11月21日に開催された第12回追悼会と証言集会に招かれた幸存者(中国では強制連行の生存者をこのように呼ぶ)常保貴さんは、追悼碑に向かって「私は幸いにも帰ることができました。」と何度も話しかけた。追悼碑の隣に掲げられた大阪で亡くなった86人の木札を指さし「この人を知っている、この人も知っている」と強制労働などで亡くなった当時二十歳前後の仲間たちを偲んだ。 大阪には1000人を越える中国人が強制連行された 日本の侵略戦争によって大阪港には1000人を越える中国人が強制連行された。満足な食事を与えられないまま、安治川、川口、築港、藤永田で重労働を無理強いされた。船からの石炭の荷下ろしでは100キログラムの袋を担いだ。日本人の監視員は手に棍棒を持ち作業が遅いと殴った。腰や足を痛める人が続出したが、治療も受けられず過酷な労働を強要され、障害が残ったり死に至った。 「彰往察来」と刻まれた追悼碑は強制労働を強いられた安治川の河口、天保山公園に建立されている。常保貴さんは、海沿いで中国に向かって立てられた追悼碑を「こんな良いところに碑を建ててもらって」「日本の友人たちに感謝します。」と喜んだ。碑は実行委員会が大阪市と10年間の交渉の末、建立を勝ち取ったものだ。 強制された重労働で障害が残ったと証言 日本政府の謝罪、賠償を要求 常保貴さんは、現在85歳。中国人強制連行受難者の最高齢だ。証言集会では、過酷な強制連行の体験を語った。現在の原陽県で捕らえられ11日間かけて大阪に連れてこられた。若い監督はよく殴った。食事は毎日同じ。小麦粉と麩を混ぜた1個200グラムほどの饅頭を2個、小さい漬け物、1杯の水が全てだった。重労働には全然足らない。空腹を抱え「朝出たときも夜帰ったときもお日様を見たことがない」長時間の重労働。丈夫だった身体は腰が曲がり、足には石炭を運んだときの傷、骨にも異常が残った。常保貴さんは、日本政府の謝罪、賠償を要求、歴史の真実を取り戻したい、と涙を流して訴えた。 訴訟も視野 中国人強制連行問題は、日本軍「慰安婦」問題と同様、政府は正式の謝罪と補償を拒否し続けている。実行委員会代表の冠木弁護士は、日本政府に何らかのアクションをさせるための裁判をしたい、しかし、西松訴訟での最高裁判断では「日中共同声明で中国国民は裁判での賠償請求権を失った」とされている、どうするか、と苦しい胸の内を語った。そして、もし裁判となった場合には、協力、支援をお願いしたいと約30人の参加者に要請した。 2009年11月25日 |