る Breaking The Silence 」という元イスラエル軍将兵の青年たちのグループによって、自分たちが占領地で体験したおぞましいこと、道徳的に許されないと思われることを、自ら撮影した写真で明らかにしようとする写真展が、テルアビブで開催された。このグループは、2000年9月末に始まる第二次インティファーダの中で新たに兵役に就くに至ったイスラエルの若者たちで、その写真展は大きな反響を呼び、およそ7,000人もの人々が訪れた。それは、イスラエル国内の有力紙でも紹介され、イスラエル社会に大きな衝撃を与えた。
 この「沈黙を破る」というグループの代表は、1982年生まれの青年で、2001年3月から2004年まで3年間の兵役に就き、戦闘兵士として、また後には指揮官として任務に就いた元将校である。このグループのメンバーは、同じような体験をし同じような思いをもつにいたった同世代の青年たちである。
 このグループの紹介パンフレットは、自分たちのことを説明しながら、次のように述べている。
 「『沈黙を破る』は、過去4年ほどの間にイスラエル軍に徴兵された元戦闘兵士たちが作り上げたNGOです。占領地での兵役という体験、つまりパレスチナ人住民と対立し、日常レベルでその住民の生活に影響を及ぼすという体験が、個人として、また社会としても私たちを道徳的に崩壊させています。 ....
 占領地で兵役に就くことであらゆる将兵たちが“道徳”を失うという代価を支払っているという現実に、イスラエル国民は気づいてほしいのです。イスラエル国民の名において、しかも若い“伝達者”である将兵たちによって〔占領地で〕行われている行為に国民が向き合い直視し、その責任をとってほしいのです。自分たちの道徳の境界とは何か、そして自分たちの軍をどこまで正当化するつもりなのかを、国民は自らに問わなければなりません。」
  (中略)
 しかし、本書にはそれだけにはとどまらない重要な意義がある。“占領”ということのもつ普遍的な意味を明らかにすることを通じて、日本の戦争責任、加害責任の問題をとらえなおす重要な視点をも提示しているのである。そしてそれは、単に土井氏がパレスチナ問題からおしひろげ展開したというだけのものではないのである。土井氏は、実は早くから日本の戦争責任、加害責任の問題と格闘し続けてきた。それが本書の「あとがき」で詳しく明かされている。
 土井氏は学生時代に、広島の被爆者富永初子さんと出会い、2002年夏91歳で他界されるまで親密な交流をされていた。その富永さんを通じて韓国人被爆者のことを知り、1982年にはその取材に韓国を訪れた。さらに富永さんが「ナヌムの家」を訪れたいと切望しながらドクター・ストップで訪問を果たせないでいることを知り、1994年に富永さんに代わって「ナヌムの家」を訪れ、それ以降そこのハルモニたち、とりわけ姜徳景(カンドッキョン)ハルモニの生涯を追い続ける取材を行なってきたのである。
 そして、自分が追い続けてきた二つのテーマが、今回ついにしっかり結びついたことが次のように述べられている。「パレスチナ・イスラエル問題と日本の加害歴史の問題。まったく分離した関連のないように見えた私のなかのこの二つのテーマに、初めて明瞭な接点を与えてくれたのが、この『沈黙を破る』の元イスラエル軍将兵たちの証言だった」と。
(リブ・イン・ピース 「普遍的な“占領”の本質をえぐり出す」紹介:『沈黙を破る――元イスラエル軍将兵が語る“占領”』より)

とらえている事象そのものが人の心を揺り動かす
 日本の戦争責任・加害責任の問題については、それが土井監督の関心事としてあるということは、映画の中には出てこない。映画は、パレスチナ・イスラエルの現地の映像と人々の語りが淡々とつづられているだけである。しかし、日本の過去と現在の重大問題に通ずるということを感じ取る人は多いのではないだろうか。映画が終わった後で挨拶に立たれた土井氏は、日本の戦争責任・加害責任、とりわけ日本軍「慰安婦」問題について、ご自身が深い関心と関わりをもってきたことも語られたが、映画は普遍的な意味をもつ作品に仕上げたかったということを特に強調されていた。その意図は見事に結実しているのではないかと感じた。
 映画パンフの中の「監督の言葉」では、次のように語られている。
 「彼らの証言は、日本人にとっても「他人事」ではない。元イスラエル軍将兵たちの証言は、日本人の“加害の歴史”と、それを精算せぬまま引きずっている現在の私たち自身を見つめ直す貴重な素材となるからだ。…… 日本人である私が元イスラエル軍将兵たちの証言ドキュメンタリーを制作する意義は、まさにそこにある。」「しかしこの映画は、作り手の私のそんな意図を越えて広がっていくに違いない。元将兵たちの証言に、アメリカ人はベトナムやイラクからの帰還兵を想うだろうし、ドイツ人はアフガニスタンに送られた自国の兵士たちと重ね合わせるだろう。」
 まさにその通りで、私は、日本の戦争責任・加害責任の問題と重ね合わせて観ただけでなく、映画「冬の兵士」を観たときのことも思い出した。イラクに派兵されたアメリカ軍兵士たちが現地での自分たちの非人道的行為、残虐な行為を赤裸々に語り、反戦運動に立ち上がった、その様子を克明に描いた映画であるが、観はじめてすぐにパレスチナのことかと思うぐらいよく似ていると感じ、グイグイと引き入れられたのを覚えている。
(映画「冬の兵士」については、リブ・イン・ピースの連載参照:「シリーズ『冬の兵士――良心の告発』を観る」

 「沈黙を破る」の映画パンフレットに収録されている土井敏邦監督へのインタビュー記事に、「音楽もナレーションもありません。どのような意図がありましたか。」という問いがある。これを読んだときはじめて「え、そうだったのか」と気づかされたが、その問いに土井氏はこう答えている。「ジャーナリストが選び撮った事象が本物なら、その事象そのものが人の心を揺り動かすはずです。」「私が理想とするドキュメンタリー映像やルポルタージュは、視聴者や読者を“現場へ連れていく”作品です。…… 現場にはナレーションも音楽もないのです。」と。

 書きたいと思うことがたくさんありながら、なかなか言葉にならない。それは、映像のもつ巨大な力に圧倒されて言葉を失っているというのが正直なところではないか、そう感じている。ぜひ、多くの人に観てもらいたい映画である。

2009年5月9日 (H.Y.)

【各地の上映情報】
大阪・第七藝術劇場にて5月9日(土)より公開
京都・京都シネマにて 5月23日(土)より公開
東京・ポレポレ東中野にて5月23日(土)より、『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人びと』全4作を公開
 (『沈黙を破る』は、土井敏邦による長編ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人びと』4部作の第4部です)
http://www.cine.co.jp/chinmoku/