12月27日からガザ地区への大規模な侵攻と大虐殺を行い、1,300人以上殺戮し6,000人以上の負傷者をだし、広範な地域をがれきの山にしたイスラエル軍は、米国の政権交代にあわせて1月17日からいったん撤収しましたが、いつでも再侵攻できる状態で国境付近に待機し、実際に小規模な侵攻と空爆を繰り返しています。ガザ地区150万人の生存を脅かすまでになっている封鎖は、国際的な批判が高まってきている中でも依然として続けられています。イスラエルに対して、封鎖解除を要求し、さらにパレスチナ占領体制そのものを終わらせることを要求していくことが、ますます重要となっています。 ガザ封鎖戦略は、兵糧攻めによってハマスとそれを支持するガザ人民を締め上げ屈服させるためにイスラエルが行う残酷な戦略であり、2006年1月、そして特に2007年6月の「第二のガザ解放」以降エスカレートし、従ってガザの窮状もそれまでとは違う新たな危機的段階に入りました。そもそもハマスは06年1月の自治政府の評議会選挙で民主的手続きを経て勝利した正当な政権政党です。ハマスの閣僚や幹部を殺害したり、またそれを支持し抵抗を続けているという理由で市民を飢餓に陥れるなど絶対に許すことが出来ません。 以下は、2006年1月にパレスチナ立法評議会でハマスが圧勝して以降の推移を系統的にあとづけ、イスラエルのガザ封鎖戦略の政治的意味を明らかにしようとしたものです。それ以前の歴史的経過についても簡単なメモを<付記>として添えました。 2009年2月10日 2006年1月立法評議会でのハマス圧勝と米・西側諸国・イスラエルによるハマス排斥攻撃 2006年1月、パレスチナ立法評議会(暫定自治区の議会)の選挙が行われた。これは、国際監視団の監視の下で行われ、米国も含む「国際社会」全体が正当と認めた選挙である。それを通してパレスチナ人民は、イスラエル・米国に屈服し妥協に妥協を重ねていくアッバス体制のファタハに見切りをつけ、パレスチナ難民の帰還権や占領地からの完全撤退などの原則を一歩も譲らないハマスに投票することによって、占領・抑圧に屈しないという意思表示を行なったのである。 ※反占領・平和レポート NO.44 (2006/2/10) 1/25パレスチナ立法評議会選挙 屈服を拒否したパレスチナ人民 大手メディアは、ファタハ自治政府の腐敗を暴きたてることで、ハマス勝利の意味を矮小化しようとした。しかし、ファタハ・自治政府の腐敗は、イスラエルの占領を前提にしてパレスチナ人民を屈服させることによって「和平」(=イスラエル型アパルトヘイト体制)を完成させようとする米国・イスラエル、それに同調するEUや国連などによって育成されてきたものである。米国をはじめとする「国際社会」が、援助という形でパレスチナ自治政府に金権腐敗体質を植え付けてきたのである。ハマスの勝利は、それら全体に対するパレスチナ人民の拒否の意思表示に他ならない。 ※「イスラエル型アパルトヘイト」については「反占領・平和レポートNo.30」参照(特にIIの(1))。 人民の正当な選挙によって選ばれ成立したハマス政権に対して、イスラエルはガザ地区の封鎖と財政的締めつけで応えた。米国をはじめとする「国際社会」は、イスラエルを支持し、アッバス・ファタハを支援することでハマスを排斥しようとした。ハマスには援助打ち切りによる経済的“絞殺”を恫喝に屈服を迫った。しかしハマスは屈服せず、パレスチナ人民はハマスを支持し続け、隷従と屈服を拒否したのである。 これに対して、米国とイスラエルはパレスチナ内戦まで煽りたて、占領体制に非妥協的なハマスが自治政府を主導するのを何がなんでも阻止しようと、あらゆる手段を使って策動した。だがそれらはことごとく失敗し、パレスチナ人民をいっそう固く結束させ、その闘争意欲を高めた。それと同時に、この新しい事態によってパレスチナ問題の全体、その本質、根本があらためて浮き彫りにされることになった。 現時点でのファタハとハマスの対立が意味するところは、次のことに他ならない。イスラエルによる一方的な「分離壁」建設強行に対して有効な反撃ができず、妥協に妥協を強いられ、パレスチナ難民を切り捨て、西岸とガザ地区に限定した「和平」を受け入れようとしていたファタハ主導の自治政府。それに対して、「分離壁」阻止、パレスチナ難民の帰還権、武装闘争を含む反占領闘争という原則を一歩も譲らないハマス主導の自治政府。 「分離壁」建設の中止、解体、1967年以降の占領地からの全面撤退と占領支配の全面終結は、パレスチナ問題の根本的解決の前提である。さらに1948年以降の度重なる中東戦争を通じて生み出されたパレスチナ難民の帰還権を含む、根源にまでさかのぼった問題の全体像が、今回の事態の中であらためて浮き彫りになったのである。 何度も繰り返されたイスラエルのガザ侵攻 06年6月末〜7月初、イスラエル軍は、人質になっているイスラエル兵の救出を口実に、ガザ地区を空爆し軍事侵攻を行なった。ガザ地区唯一の発電所と南北を結ぶ唯一の幹線道路を空爆で破壊し、南部と北部で侵攻し、ハマスの自治政府閣僚と評議会議員を数十名拘束してガザの自治政府の建物を破壊した。 ※反占領・平和レポート NO.46 (2006/7/3)イスラエル軍はガザ侵攻を即刻中止せよ!(署名事務局) この背景は非常に明瞭である。イスラエルと米欧諸国による「兵糧攻め」政策が行き詰まり、逆にパレスチナ人民は苦境の中でいっそう結束を固めた。それに対するイスラエルの焦りの対応であった。周辺のアラブ諸国では、民衆の怒りが高まり、それが何もしない自国政府に向きはじめた。それを背景に、アラブ諸国が「兵糧攻め」に反発するようになったのである。4月中旬には、アラブ連盟が各国にパレスチナ自治政府への財政支援を呼びかけた。さらにロシアも支援を表明した。イランは2月に早々と支援を表明していたが、それも実現へ向けて動き始めた。そのような新たな動きに加えて、5月中旬にイスラエル刑務所内で、ファタハ、ハマス、イスラム聖戦、PFLP、DFLPの主要5党派の合意文書が作成された。それがパレスチナ全域に広まり、6月27日にはファタハとハマスの間で対イスラエルの「政策合意」が行われ、パレスチナ人民が統一と団結に成功したのである。イスラエル軍による空爆は、まさにその翌日から開始された。事態はこれほどまでに明瞭であったが、大手メディアはイスラエルの発表をそのままたれ流した。 イスラエル軍によるガザ侵攻は、何度も繰り返し行われている。このすぐ後で述べる「第二次レバノン戦争」の最中にも行われたし、大手メディアで報じられなかったものはいくつもある。06年11月の侵攻のときには、イスラエルの平和運動諸団体が全世界に呼びかけて、1ヶ月にわたるキャンペーンと12月2日の世界同時抗議行動が行われた。イスラエルは、このように何度もガザ侵攻を行なっているが、ハマスを弱体化させることもガザの人々を屈服させることもできないだけでなく、逆にハマス政権と人民の結束を強めるばかりであった。 他方で、1月のパレスチナ立法評議会選挙でハマスが圧勝してから、イスラエルと米国は、ハマスにファタハをけしかけ対立を煽る策動を系統的に行なってきた。06年12月には、武力対立が一度表面化したが、それはハマスが抑え込み「内戦」には至らず、策動は失敗した。07年5月に再び「内戦」を煽る策動が本格化し、ハマスによるガザ地区からのファタハ放逐へと展開するのであるが、それはイスラエル国内において「第二次レバノン戦争」での敗北の責任追及をめぐる政局が厳しさを増したことと連動したものである。 「不名誉」な撤退に追い込まれた第二次レバノン戦争(06年7〜8月) 少しさかのぼるが05年4月のレバノン総選挙で、ヒズボラが14議席を獲得し閣僚を2人輩出することになった。イスラエルに対して軍事的な対決姿勢をとるヒズボラがレバノン政権に加わったことによって、2月の「シーダー革命」で親シリア政権が打倒され親米政権が樹立されたばかりなのに、それがほとんど無に帰する状況になった。そのとき以来イスラエルと米国は、レバノンを再び完全な親米・親イスラエルの政権に替えることを戦略目標のひとつにしてきたのである。 第二次レバノン戦争は、06年7月12日の空爆から始まった。生活基盤が大規模に破壊された。イスラエル兵の死者が500人以上にのぼった第一次レバノン戦争の二の舞を避けようと、イスラエル軍は、まず空爆によって侵攻する地域の周辺をすべて破壊し、地域ごと荒らし、インフラを破壊したうえで地上戦に突入した。しかしヒズボラの予想外の反撃に動揺し、「カナの大虐殺」を含めて軍事行動をいっそうエスカレートさせた。8月に入ってもう一度大規模な空爆を行なった後、予備役も動員して大々的な再侵攻を行なった。陸海空の封鎖による「兵糧攻め」の中で、発電所の破壊、幹線道路の破壊に加えて、ガソリンスタンドや商店まで破壊し、民間施設、病院、避難所も爆撃、攻撃した。また、国連施設を百数十回も攻撃した。レバノン人口の4分の1に相当する100万人が避難生活を余儀なくされ、33日間で民間人を中心に約1,000人が殺された。 イスラエルが再びレバノンに戦争を仕掛けた主たる目的は、ヒズボラの拠点を破壊し、ヒズボラを容認するレバノン政権を崩壊させ、親イスラエル政権を樹立することであった。それは、基盤が揺らいできたオルメルト政権の起死回生の賭けでもあり、手詰まりと苦境の中にあるイスラエル軍首脳の軍事的冒険主義によるものでもあった。さらにそれに、米国の事情が加わる。イラク戦争と「対テロ戦争」の行き詰まりの中で、ブッシュ政権は中間選挙で守勢に立たされていて、巻き返しを狙ってレバノンでイスラエルを使って勝負に打って出たのである。しかし見事に失敗に終わった。 ※レバノン侵攻におけるイスラエル敗北の軍事的・政治的意義===米・イスラエルによる中東覇権の行き詰まりと破綻 米国はイスラエルを全面的に支持・支援し、停戦を妨害し安保理で拒否権を発動した。米国・イスラエルは完全に孤立した。自らの力の過信、レジスタンスの力の過小評価、そして、もはや中東での力関係が大きく変化しはじめていることを捉えることも理解することもできなかったことが、米国・イスラエルの敗北の根本原因である。 イスラエルは、レバノン政権を崩壊させ親イスラエル政権を樹立するという目的も、ヒズボラを壊滅(または弱体化)させるという目的も全く達成できないまま、160人のイスラエル兵の死者を出し「不名誉」な撤退を余儀なくされた。オルメルト政権の支持率は侵攻当初の78%から26%に急落し、政権批判・退陣要求が強まった。 ※反占領・平和レポート NO.47 (2006/7/19)イスラエルは、レバノンへの侵略戦争――陸海空の軍事封鎖と大規模空爆、無差別殺戮――をやめよ! 07年6月「パレスチナ内戦」でのハマスの勝利と「第二のガザ解放」 レバノン侵攻の失敗の責任を追及されて1年近くを経て、オルメルト政権は、07年5月には政権崩壊の危機に直面した。そこで、苦境を打開するための何らかの成果を求めていた。それをガザ地区での「パレスチナ内戦」策動に求めた。米国の支援の下に、ガザ地区のファタハの治安組織に武器を大量供与し、ハマス政権の暴力的破壊を画策した。 しかし逆に、ハマスの治安組織によってダハラン率いるファタハの治安組織が壊滅させられ、中心人物たちは西岸やイスラエルに逃亡し、米国・イスラエルと結びついたパレスチナ内部の占領協力者がガザ地区から駆逐されてしまった。ハマスとガザの人々は、これを05年夏の「一方的ガザ撤退」に次ぐ「第二のガザ解放」と呼んだ。 ※反占領・平和レポート NO.53 (2007/7/1)米国・イスラエルによるハマス追い落とし策動の帰結:「第二のガザ解放」 結果として形の上では、ガザ地区と西岸地区の一体性が崩れ、「イスラエル型アパルトヘイト体制」の分断統治が完成したかにみえる状況になった。しかしその内実は、余儀なくされたもの、きわめて不安定なものである。そして、「オスロ合意」以降イスラエルが追求してきたものが「イスラエル型アパルトヘイト体制」であったことが誰の目にも明らかになってきている。そして、その崩壊の危機がおとずれはじめたのである。 ガザ地区での「パレスチナ内戦」は、イスラエルと米国がテコ入れしたファタハの治安組織が放逐されるという、イスラエルにとって予想外の展開となった。それに対して、イスラエルは封鎖強化で応じた。“青空監獄”に閉じこめた上でさらにいっそうの“兵糧攻め”でギリギリ締め上げたのである。 ※反占領・平和レポート NO.54 (2007/7/8)オスロ合意以降一貫して追求されてきたイスラエル型アパルトヘイト体制−−完成と崩壊の危機 封鎖解除の実力行使=エジプト国境の壁爆破と再封鎖(08年1〜2月) 08年1月23日、ガザ地区とエジプトとの境界で鉄の分離壁の一部が爆破され、数十万の人々が生活必需物資を求めてエジプト側になだれ込んだ。イスラエルのガザ封鎖に対する「国際社会」の批判も高まり、アラブ諸国の要請で1月22日には国連安保理の緊急会議が開かれ、西岸地区でもガザ封鎖に対する抗議デモが行われた。そのような圧力を受けてイスラエルは22日に、燃料搬入などの一時的封鎖緩和を行なうという中での出来事であった。ガザの状況は、断続的な停電から完全な停電にまで至り、食糧もほとんど底をつくところまできていたのである。 イスラエル政府はエジプトに対して早急に事態を収拾するよう求めたが、エジプト治安当局は大量に押し寄せたガザ住民を阻止する行動をとらず、ムバラク大統領も武器を所持しないガザ住民が日常品を購入するために往来することを許可するよう治安部隊に命じたと報じられた。アラブ世界ではガザ住民の窮状に同情の声がわき上がっていて、ムバラクも強硬手段はとれなかったのである。首都カイロではガザ住民支持のデモが行われ、500〜1,000人が拘束された。 1月25日になってようやくエジプトは、イスラエルと米国の強い要請を受けて再封鎖へ向けた国境管理に乗り出したが、新たな箇所で壁の破壊が行われて、再封鎖をいったん断念せざるをえなかった。この段階からオルメルト、アッバス、ムバラクらが頻繁に会談し、アッバス、ムバラクとハマスの会談も行われ、紆余曲折を経てエジプト治安部隊が壁の破壊部分をすべて再封鎖したのは2月3日のことであった。ハマスはエジプトに、07年6月以来封鎖されてきた検問所の再開と検問所管理へのハマスの関与を要求した。それに対してアッバスが米欧の支持を背景にハマスの関与を拒否し、対立したまま再封鎖は行われた。その後2月6日にイスラエルは、エジプト国境に強化フェンスを建設することを決定し、強引に再封鎖を強化していった。 ガザ大侵攻を準備した6ヵ月停戦(08年6〜12月) 08年6月、エジプトの仲介によりイスラエルとハマスの間で6ヶ月の停戦(6月19日〜12月19日)が合意された。当時大手メディアは、不正疑惑で窮地に陥っているオルメルト首相が連立与党からも退任圧力を受け、求心力を回復するために目に見える成果を求めて方針転換したのだと報じた。だが同時に、ガザへの大規模攻勢の可能性をちらつかせて政権の求心力回復を図っているとも指摘されていた。 後に明らかになったのは、この段階でオルメルト政権と軍は既にガザ大侵攻を決めていて、停戦はそのための準備期間にほかならなかったということである。イスラエルの『ハ・アレツ』紙が12月28日の報道で明らかにしたところでは、エフード・バラク国防相が軍に今回の軍事作戦の準備開始を命じたのは6ヵ月前、つまり停戦合意のころであった。その報道は、日本の大手紙の一部でも少し指摘された。もっとも、見逃しそうなほど小さな扱いではあったが。 7月30日にオルメルト首相は辞意を表明し、カディマ党首選が終わった直後の9月21日に正式に辞任したが、それと同時に次期首相が決まるまでの暫定首相となった。カディマ党首には外相のリヴニが当選し、新たな連立協議に入った。結局、10月下旬に連立協議は不調に終わり、解散・総選挙が行われることが確定し、その日程が09年2月10日と定められた。この間、オルメルトはアッバスと会談し、信頼醸成策としてパレスチナ人収監者の一部(アッバス・ファタハを強化する者たち)の釈放を行い、和平交渉の首脳会談を行なった。それらは、ガザ大侵攻の準備を覆い隠す煙幕でしかなかった。 11月に入って、イスラエル軍からの挑発が頻繁に行われはじめた。ハマスは停戦の期限である12月19日までは、ほとんど挑発に乗らず自制していたが、イスラム聖戦やファタハ系の武装組織などがロケット弾で応じ、それらが大々的に報道されて、イスラエルは何時攻撃を開始してもいいような状況を次第につくりあげていったのである。この6ヵ月の停戦の間、ハマスは攻撃を停止しイスラエルは封鎖を段階的に緩和していくということになっていたが、ハマスの攻撃停止は遵守されたのに封鎖はほとんど緩和されなかった。ハマスの側が停戦を延長しなかった最大の理由はそれである。イスラエルの側は、当初から大侵攻の準備期間であったのだから、延長を拒否したのは予定の行動であった。 このような事態の展開の中で、今回のイスラエルによるガザ大侵攻と無差別大虐殺が行われた。それは、第二次レバノン戦争のときと同じく、イスラエル兵の死傷者を出さないためには何をしてもかまわないという、全くの国際法蹂躙、非人道的暴挙によって貫かれているのである。 ※反占領・平和レポート NO.56 (2009/1/28) ガザの大虐殺を生み出したマッド・ボス作戦 <付記 1> 1987〜2005「第一次インティファーダ」から「一方的ガザ撤退」までの概略 1)1987年末からの「第一次インティファーダ」 ・ 1967年(第三次中東戦争)以来のイスラエルによる占領支配に対する、パレスチナ人民の反占領闘争の爆発。 ・ 古典的な占領支配は行き詰まり、占領の終結とパレスチナ国家の樹立を求める国際社会の圧力も強まった。その結果としての「オスロ合意」(93年)。 2)2000年9月末からの「第二次インティファーダ」 ・ 「オスロ合意」(93年)にもとづく和平プロセスがまやかしの「和平」であり、「イスラエル型アパルトヘイト体制」の構築に他ならないということが明らかになってきて、それを拒否するパレスチナ人民の不満と怒りが爆発。 ・ パレスチナ自治政府は、複雑で二面的な性格を抱えていた。腐敗が進行しイスラエルが望むような擬制国家の番人になりさがる側面と、パレスチナ独立のための闘いの拠点として機能する側面。「第二次インティファーダ」の爆発により、全人民的な闘争が展開する中で、自治政府の二側面のうち後者の方が前面に出て強まるようになった。 3)イスラエル軍による西岸地区への大侵攻(2002年3〜4月) ・ ジェニンの大虐殺をはじめとして、「第二次インティファーダ」を無慈悲に武力弾圧、圧殺。ブッシュ政権による「ロード・マップ」。しかし、それも行き詰まっていく。 4)シャロンの「一方的ガザ撤退」(2005年7〜8月) ・ 米国主導の中東和平の行き詰まりと、従来からの左翼の反占領闘争に加えて、兵役拒否運動や占領地での非人間的な支配、抑圧、弾圧の体験を語る運動などが、イスラエル社会の中枢を担うべき若者たちの間でも一定の高まりをみせ、支配層の間に危機感。そのような事態を前に、シャロンが打った“奇策”。シャロンは、ガザ地区を西岸地区と分離し、西岸地区は3つに分割し、あわせて4つのカントン(擬制国家)に分断して支配する体制を計画していた。形の上ではその完成に近づいた。しかしその内実は、余儀なくされた窮余の策という意味合いの方が強い。 <付記 2> 1948〜1982 略年表 ・1948年 第一次中東戦争(パレスチナ戦争) / イスラエル建国 ・1956年 第二次中東戦争(スエズ戦争) / スエズ運河の国有化を宣言したナセル大 統領のエジプト 対 英・仏+イスラエル ・1967年 第三次中東戦争(「六日戦争」「六月戦争」) / イスラエルが東エルサレム、西岸地区、ガザ地区、ゴラン高原、シナイ半島を占領。 ・1973年 第四次中東戦争 / オイル・ショック ・1982年 第一次レバノン戦争 / サブラ・シャティーラの虐殺 |