<9・9 オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会>
10万1000人超が結集
県民大会を新たな出発点に 反対運動をあらゆる地域に全国に

赤のシンボルカラー:「イエローカードを通り越してレッドカードだ!」
 「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」が、9月9日、宜野湾海浜公園で10万1000人以上を結集しておこなわれました。米軍基地問題での「本土復帰」後の県民大会としては過去最多で、宮古島と八重山でも宮古島地区大会と八重山大会がおこなわれ、それぞれ1500人、500人が参集しました。(沖縄県の人口は2010年時点で約140万人。宮古島は約5万2,000人。八重山は約5,500人です。)

 今回のシンボルカラーは赤で、「もうイエローカードを通り越してレッドカードだ」という意味合いが込められたものです。

 当初8月5日に予定されたこの県民大会は、台風のため延期されました。防衛省など政府関係者は、延期されて間延びしたことと仲井真知事が不参加となったことで反対運動が盛り上がりに欠けるものとなることを期待し予期していました。沖縄タイムスの報道によれば、政府関係者は5万人程度と予想(期待)していたところ、予想を上回る参加人数に「政府としては怖さも感じる数だ」「行政や議会だけでなく経済界、一般県民を含めて参加人数がこれだけ多いと、知事が出席しなくともメッセージとして大きい」と感想を漏らしていたと報じられています。

プレ企画から続々と参集
 10時からのプレ企画がはじまるころには、もうたくさんの人が集まってきていて、歌や三線、太鼓の演奏に、手拍子や拍手、指笛などで呼応して、会場は次第に熱を帯びてきました。

「島ぐるみ」を実感させる発言者の訴え


 11時ちょうどに県民大会の開会が宣言され、登壇者が紹介された後、まずは共同代表5人の挨拶がありました。沖縄県議会議長・喜納昌春氏、沖縄県市長会会長・翁長雄志氏、沖縄県商工会連合会会長・照屋義実氏、連合沖縄会長・仲村信正氏、沖縄県婦人連合会会長・平良菊氏と続きました。

 特徴的だったのは、どの発言者もオスプレイ配備だけが問題なのではないという観点、ずっと続いてきた沖縄差別を糾弾するという観点が前に出ていたことでした。それは、本土復帰後だけでなく、戦後全体を通じて、さらには戦中、戦前にまでさかのぼるものでした。「復帰して40年。いまだに差別的な状況が続いている。」「オスプレイ配備は戦後直後の“銃剣とブルドーザー”に匹敵する。」「沖縄は戦前、戦中、戦後、十分すぎるくらい国に貢献してきた。もう勘弁してほしい。」「私たちは耐えるだけ耐えてきた。もう限界を超えている。」「先の戦争で沖縄を踏み台にしたことへの痛みを感じることなくオスプレイ配備か。」「これ以上の差別は絶対に許せない。」などなど。

 さらにもうひとつの特徴は、日米安保体制そのものを問題にする観点でした。「日本政府が国民の生命より日米安保を重視する米国追随の姿勢は、主権国家としてのありようが問われている。」「沖縄は米国の植民地か。」「日米地位協定の改定・抜本見直しが必要だ。」など。また、「配備され事故が起きたら、誰が責任をとるのか。」そうなったら「基地の全面閉鎖へ向かっていくしかない。」ということも語られました。

不参加の仲井真知事のメッセージにブーイングの嵐
 共同代表の挨拶が終わって、沖縄県知事のメッセージが代読されることが告げられた途端、会場の雰囲気は一変しました。「やめろ!」「言葉だけの挨拶なんかいらない!」という怒号とブーイングの嵐。代読者が一瞬びっくりしたように言葉を詰まらせました。それでも義務的に、心なしか遠慮がちな声で代読がおこなわれましたが、その間ずっと「やめろ!」の怒号とブーイングや抗議の指笛がやみませんでした。仲井真知事のメッセージの内容がどんなものか、その場にいた誰もが聞いてもいませんでした。

若者代表の高らかな宣言:「沖縄の空を県民のものに」
 次いで宜野湾市長の挨拶がありました。中央政府とのパイプ役を自認する日米同盟堅持論者の保守的市長ですが、そういう立場の市長でさえ今回のオスプレイ配備は認められないと、語気強く述べていました。

 発言者の最後は沖縄国際大学の学生(女性)でした。若者を代表して「未来へのメッセージ」と題した挨拶は、この日の最も特筆すべきハイライトでした。

 「たくさんの人たちから勇気をもらいました。」「気持ちが吹っ切れました。」という晴れやかな発言からはじまり、「私たち若者が基地を拒否します。」「沖縄の空は私たち県民のものです。」「沖縄の空を取り返すまで、それが実現する日まで、やり続けます。」と高らかに宣言して挨拶を締めくくりました。

これを新たな出発点に反対運動を全国に
 最後に大会決議を採択し、この大会を出発点として日米政府に撤回を求めていく運動をあらゆる地域に広め、全国に広めていこうという行動提起がおこなわれました。米国に代表団を派遣することも提起されました。

 高い太陽高度の下でジリジリと焼かれるような暑さの中、熱気あふれる2時間あまりでした。「沖縄はもう後戻りしない」という言葉が、運動を担ってきた人々から折に触れて語られてきましたが、それを県民大会の具体的な状況の中でつぶさに実感したひとときでした。

大阪から参加して H.Y.





オスプレイ拒否 10万3千人結集 強固な意思発信
(社説)県民大会決議/差別と犠牲の連鎖断とう 沖縄の正当性は自明だ
最大規模の県民大会 共同代表、成功喜ぶ
以上、「琉球新報」9月10日(月)より

オスプレイ:配備撤回 日米に 5共同代表
「事故あれば全基地閉鎖」 翁長那覇市長
経済人も反対の声 「県民の過重負担は限界」
(社説)[オスプレイ県民大会]民意は明確に示された
オスプレイ:基地なくとも心は同じ 八重山
以上、「沖縄タイムス」9月10日(月)より

〔ルポ1〕オスプレイ配備反対沖縄県民大会参加。8時30分到着。参加者が赤色の服装で次々に入場
〔ルポ2〕オスプレイ配備反対沖縄県民大会参加。オスプレイ配備反対を全国に広げていこう!!
以上、リブインピースブログより

【大会決議】

 我々は、本日、日米両政府による垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ強行配備に対し、怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるためにここに集まった。

 沖縄県民は、米軍基地の存在ゆえに幾多の基地被害をこうむり、1972年の復帰後だけでも、米軍人等の刑法犯罪件数が6000件近くに上るなど、米軍による事件・事故、騒音被害も後を絶たない状況である。

 1995年9月に、米海兵隊員3人による少女暴行事件が起こり、同年10月には事件に抗議する県民総決起大会が行われ、8万5千人もの県民が参加し、米軍に対する怒りと抗議の声を上げた。県民の強い抗議の声に押され、日米両政府は、96年の日米特別行動委員会(SACO)により米軍普天間基地の全面返還の合意を行った。

 しかし、合意から16年たった今日なお、米軍普天間基地は市街地の真ん中に居座り続け、県民の生命・財産を脅かしている。

 そのような中、日米両政府は、この危険な米軍普天間基地に「構造的欠陥機」であるオスプレイを配備すると通告し、既に山口県岩国基地に陸揚げがなされている。さらに、オスプレイは米軍普天間基地のみでなく、嘉手納基地や北部訓練場など、沖縄全域で訓練と運用を実施することが明らかとなっており、騒音や墜落などの危険により、県民の不安と怒りはかつてないほど高まっている。

 オスプレイは開発段階から事故をくり返し、多数に上る死者を出し、今年に入ってからもモロッコやフロリダ州で墜落事故を起こしている構造的欠陥機であることは、専門家も指摘しているところであり、安全性が確認できないオスプレイ配備は、到底容認できるものではない。

 沖縄県民はこれ以上の基地負担を断固として拒否する。そして県民の声を政府が無視するのであれば、我々は、基地反対の県民の総意をまとめ上げていくことを表明するものである。

 日米両政府は、我々県民のオスプレイ配備反対の不退転の決意を真摯(しんし)に受け止め、オスプレイ配備計画を直ちに撤回し、同時に米軍普天間基地を閉鎖・撤去するよう強く要求する。

 以上、決議する。

2012年9月9日
オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会