沖縄県知事の翁長雄志氏が8月8日に亡くなりました。私たちは心より哀悼の意を表します。翁長知事は最後まで辺野古新基地建設に対して反対し闘い続けました。7月27日には埋め立て許可の「撤回」の手続きを開始し、亡くなる前日の7日には沖縄防衛局の聴聞延期申し出に自ら拒否の決済を行いました。県民の新基地反対、基地撤去の声に応えるために最後まで戦い続けたのです。知事は4月に膵臓がんの手術を受け、その後も治療を続けながら、埋め立て承認「撤回」へ県を動かしてきました。この間の知事の行動はまさに命を削りながら辺野古新基地建設との闘いだったのです。私たちは、最後までぶれることなく、安倍政権のありとあらゆる嫌がらせに立ち向かい、あくまでも辺野古新基地反対の県民の意思に忠実であろうとした翁長知事に敬意を表します。 知事は保守の人でした。那覇市議会議員、県会議員、那覇市長を自民党員として勤め、自民党県幹事長まで務めました。自民党と距離を置くようになったきっかけは2007年の教科書検定問題だったといいます。高校歴史教科書から“集団自決への日本軍による強制”を削除する動きに対して、沖縄戦の史実のねじ曲げ・抹殺に怒り、検定撤回を求める県民大会の実行委員会に加わりました。そして、仲井眞前知事が13年12月に第2次安倍政権に抱き込まれて県民を裏切り、自らの「日米合意見直し、県外移設」という公約を翻し、辺野古埋め立てを承認したことで事態が変わりました。0.6%の沖縄県に米軍基地の70%を今後も押し付け続ける安倍政権に県民の怒りが爆発し、県議会でも公約違反を追及し知事辞任を求める決議が可決されたのです。保守層を含めた県民の多数が安倍政権による新基地建設と、いつまで基地と基地被害を押しつけるのかという怒り持ち、それを背景に自民党を離脱した「新風会」を含めてできた県民ぐるみの「オール沖縄」を支持母体に2014年11月、「辺野古に新基地は作らせない」を公約に県知事に当選しました。その後、辺野古新基地建設反対の県民の意思を実現するために、2015年10月には埋め立て承認を「取り消し」ました。16年12月に、最高裁で県が敗訴してからも、辺野古新基地反対の立場を堅持し、ついに7月27日には「撤回」の手続きに入ったのです。 翁長知事は沖縄の民意を代表し、沖縄に基地と犠牲を押しつける政府とそれを容認する本土に対して戦い続けました。安倍政府は、翁長知事と抵抗する沖縄県に対して極めて陰湿な嫌がらせ、報復を繰り返し続けました。知事就任の挨拶に上京した際も安倍首相はじめ誰も会おうとせず、予算やさまざまな省庁との折衝で上京しても面談を拒否したのです。沖縄振興予算も知事就任後は大幅に減額しました。翁長知事はこのような露骨な基地を受け入れろというどう喝に真っ向から立ち向かい、沖縄の人々の願いを背に戦い続けたのです。辺野古現地で座り込み、あるいは海上で闘う人々、沖縄各地でこれに呼応して闘う人々は翁長知事を支持し、連携しながら県民ぐるみの大衆的な闘いを作り続けたのです。翁長知事はその大きな精神的な柱でした。 残念ながら本土の側の大衆闘争は、辺野古に新基地を押しつける安倍政権を打倒することで沖縄の運動に応えることができていません。15年の戦争法、日米ガイドライン、その後の森友・加計問題での追及の大衆運動は国会内での野党の動きと連動して、安倍政権を追い詰めましたが、まだ打倒することはできていません。相変わらず辺野古建設を強行し、17日には土砂投入開始と力ずくで反対運動を押さえ込むばかりです。真の意味で翁長知事の応援ができなかったことに悔しい思いをしています。 翁長知事に寄せられた沖縄の民意はいまも変わりません。沖縄県に米軍基地の大半を押しつける構造は変わりません。朝鮮半島の平和と安定が実現に向かい始めても、安倍政権は依然として北朝鮮、更に中国を標的として軍事力増強に全力を挙げようとしています。辺野古・沖縄本島を含む南西諸島を米空母部隊を守る要塞とし、真っ先に攻撃されるリスクを背負わせようとしています。こんな状態をいつまでも我慢できないという翁長知事と同じ気持ちは県民の中に流れています。私たちは亡くなられた翁長知事に心より敬意と哀悼の意を捧げるとともに、県知事の意志を継いで闘いを継続する沖縄の人々と連帯し続けます。現地の闘争への支援を最大限追求しながら、本土で安倍打倒に向けて闘い続けたいと思います。 2018年8月9日 |
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