憲法違反の戦争法を廃案に!
集団的自衛権の違憲性が改めて明るみに

集団的自衛権の違憲性が改めて明るみに
 衆院憲法調査会において(6月4日)、自民党の推薦者を含めて3人の参考人(長谷部泰男・早大教授、小林節・慶大名誉教授、笹田栄司・早大教授)が揃って、集団的自衛権違憲説を突き付けた。小林氏は周知のとおり改憲論者であり、とくに長谷部氏は特定秘密保護法の推進論者であった。期待に真っ向から反した政府・自民党に激震が走った。政府・自民党にとっては思いもよらず、集団的自衛権の違憲性が国会論戦の中心的問題として、急浮上したのだ。安倍内閣は慌てて6月9日、反論の「政府見解」をまとめた。それは、「従前の解釈との論理的整合性等について」と題して、砂川事件最高裁判決(1959.12.16)と1972年政府見解とを根拠にすることによって、集団的自衛権合憲説を改めて主張した。しかし、これらの判決・見解が集団的自衛権の正当化根拠となり得ないこと、とりわけ72年政府見解は真正面から集団的自衛権を違憲としており、したがって、逆に「政府見解」の理論的整合性が全く成立しないことを改めて確認させるものとなった。

自衛隊・日米安保に最高裁の合憲判決なし
 「政府見解」は、最高裁判所があたかも武力による自衛や自衛隊が合憲である、との判決を下したかのように主張している。だが、そのような判例は全く存在しない。
 砂川事件は、米軍立川飛行場拡張に反対する行動で、デモ隊の一部が米軍基地内に入ったため、日米安全保障条約に基づく刑事特別法で起訴された事件であった(1955年)。一審の東京地裁・伊達裁判長は、安保条約が憲法第9条違反として、無罪判決を下した。これに対して、跳躍上告を受けた最高裁判所は、本論ではなく傍論において「わが国が自国の安全を維持しその存立を全うするためには必要な自衛のための措置を取りうることは、国家固有の権能の行使として当然」とした。しかし、判決は一般的に自衛権を認めたが、厳密に言えば、明示的、具体的に自衛隊が合憲であるとも、武力行使が許されるとも、判示した訳ではなかった。なぜなら同判決は、憲法第9条2項が「いわゆる自衛のための戦力の保持を禁じたものか否かは別にして」とわざわざ述べて、この点については明確に判断を停止しているからである。
 然るに今回の「政府見解」は曲解も甚だしく、この判決が「例外的に自衛のために武力の行使が許されるという基本的な論理を示している」としている。しかも、判決が述べている「自衛のための措置」については、個別的自衛権を指し、当時は集団的自衛権などについてはいかなる意味でも、争点にはなっていなかったのである(砂川事件元被告・弁護士)。
 なお、この判決の本論である日米安保条約に関しては、「高度の政治性を有すべきもので・・・一見極めて明白に違憲無効と認められない限りは、裁判所の司法判断の範囲を超える」としてその違憲・合憲に関する判断を回避した。憲法の最高法規として規定されている違憲立法審査権(第98条)を自ら放棄したのであった。

日米政府に迎合した最高裁の政治的判決
 この判決日時を見ても分かるとおり、当時は岸内閣による旧日米安保条約改定方針が、激しく政治的に争われている時期であった。最高裁はこのような政治的状況の中で、司法権の根本的ルールを自ら破り、もっぱら汲々として日米両政府の意を迎えるための、政治的判決を下したのである。
 当時、ダグラス・マッカーサー駐日大使(マッカーサー元帥の甥)は旧安保条約の改定を控えて、裁判を早急に片付けたかったゆえに、地裁から高裁へ控訴するのではなく、直接に最高裁に一足飛びに上告する跳躍上告を日本政府に勧めた。同時に、彼は田中耕太郎最高裁長官とも頻繁に連絡を取り、田中長官はマッカーサーに対して、判決時期の見通し、公判日程と訴訟指揮方針、15人の裁判官の評議における方針と全員一致の判決とする努力、等々、司法上の最高秘密を漏らしていたのである(布川玲子・新原昭治『砂川事件と田中最高裁長官』)。この意味で、砂川最高裁判決は、憲法・法律と良心に基づいた判決(憲法第76条)ではあり得ず、最高裁判決の名に全く値しない、もっぱら最高裁判所の不当な政治判断を示したものにすぎなかったのである。

最高裁の「逃げ」と職務違反
 上記「政府見解」では言及されていないが、長沼事件も、結局は裁判所が違憲立法審査権を放棄し、自衛隊の合憲・違憲判断を回避した典型的な例であった。北海道長沼町において、自衛隊拡張のため保安林の指定解除が行われたが(1969年)、これについて自衛隊違憲訴訟が提起された。一審の札幌地裁・福島裁判長は、自衛隊違憲判決を行った。これに対して、札幌高裁は、自衛隊が違憲・合憲を判断することは高度の政治性をもつものであり、これは「統治行為」として司法審査の対象外である旨の判決を下した。なお、上告審では最高裁は、訴えの利益が失われたとして、上告棄却とした。したがって、最高裁は客観的には、統治行為論を承認し、自衛隊の合憲・違憲についての判断を回避したこととなる。最高裁も、世論の批判を恐れて逃げたのである。
 統治行為論は、憲法にも法律にも規定されない、一つの学説であるに過ぎない。したがって、自衛隊・日米安保に関して、最高裁が憲法の最も重要な規定の一つである違憲立法審査権を放棄したことは、最高裁は最高裁の名に値せず、明らかに自らの権利と職務を放棄したのである。高村自民党副総裁は、口を開けば、学者でなく最高裁が違憲・合憲の決定機関だと述べているが、その最高裁の実態がこれだ。

「集団的自衛権」違憲を明確にした72年政府見解
 内閣法制局見解は1972年、憲法第9条2項が、明示的に陸海空の戦力の保持及び交戦権の行使を禁止しているにも拘わらず、自衛隊がいかにして合憲であるかの理論構築を改めて行った。歴代政府もそれに従ってきた。その論理は、今回の衆院憲法調査会における笹田栄司・早大教授の表現のとおり、まるで「ガラス細工」のごとくであり、繊細で脆弱なものである。
 歴代政府の主張はこうであった。第9条が自衛権を明示的に禁止していない限り、国家には自衛権が存在するのであり、自衛権を全うするためには物理力が必要であり、それが自衛隊だという(いうまでもなく、この解釈は最高最裁判決ではなく歴代政府の解釈である)。だから、自衛隊発足当時は「戦力なき軍隊」などとも称した。内閣法制局が練り上げた自衛隊合憲論の核心は次のとおりである。「わが憲法の下で武力行使が許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対する場合に限られるのであって、従って、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないと言わざるを得ない」。
 この論理にしたがえば、国連憲章では集団的自衛権は認められているが、それを行使することは憲法が認めている自衛権の範囲を超えることとなる。自衛隊が合憲である不可欠の要件としては、もっぱら自国の防衛に限定した「専守防衛」に徹し、海外派兵や攻撃的武器の保有を行わない、ということであった。このうちどれ一つが崩れても、自衛隊合憲論が成立しない論理構造となっていた。
 ところが、今回の「政府見解」は、「パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威の増大によりわが国を取り巻く安全保障環境が変容、変化し続けている」ので他国に対する攻撃もわが国の存立を脅かす可能性がある場合があるとして、集団的自衛権の行使を正当化している。ところが、ではどのように環境の変化と危険が生じているのか具体的に示せと言えば、後述のようにあらかじめ述べることができないとする。これでは、集団的自衛権正当化の論理とはならない。
 おまけに、安倍首相は法制局長官を内閣の意向に忠実な人物に首をすげ替えた。もし、内閣の論理整合性に自信があるなら、長官の交代など不要なはずだ。

武力行使の白紙委任状を内閣に
 安倍内閣は「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福の追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」には必要最小限度の自衛措置=集団的自衛権の行使を行うとする。しかも、この集団的自衛権の行使は、ホルムズ湾にいたるまで、全世界的規模を予定している。では、そのような明白な事態とは何か。「政府見解」によれば、それは「あらかじめ具体的に詳細に示すことは困難」で「あらかじめ定型的、類型的に示すことは困難」としている。つまり、何が「明白な危険」かの判断は内閣に白紙委任せよ、ということに他ならない。政府は、内閣による恣意的な判断の歯止めとして、国会承認を主張しているが、それは与党多数派の国会においては何の歯止めにもならないことは火を見るより明らかである。したがって、事実上は、いつでもどこにおいても武力行使や後方支援ができるフリーハンドが、白紙委任的に内閣に与えられることとなる。

机上の空論―他国の武力行使との一体化の回避
 政府は次の点を指摘して、他国の武力行使との一体化を回避するとしている。(1)他軍隊が「現に戦闘行為を行っている現場」では支援活動を実施しない。(2)「現に戦闘行為を行っている現場」となる場合は支援活動を休止または中断する」
 だが、現に戦闘行為を行っている「現場」という概念自体が非現実的である。戦闘現場とどれほどの空間的距離があれば「現場」ではないのか?支援活動つまり武器弾薬・燃料の補給等は「現場」から遠く離れたところで行うのか?また「現場」は常に移動するのであり、その度に、支援を行ったり行わなかったりするのか?そんなことでは「支援」は行えるのか?あるいは「現場」でないと思っていても不意に攻撃された場合は戦闘行為になることは明らかであるが、その時は脱兎のごとくあるいはこそこそと逃げるのか? 政府の見解は全く机上の空論にしかすぎない。

憲法解釈を政府の裁量に任す独裁の論理
 菅官房長官、中谷防衛相は、集団的自衛権合憲説は、政府の裁量権の範囲内であると称している。だが、歴代政府が違憲としてきた事柄を合憲とすることは、憲法解釈の根本的転換であり、政府の裁量権をはるかに超えるものである。政府の裁量権を野放しにすることは、政府に独裁権を与えることと等しく、民主主義を破壊する最大の要因となる。特に憲法は、政府の恣意的な行動を抑制するための最高法規であることを銘記しなければならない。この点で、中谷防衛相の憲法感覚は、まったく逆立ちしている。彼は、「憲法解釈を法律に適合させる」ようにしなければならない旨を述べたが、それは全く憲法に対する法律優位論である。後に中谷防衛相はこの言を取り消したが、前言が彼の失言ではなく本音であることは間違いない。
 法律によって憲法を葬り去るというのはまさに、ドイツ・ナチスが全権委任法によって、当時もっとも民主的と評されていたワイマール憲法を葬り去った手口と同一である。しかも、このナチスのやり口に倣うことは、中谷防衛相が初めて主張したのではなく、麻生太郎・副総理がその最初であった。したがって、このようなやり口はいわば安倍内閣の共通の了解事項と見なければならない。

ヒトラーの憲法破壊と独裁の手口
 ヒトラーは1933年、政権に就くや国会を解散し、選挙中に国会放火事件をでっち挙げたうえで、大統領から独裁権行使の緊急令を得て、共産党員・社会民主党員を多数逮捕した。それでも、国会選挙では、ナチス党は45%の議席率しか確保できず、国家人民党(議席率8%)との連立によって内閣を組織した。共産党は13%の議席を有していたが国会出席を阻止され、19%の議席率を有していた社会民主党も有力な議員が逮捕されたままであった。その結果、ヒトラーは国会においては3分の2の多数決で「全権委任法」を成立させることが出来た。この「全権委任法」によって、ヒトラーは憲法を蹂躙し、独裁権を行使したのである。
 このようにヒトラーの独裁はまずは、武力ではなく議会の多数決という「議会的民主主義的手段」を通して実現されたのである。したがって、議会の多数決を無条件に民主主義と見なすことは、極めて短絡的な思考であることは、このナチスの例からも明らかである。日本国憲法は、一時的な多数によって憲法破壊が行われないように、わざわざ憲法を最高法規と規定し、反憲法的な法律によって憲法自体が蹂躙されないように定めたのである。その法的・制度的な保障として違憲立法審査権が裁判所に与えられているのだが、最高裁が自衛隊・日米安保に関して自らその権限と職務とを放棄している限り、政府の違憲立法を法的に規制することが極めて困難になっているのだ。

ますます増える、憲法学者や日本弁連の集団的自衛権違憲論
 安倍首相は、侵略を巡る歴史問題は歴史家に任せると逃げを打つ一方で、憲法問題では多くの憲法学者や弁護士の全国組織の見解を一切考慮しない。日本の憲法学を代表する憲法学者たちを網羅する「立憲デモクラシーの会」(樋口陽一東大名誉教授、佐藤幸治京大名誉教授、石川健治東大教授、等)は6月6日、シンポジュームを開催し、改めて集団的自衛権の違憲性を確認した。全国憲法学者の反対声明への賛同者も215名になった(6月10日現在)。「報道ステーション」が、著名な憲法学者198人に緊急アンケートを行った結果、149名の回答があり、安保法制は憲法違反:132名、違反の疑いあり:12名、合憲:3名であった(6月15日最終集約)。もちろん、真理は多数に存在するとは限らないのであるが、菅官房長官が集団的自衛権賛成学者多数と述べたのに対する、事実での回答であった。日弁連は5月29日、集団的自衛権違憲声明を発表し、全国的な反対署名を行い6月10日、261000筆を越えた署名を民主党や共産党の議員を通じて政府に提出した。

2015年6月15日
  岩本勲
                          リブ・イン・ピース☆9+25
(大阪産業大学名誉教授 政治学 岩本勲さんよりの投稿です)