[抜き書き]
『東京の「教育改革」は何をもたらしたか――元都立高校長の体験から』
(渡部謙一著 高文研 2011年9月)
  
 渡部謙一さんが書かれた『東京の「教育改革」は何をもたらしたか――元都立高校長の体験から』の書評がリブインピースブログに掲載されていますが、大阪での「教育改革」が急進行する危険を前にして、あらためて渡部さんのいくつかの肉声を紹介したいと思い、抜き書きしました。是非お読み下さい。

 リブインピースのブログの記事は以下です。
(紹介)『東京の「教育改革」は何をもたらしたか――元都立高校長の体験から』(上)
(紹介)『東京の「教育改革」は何をもたらしたか――元都立高校長の体験から』(中)
(紹介)『東京の「教育改革」は何をもたらしたか――元都立高校長の体験から』(下)

2012年2月24日
リブ・イン・ピース☆9+25

[抜き書き]
『東京の「教育改革」は何をもたらしたか――元都立高校長の体験から』(渡部謙一著 高文研 2011年9月)

教師とは、教育とは

「教育は人間賛歌」を信条に38年間都立高校で教師生活。

「この生徒はダメだと言ったとき、その教師はすでにダメになっているんだ!」M先生の怒鳴り。

教師生活は様々な先輩教師、同僚、親、生徒らに育てられ、支えられてきた。

教師とは、「話す仕事ではない、聞く仕事である」「あふれる思いのある人のことだ」
「人間の発達にマニュアルはない、だから教師は面白い」「答える学力から問う学力へ」

東京の「教育改革」・・・政治の教育への直接介入・支配の過程であり、学校から生徒の姿、教育の言葉が奪われていく過程。

「人間的に成長、発達するということ」とどんな関係があるのか?問い続けよう。

何よりも「目の前の生徒・教師・親の事実から出発したい」

「協働性」こそ教育活動の命

「教育は実践でしか語れない」、そして教職員集団の協力・共同による
「協働こそ教育活動の命」であるということ、その「協働性をつくっていくことこそ教育管理職の役割」である。

「人間は一人ひとりみな違う、だから一人ひとりが尊い」

「議論なくして活力なし、納得なくして意欲なし。信頼なくして指導なし。尊敬なくして管理なし」

命令と強制による異論の排除は民主主義の否定でもある。

「生徒のことは生徒の中に入って学ぶ、親のことは親の中に入って学ぶ、地域のことは・・・」
「競育→共育へ」

管理職とは、「命令する人」「従わせる人」ではない。「協働性」こそ教育活動の命。
命令する校長から「励ます校長」

A校長は「学校現場の最前線で体を張っている教職員を信頼し」、その教職員を励まし元気にすることが「最高責任者の使命」とし、「信頼と尊敬の組織風土を育て」徹底して教職員を信頼し学校を変えていった。

「一番嫌いな人を好きにならなければ管理職はつとまらないよ」

「批判は期待の裏返し」 批判を受け止めよう。
マイナスの中にこそ発達の芽をとらえ、プラスに転化する取り組みを。

学校は――職場空間というのは安心して自分を語れる場であり、そうできる人間関係になっていなければならないと思う。それは、異論を排除する論理ではなく、異論を互いに認め合い、共通点を追求し、作り出そうという、みんなが関係し合う職場である。それが民主主義の基礎ではなかろうか。

黙らず、諦めず、問い続けること。

「教育とはどういう営みなのか」「学校とは何をするところなのか」「子どもが人間らしく成長・発達することとどんな関係があるのか」

「教育とは管理することではなく、育てることだ。生徒が自分達で規律をつくり、守っていける力を育てていくことが教育だ」

生徒にかけた情熱

学校における民主主義

「真の指導性は、外的な権威によって生ずるものではなく、人々の尊敬と信頼に基づいて、自ずから現れることがその本質をなすものである。」(『小学校経営』の手引き 1949年)

「学校の経営において、校長や2,3の職員の独り決めで事を運ばないこと、すべての職員がこれに参加して、自由に十分な意見を述べ協議した上で事を決めること。そして全職員がこの共同の決定に従い、各々の受け持つべき責任を果たすこと」(『新教育指針』1946年)

全職員の協働をつくりだす
私は教育に多数決はなじまないということを一貫して主張してきた。−−多様な教育観・個性・指導方法をもった教師に対して、それを生かしながら協働していくのではなく、多数決でそれを排除していくようなやり方は、教育として間違いだと、具体的経験の中で感じさせられていたからだ。

――学校組織の中で、圧倒的少数の校長・教頭の意見を多数決で排除していくなどということが、真に民主的といえるのかという疑問をもってきた。
――「生徒また学校のあらゆる階層の組織の中に真の民主主義を貫こう」と呼びかけた−−教職員集団づくりの中で、改めて民主的集団づくりということが問われているのだと思う。

――多数決で決めるというやり方はしてこなかった。−−協議で意見が分かれた場合は、一人一人全員が意見を言い、司会者が一致する点でまとめた。それでもまとめられない場合は、その場では決めないで次回まで個々の間で議論し合い、全員が一致する点で決めるという努力をしてきた。

――実践を核に、自由な教育論議を深め、互いに学びあい、より質の高い合意形成を図って、全職員が協働して取り組むこと、それをどうつくるかということである。それが職員会議である。校長のリーダーシップとは、それを組織していくことではないか。
校長の「権限」とは−−教職員によってつくられるものである。

排除の論理でなく、異質性、多様性を認め合うこと

命令と処分で異論を排除していきたくない。

一人一人の違いを認め合い、協調・共存していくことこそ、
一人ひとりみな違うからこそ尊い。

いじめ問題は、自分と異質な対象を造り出し、その子を攻撃することによって、自分の安心を確保する。周りの者たちは与することや黙認することによって自分の居場所を確保
→この構図を打ち破るには
子どもたちが自分と異なる考え・在り方、生き方を互いに認め合い、それを尊重し合い、協調していける力をつけてやること
異質性、多様性を認め合うことこそが大事

子どもたちの中に、どれだけ広く、深く、自分以外の人間のことを考えられるかという真の教養を養うこと、一つの価値の同質化・集約を排して、多様な異質な文化・価値・考え方・生き方を認め合い、互いに協調し共存していく人間を育てること

――従わなければ処分するなどというのは、まさしく、一つの価値・考え方・生き方以外は認めない「排除」の論理である。

教育管理職の役割

校長としての基本姿勢
1,どの学校でもその歴史、特色をもっている。何よりもまず今までの努力の過程を大事にし、それらをさらに深め、みんなのものにし、より発展させたい。

2、私は先生方の日々の実践を少しでも応援し、励ませるよう努力したい(みんなに学ぶ姿勢)

3.何より、全教職員が生徒と真正面から向き合う中で、自由な教育論議を深め、合意と納得をつくることを大事にしたい。
〜全教職員の「協働」こそ教育活動の根幹と考えている。

今まで積み上げてきた実践を再度確認し合い、検証し直し、それを目の前の生徒をとらえ合うなかで、さらに、どう充実、発展させていくか

私(校長)にできることは方針を出し指導することなどではなく、個々の教師がまた各分野で日々行っている教育活動を学校全体の中に位置づけ、全教職員のものにし、それを支え励ましていくことだけである。
だから、私がやってきたことは、新たにつくり出したのではなく、この○○高校の今までの取り組みを大事にしてきたきたに過ぎない。

「ばかばかしくてやってられません。みんなやる気を失いました」と絶望。激論の末、一言も意見を言わなかった校長が、退学させないという結論を伝えて終わったこと

人事考課制度の罪

人事考課制度

教育活動の基盤である「協働性」を破壊する
「一人の優れた教師より、協働する全教職員集団を」
教師を個別に評価して給与にまで差を付ける→この協力、共同の関係をバラバラに。

いわゆる「問題教員」。一人の教師の有り様は、その教師集団の有様と切り離せない
その教師の問題を通して、みんなが代わっていく中で当人も変わっていくのだ。

それは生徒指導で十分体験してきた。それぞれにプライドをもった教師に職階の上下の関係で指導してもそれだけでは変わる者ではない。

教師は教師集団の中で互いに学びあい育っていく。
業績評価はそういう関係を破壊し、個別の問題に矮小化してしまう。

私の基本姿勢

1−(1)「人間好き」と生徒の「成長へのロマン」こそ教育の原点
 −(2)生徒一人ひとりの「人間的発達」に徹底的にこだわろう
 −(3)そのためには、私たち一人一人が「私の人間論」と今日における「一人前像」をもとう。
 −(4)来る者は拒まず、去る者は追う。10回裏切られたら、11回期待する。
 −(5)厳しさのない教育は、生徒をバカにした教育。「厳しさと将来への期待の統一」を。

2−(1)教育観の違いではなく、「生徒をどうとらえ、どう働きかけたら生徒はどうなったか」を深めあい、互いに検証しあおう。
 −(2)情勢から生徒をとらえるのではなく、「生徒を通して情勢をつかむ」

3−全教職員が「協働する学校」――一人の優れた教師より、協働した集団の取り組みを

4−公的な関係づくりをすすめよう

5−(3)生徒・親・地域の声を「つまみ食いしない、ダシに使わない」

6−ウソをつかない、ごまかさない、言い逃れしない