反占領・平和レポート NO.56 (2009/1/28)
Anti-Occupation Pro-Peace Report No.56
ガザの大虐殺を生み出したマッド・ボス作戦
「数十億の人々がイスラエルを血のしたたるモンスターとして見た」
――まわりすべてを破壊し、地域ごと荒らし、インフラを破壊し、行く手に立ちはだかるあらゆるものを粉砕し、動くものすべてを殺すことによって、自軍の死傷者なしの戦争を追求したイスラエル――

The “Mad Boss” Principle Which Brought About the Massacre of Gaza
“Billions of people have seen Israel as a blood-dripping monster.”
―― Demolishing whole neighborhoods, devastating areas, destroying infrastructures, pulverizing everything standing in its way, killing everybody moving in the areas. By doing so, Israel sought the war without casualties of its army. ――


今も侵略と虐殺は続いている
 イスラエル軍は、1月27日再びガザの南部ラファに空爆を加え、ハンユニス近郊で「掃討作戦」を展開したと伝えられています。「一方的停戦」に次ぐ「一方的空爆再開」であり、「一方的撤退」「一方的侵攻」など、イスラエルはガザとパレスチナに対して、軍事作戦をするのも人々を殺りくするのもいつでも気ままに行えるとでもいうのでしょうか。私たちは絶対に許すことはできません。
 直接的な軍事行動だけではありません。ガザはイスラエルによる「一方的停戦」以降も完全に封鎖され、食糧や生活関連用品など人々が最低限生きていくために必要な物資さえ全く入ってこない状況に置かれています。その意味でもまだ侵略と虐殺は続いているのです。イスラエルが一切の軍事攻撃をやめ、軍事的・経済的封鎖を今すぐ解くべきです。
イスラエル軍がガザ再侵入=交戦で2人死亡、再び戦闘本格化も(時事通信)
イスラエル:ガザの密輸トンネルを空爆 「報復措置」と軍(毎日新聞)

 今回のイスラエル軍のガザ地区大侵攻に対して、全世界で非難と糾弾の声があげられています。しかしイスラエル政府は、完全にそれを無視し居直ってきました。私たちは、まずもってそのようなイスラエルの姿勢を厳しく糾弾しなければなりません。さらに、そのような居直りが、米国をはじめとする日本も含めた西側諸国政府によって支持されていることで可能となっていることも、厳しく糾弾しなければなりません。オバマ大統領は22日、就任後はじめて中東情勢にふれたコメントで「我々はイスラエルの安全に関与することをはっきりさせる。脅威に対するイスラエルの自衛権を支持する」と、イスラエルによる大虐殺を容認し支持し続けることを明言しました。
オバマ大統領、イスラエル支持鮮明に(TBSニュース)

イスラエル国民の圧倒的多数が支持という異常さ
 イスラエル国内においては、国民の多くが、戦争を正当化する自国政府と諸政党の主張を信じ、翼賛的メディア報道を信じています(または信じようとしています)。しかし、少数ではありますが、自国政府に対して厳しい批判を行なっている人々がいます。占領に反対して平和反戦闘争を行なってきた「グーシュ・シャローム」のウリ・アヴネリ氏は、今回の「ガザ戦争」について、その意味するところを歴史的経緯もふまえながら深くとらえ明らかにしようとしています。その内容の概略を紹介し、後に抄訳を掲載します。

 アヴネリ氏は、今回の大虐殺を1982年のサブラ・シャティーラの虐殺と対比して、「今回のガザでの虐殺が1982年の出来事よりもずっと悪いということは明らかである。」と述べています。それは、イスラエル人の対応にも鮮明にあらわれていて、「あのときは、40万人のイスラエル人が家から出て、テルアビブで即刻の抗議集会を行なった。今回は1万人しか参加しなかった。」と指摘しています。
 また、圧倒的多数のイスラエル国民が支持している状況を、「道徳的錯乱状態( A moral insanity )」ととらえ、「鈍らされた感覚( Blunted Sensitivities )」がこの「ガザ戦争」で非常に明瞭になったとして、イスラエル国内の異常な雰囲気を次のように伝えています。
 「このようなことは、国中が鈍らされた感覚に感染させられていたのでなければ不可能なことであっただろう。人々は、もはや切断された赤ん坊の光景にショックを受けないし、 …… ほとんど誰も、もうこれ以上何に対しても関心を払わないようにみえる。」と。

自軍の犠牲なしに破壊し殺し尽くす“マッド・ボス”作戦
 さらに、このような事態にたちいたるまでの過程として、ホロコーストから引き出された教訓や国民的感情をベースに、第1次レバノン戦争(1982〜2000)、第2次レバノン戦争(2006)を経て行きついた指導部・戦争計画者たちの観点を明らかにしています。
 「この戦争の不道徳さを、歴史的な背景を考慮に入れることなしに理解することは不可能である。何といってもやはり、長年にわたってユダヤ人に対してなされてきたことで犠牲になってきたという感情、そしてホロコーストを経て、我々には自らを守るためには法律や道徳によるいかなる抑制もなしに、あらゆることをする権利があるという感情。」
 このような国民感情をベースにし、第1次レバノン戦争で、イスラエル兵士が500人以上死んだことをふまえて、「第2次レバノン戦争(2006)の計画者たちは、そのような長期の戦争と多数のイスラエル人死傷者を避けようと決めた。彼らは、『マッド・ボス(気が狂ったボス) mad boss』という原則方針を発案した。まわりすべてを破壊する、地域ごと荒らす、インフラを破壊する。 …… 」
 今回のガザ戦争では、それが究極にまで推し進められた。「イスラエル兵の生命は一人たりとも危険にさらさないこと。(我々の側の)死傷者なしの戦争。その方法は、我が軍の圧倒的な火器力を使って、行く手に立ちはだかるあらゆるものを粉砕すること、そしてそこで動くものすべてを殺すこと。 …… 」

 “マッド・ボス”作戦−−ここに、ガザ住民を袋小路に追い込んで集中砲火を浴びせ、わずか3週間で1300人もの人々を虐殺するという、イスラエルの侵略の歴史の中でもかつてない残虐な虐殺がなぜ行われたのかという理由があります。それはまた同時に、なぜイスラエル軍が予備役を含めて2万の兵員を擁しながら、ガザ中心部にまで攻め入ることが出来なかったのかという理由をも示しています。その限りで、アブネリ氏は「ハマスの勝利」に言及するのです。

 アヴネリ氏は、最後に、「この戦争の最悪の結果は、まだ目に見えるものにはなっていない。ここ数年のうちにようやく感じられるようになっていくだろう。イスラエルは、全世界の人々の意識に、自らの恐ろしいイメージを焼き付けた。数十億の人々が、我々を血のしたたるモンスターとして見た。 …… 」「今後何年も経つうちに、今回の戦争がまったくの狂気であったことが明らかになっていくであろう。」と結んでいます。

※「反占領・平和レポート」は、旧“アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局”で掲載していたパレスチナ情勢に関するレポートで、リブ・イン・ピース☆9+25がそのまま引き継いでいくことにします。
 過去のレポートは以下をご覧ください。
 パレスチナ 反占領・平和の闘い(署名事務局)

2009年1月28日
リブ・イン・ピース☆9+25

【抄訳】
ボスは気が狂ってしまった
(The Boss Has Gone Mad)
http://zope.gush-shalom.org/home/en/channels/avnery/1232152100/

09.1.17 ウリ・アヴネリ

(冒頭ハイネの詩を引用しての導入部、略)

 この戦争(今回のガザ大侵攻)で、政治家や将軍たちは、「ボスは気が狂ってしまった! The boss has gone mad ! 」という言葉を繰り返し引用した。もともとは、市場で野菜売りによって「ボスが気が狂って、トマトを損して売っている!」という意味で叫ばれた言葉である。しかし、いつしかこの冗談っぽい言葉が、イスラエルの公的論説にしばしばあらわれる命がけのドクトリンになってしまった。敵に思いとどまらせるためには、我々は狂人のように振る舞わねばならない、暴れ回らねばならない、無慈悲に殺し、破壊しなければならない、と。

 この戦争では、これが政治的、軍事的ドグマとなった。我々が「彼ら」を不均衡なほどに、「我々」の10人に対して「彼ら」の1000人を殺す場合にのみ、彼らは理解するであろう、我々とドンチャン騒ぎをやることがそれだけの価値のあることではないということを。それが「彼らの意識に焼き付けられる」(最近イスラエルでお気に入りになっている言葉)だろう。これからは、彼らは、我々にカッサム・ロケットを撃つ前に考え直すだろう、それが、先に我々がしたことへの対応である場合でさえも。

 この戦争の不道徳さを、歴史的な背景を考慮に入れることなしに理解することは不可能である。何といってもやはり、長年にわたってユダヤ人に対してなされてきたことで犠牲になってきたという感情、そしてホロコーストを経て、我々には自らを守るためには法律や道徳によるいかなる抑制もなしに、あらゆることをする権利があるという感情。

(中略)

 (1982年の第1次レバノン戦争でのサブラ・シャティーラの虐殺に触れた後、今回のガザ戦争にたちかえって)…… どれだけの女性や子どもが殺されたのかを今言うことは困難だが、今回のガザでの虐殺が1982年の出来事よりもずっと悪いということは明らかである。あのときは、40万人のイスラエル人が家から出て、テルアビブで即刻の抗議集会を行なった。今回は1万人しか参加しなかった。

(中略)

 「鈍らされた感覚(Blunted Sensitivities)」は、このガザ戦争で非常に明瞭になっている。

 第1次レバノン戦争(1982〜2000)は18年間続き、我が国の兵士は500人以上死んだ。第2次レバノン戦争(2006)の計画者たちは、そのような長期の戦争と多数のイスラエル人死傷者を避けようと決めた。彼らは、「マッド・ボス(気が狂ったボス) mad boss 」という原則方針を発案した。まわりすべてを破壊する、地域ごと荒らす、インフラを破壊する。33日の戦争で約1000人のレバノン人が殺され、そのほとんどが民間人であった ― 今回の戦争では17日目にすでにこの記録が破られたが ― 。だが、第2次レバノン戦争では、地上戦での犠牲者と世論の急速な変化に苦しめられた。世論は、最初は今回と同じような熱狂で戦争を支持したのだが。

 第2次レバノン戦争のくすぶりが、今回のガザ戦争に影を落としている。イスラエル人の誰もが、その教訓を学ぶと誓った。その主要な教訓とは、:イスラエル兵の生命は一人たりとも危険にさらさないこと。(我々の側の)死傷者なしの戦争。その方法は、:我が軍の圧倒的な火器力を使って、行く手に立ちはだかるあらゆるものを粉砕すること、そしてそこで動くものすべてを殺すこと。一方で戦闘員を殺すだけでなく、敵対的な意図を心にいだくようになる可能性のあるあらゆる人間をも殺すこと。たとえそれが救急車の乗員であろうと、食糧輸送の運転手であろうと、救命を行なっている医師であろうと。我が軍の部隊が考えられる限りで銃撃される可能性のある、あらゆる建物を破壊すること ― たとえ避難民や病人や負傷者でいっぱいの学校であっても ― 。近隣のすべての建物、モスク、学校、国連の食糧輸送車、さらに負傷者が中にいる廃墟さえも、爆撃し砲撃すること。

 メディアは、アシュケロンのある家に落ちたカッサム・ミサイルに数時間をついやした。そこでは3人の住民がショックを受けていた。そして、国連の学校で40人の女性と子どもが殺されたことには、多くの言葉をついやさなかった。そこから「我々は銃撃された」と言うが、その主張は、すぐに見えすいたウソと暴露された。

 火器力は、また、恐怖をまきちらすためにも用いられた。病院から国連の食糧貯蔵所まで、報道機関のある場所からモスクまで、ありとあらゆるところを砲撃することによって。その通例の言い訳は、「我々はそこから銃撃された」というものである。

 このようなことは、国中が鈍らされた感覚に感染させられていたのでなければ不可能なことであっただろう。人々は、もはや切断された赤ん坊の光景にショックを受けないし、破壊された家から離れることを軍が許さなかったために母親の死体と何日間もいっしょに放置された子どもたちにも、ショックを受けなくなっている。ほとんど誰も、もうこれ以上何に対しても関心を払わないようにみえる。兵士も、パイロットも、メディアの人々も、政治家たちも、将軍たちも、誰も気にしない。道徳的錯乱状態( A moral insanity )。その最も主要な象徴的人物は、エフード・バラクである。その彼でさえ、身の毛もよだつほど恐ろしい出来事について微笑みながら語るツィピ・リヴニに人気をさらわれるかもしれないのだが。

(中略)

 戦争を計画した者たちは、注意深くタイミングを選んだ。誰もが休暇中の休日の時に、そしてブッシュ大統領がまだ在任中に。しかし彼らは、どういうわけか決定的な日を考慮に入れるのを忘れた。バラク・オバマがホワイトハウスに入る次の火曜日を。

 この日は、今、事態に巨大な影を投げかけている。イスラエルのバラクは、米国のバラクがもし怒れば、それは災厄を意味するだろうということを理解している。結論:ガザのホラーは就任式の前に止めねばならない。あらゆる政治的、軍事的決定を規定したのは、就任式を前にした週だということである。「ロケットの数」でもない、「勝利」でもない、「ハマスを撃破した」ことでもない。

 停戦がおとずれたときの最初の疑問 : 勝者は誰か?

 イスラエルでは、今あらゆる議論が「勝利の姿かたち picture of victory 」− 勝利それ自体ではなく勝利の「姿かたち picture 」− についてである。それは、イスラエルの国民にすべてが価値あるものであったと確信させるためには、本質的なものである。現在この時点において、メディア関係のあらゆる人々がまさに最後の一人にいたるまで動員され、勝利の「姿かたち」を描き出そうとしている。対極の側では、もちろん、異なったものが描かれるであろうが。

 イスラエルの指導者たちは、2つの成果を誇るだろう。ロケット弾を終わらせたことと、ガザ=エジプト国境(いわゆる「フィラデルフィ・ルート」)を封じたこと。だがそれは、あやしげな成果である。カッサム・ロケットの発射は、パレスチナの選挙でハマスが勝利した後に我々の政府がハマスと交渉するつもりがありさえすれば、残忍な戦争がなくとも妨げることができたはずである。エジプト国境のトンネルは、我々の政府がガザ地区に致命的な封鎖を行わなかったなら、もともと掘られなかったであろう。

 しかし、戦争計画者たちにとっての主要な成果は、彼らのプランの残虐性そのものにある。彼らの観点では、残虐行為は長期間持続する抑止効果をもつ。

 他方、ハマスは、強力なイスラエルの戦争マシーンに直面して生き残ったということそれ自体が巨大な勝利である、と主張するだろう。古典的な軍事的定義に従えば、戦闘における勝者は、戦闘が終わったとき戦場に残っている軍である。ハマスが戦場に残っている。ガザ地区でのハマスの体制は、それを取り除こうとするあらゆる努力にもかかわらず、依然としてそのままである。それは、ハマスにとっての重大な成果である。

 ハマスはまた、イスラエル軍がパレスチナの町へ入ることに熱心ではなかったということも指摘するだろう。そこでは、ハマスの戦闘員が塹壕を掘って待ちかまえていたのである。そして実際、軍は政府に、ガザ市を制圧するためには約200人の兵士の命を犠牲にする可能性があると伝えていたのである。そして、政治家は誰一人として、選挙を前にしてそんなことはできはしなかった。

 軽武装の数千人の戦闘員というゲリラ勢力が、強大な火器力を持つ世界最強の軍隊のひとつに対して、長い数週間を持ちこたえたというまさにその事実は、数百万人のパレスチナ人と他のアラブ人、イスラム教徒にとって、また、それだけにはとどまらない他の人々にとっても、全くの無条件の勝利とうつるだろう。

 結局のところは、はっきりした条件を含む合意が締結されるだろう。いかなる国も、その住民が国境を越えてロケット弾にさらされるのを許容することはできないし、いかなる住民も首を絞めるような封鎖を許容することはできない。したがって、(1)ハマスはミサイルを発射することをやめなければならないだろう。(2)イスラエルはガザ地区と外界との境界を広く開放しなければならないだろう。(3)ガザ地区への武器の流入は、イスラエルによって要求されているように、ストップされるだろう(可能な限り)。だが、これらのことすべては、我が政府がハマスをボイコットしていなかったら、戦争なしに生じえたことである。

 しかしながら、この戦争の最悪の結果は、まだ目に見えるものにはなっていない。ここ数年のうちにようやく感じられるようになっていくだろう。イスラエルは、全世界の人々の意識に、自らの恐ろしいイメージを焼き付けた。数十億の人々が、我々を血のしたたるモンスターとして見た。人々は、二度と再びイスラエルを正義と進歩と平和を追求する国家としてみることはないだろう。(中略)

 さらに悪化するのは、我々の周りの何億というアラブ人へのインパクトである。彼らは、ハマスの戦闘員をアラブ民族の英雄として見るだけでなく、自国の体制をありのままに、つまり卑屈な、屈辱的な態度、腐敗、裏切りとして見るだろう。

 1948年戦争でのアラブの敗北は、結果としてその後引き続いて、ほとんどすべてのアラブ諸国で当時存在していた体制の崩壊と、ガマル・アブダル・ナセルに例証されるような民族主義指導者の新たな世代の台頭をもたらした。2009年戦争は、現在の一群のアラブ諸国の体制の崩壊と新たな世代の指導者 ― イスラエルと西側世界を憎むイスラム原理主義の指導者 ― の台頭をもたらすかもしれない。

 今後何年も経つうちに、今回の戦争がまったくの狂気であったことが明らかになっていくであろう。ボスは本当に気が狂ってしまった ― 言葉の本来の意味において。

(以上)