14日に沖縄行最終便で関空を出発し、沖縄へ。21時35分到着後ホテルに直行。ホテル近くの沖縄料理店で夕食を取りました。そこでは沖縄の花嫁衣裳で記念撮影ができますとのことで、衣装を着て記念撮影もしました。 15日、朝9時にレンタカーでホテルを出発し、辺野古へ行きました。現地で基地建設反対の活動をされている金治明(きむちみょん)さんの案内でお話を伺いました。金さんは、戦争後何も無かった時、海の恵みで子供達を育てた宝の海を守ること、沖縄戦を体験したおじぃ、おばぁが子ども達にあの経験を二度とさせたくないとの強い思いで絶対に基地を造らせないと、基地建設に反対をしていることを話されました。マスコミは普天間基地をどこかに移さなければならないと言ってるが、移転ではなく撤去、だと強調されました。また、「1966年に辺野古を軍港にするという計画が出てからずっと辺野古ありきできているだから政治家の話は信じられない」と言ってました。
キャンプシュワブのフェンスには、各地からの応援メッセージが書かれた寄せ書きがフェンスいっぱいに付けられていました。そのメッセージが焼かれたこともあったそうです。「米兵がそのフェンスを乗り越えて出てきても何も罰せられることはないが、我々が中に入ったら罰せられる。このことからも、沖縄に基地があるのでなく基地の中に沖縄がある」と話されました。 テント村に行きました。この日は基地建設阻止開始より8年、座り込みを始めて2218日目でした。テント村の人から、振興策や補助金で立派な建物や道路ができたが、建物の維持が大変だということ、道路建設で赤土が海に流出して環境破壊になっていることを聞きました。 昼食はキャンプハンセンの近くの店でタコライス発祥の地ということでタコライスを食べました。キャンプハンセンには、多くの軍用自動車が止まっていました。 うるま市へ移動し、普天間基地の代替案に浮上している勝連(かつれん)の海を見に行きました。雨と風で立っているのも大変でした。 ホワイトビーチが見える公園に行きました。私はそこに行くまでホワイトビーチは白い綺麗な砂浜だと思っていました。でもそれは基地の名前で、軍港でした。軍の船が2艘停泊していて、日の丸と星条旗が一緒にはためいていたのが印象的でした。 嘉手納町に移動し、基地がよく見える「かでな道の駅」に行きました。大きな川があると思ったのですが、それは基地の滑走路が雨にぬれて一瞬それが川に見えたのでした。それほどの幅が広く長い滑走路でした。基地には戦闘機た待機していて軍用車が走っていました。 読谷村(よみたんそん)役場では憲法九条の碑を見ました。役場には「政府は日米地位協定を抜本的に見直せ!」という横断幕が掲げられていました。 16日、朝8時に出発して「糸数(いとかず)アブチラガマ」に行きました。このガマは、負傷兵のための病院と住民の避難豪として使われていました。このガマでは多くの兵隊、住民が亡くなりました。 佐喜間(さきま)美術館を見学しました。ここには丸木夫妻の沖縄の図があります。普天間基地を見渡せる屋上にも行きました。基地の中にあるお墓を見て、基地があるためにお墓参りも行けない現実、基地は沖縄の人にとっては日常なんだと実感しました。 昼の2時から今回のメインの普天間基地包囲行動に参加しました。普天間市役所には、行動を呼びかける横断幕、4・25集会の報道記事や、市民のメッセージを展示していました。包囲行動では各自それぞれの基地反対の横断幕を歩道のフェンスに張り、歌や音楽で盛り上げたりしていました。雨と風が強い中、1万7000名の人々で基地を包囲することができました。 沖縄は雨でも、天気予報で全国的に晴れと言っている。これまではそのことになんの違和感も無く聞いていましたが、沖縄に来て、沖縄は全国に入らないの?それはおかしいと思いました。こんな、ちょっとしたことからでも無意識に沖縄を忘れてしまっている、でもその沖縄に日本の四分の三の基地があり、日米安保とはいったい何だろうかと考えさせられました。 基地の問題をもっともっと、自分の問題として、沖縄はもちろん日本の全ての基地が無くなるように基地反対を訴えて行きたいと思います。 2010年6月1日 [参加者の感想] ○沖縄に行って体験したことはなかなか言葉に表すことはできませんが、その中でも一番印象に残ったことを書きます。 初めてガマに入りました。沖縄に行く前は入らないでおこうかと考えていましたが、沖縄に到着してから考えが変わり、 みんなと一緒に入ることにしました。 怖かったです。家に帰ってからも怖くてなかなか寝られませんでした。ガマの中で聞いたガイドさんのお話、実際この目で見た光景は、一生忘れることはないでしょう。 ガマに入ったことは私の意志です。怖かったけど、後悔は全くありません。 今回の体験で、私は戦争の恐ろしさを今一度確かめる事ができました。しかし、もう二度とガマには入りたくありません。一度で充分です。(ヤコンブ) ○初めて行った沖縄は、梅雨真っ盛りの歓迎を受けました。特に「普天間基地包囲行動――人間の鎖」では、どしゃ降りで靴もズボンもずぶ濡れになりました。しかし、歌などのパフォーマンスがあったりウェーブをしたりして参加者との一体感を感じることができ、楽しいものでした。 ※「ヤマト」に帰ってから風邪をひくことはありませんでした。 実は「人間の鎖」…恥ずかしながら初めて知ったことだったのです。去年から、リブインピースのカフェで「沖縄の基地問題」について知る機会を得ました。それまでは、本当に何にも知らずに生きてきました。また、参加者との話で「日本人の沖縄に対する差別」という言葉を初めて知りました。 なかなか頭に入らない内容でしたが、沖縄に基地がたくさんあること。銃剣とブルドーザーで自分たちの住み処を基地にされていたこと。そもそもアメリカは普天間基地から出ていく予定だったこと…など私にとって衝撃的な話を知りました。もっと知りたい気持ちでいっぱいになりました。沖縄に行きたくなりました。何かしたくなりました。 しかし「沖縄へ人間の鎖をしに行く」ことに対して、「参加してもいいのか?」という思いもありました。「ヤマト」から参加する、今まで何にも知らずいたのに運動の華に参加する…。私なんかに参加する資格はあるのだろうか?まずは大阪でやらなければならないのではないかと思いました。 しかし、何としても普天間基地の包囲を成功させ、マスコミに、政府に、国民みんなに普天間基地即時撤去・新基地建設反対の切実な声を突きつけたかったのです。そして沖縄の団結した闘いを知りたかったのです。そんな思いで参加しましたので、最初で最後のつもりで挑んだ沖縄でした。 最初に返野古で座り込みをされている現場へ行き話を聞かせてもらいました。驚いたのはこちらが言わねばならない言葉なのに「ありがとうございます」と言われたことです。お金と基地の関係の話も露骨で、そこに住む人々の苦悶をうかがい知ることが出来ました。基地の敷地と境界がある砂浜での話も印象的でした。黒人の米兵は、沖縄の人に対して「モンキー」と呼んでいる。またアメリカからしたら沖縄は戦争で勝った戦利品なんだという意識があることなどです。時代錯誤な感覚でしたが、それが現在の現実であることから目をそらせてはいけないと思いました。 そして「今は、こちらの運動の力が勝っているから大丈夫だけれども、監視カメラで見張られていて以前は基地と逆のあっちからジープで銃剣を持った米兵が来たんです。だから夜に女性が1人では来てはいけないと言っていたんです。」という話。 当たり前の生活を要求するために、民主主義の国でなんて威圧的なことをされてきたのかというショックを受けました。そして命がけの長期にわたる運動の積み重ねでジープが来なくなった成果に頭が下がりました。 その後、「琉球弧の自己決定権と脱植民地支配をめぐって」というシンポジウムに参加しました。 戦後65年経ってもまだ基地が残っている。「本土」では頑張らなくても基地が少なくて、沖縄は頑張っていても基地が増えるという憤り。これは「沖縄差別」だという話。「本土」の大部分の人は基地問題を自分の問題と考えていない。だから「沖縄がんばれ」というメッセージが未だにあったり、沖縄の基地のことを人に伝えると「若いのに偉いね」と言われる。そして活動している人に対して「基地受け入れ運動」がないという話。大阪から参加して耳が痛い話しばかりでした。本来沖縄の人は、「他人に犠牲を押し付けたくない」という気持ちが強いと聞いていました。そんな沖縄の人にそう思わせてきた自分を反省しました。参加者の中にヤマトンチューがいるとは思っていなかったような反応をされたのも、事態の深刻さを感じて胸が痛みました。 最終日は、沖縄戦について学習しました。糸数アブチラガマと佐喜間美術館に行きました。そこから見えてきたことは、「沖縄が日本の捨て石として扱われてきた実感」です。 住民は地上戦で地獄を味わいました。回復の見込みのない兵士は放置され、うめき声や叫び声をあげていたこと、手足がバラバラの住民の死体が散在する大地、軍は住民に銃を向ける、自決用の手榴弾が配られ家族で殺しあったことなど…。沖縄戦の悲惨さを訴えられた絵がありました。その中に目がない人間の中に3人だけに目を入れた思い、事実とは異なり全て五体満足の姿がありました。これらからはもう二度と戦争をおこしてはならないという切実な平和への思いが伝わってきました。 沖縄に行って、沖縄に基地を押し付けてきた日本政府にさらに憤りを感じました。名護市長選、沖縄県民大会、普天間基地包囲行動、こんなにもハッキリとした民意を全国に表明しているのに、どうしてまた「辺野古に移設」という話が出てくるのか?意味がわかりません。権力者たちとの利権に翻弄され、どうしてこんなに苦しい立場に置かれなけれはならないのでしょうか? そして「本土」に住む自分自身が「どう日本の国防と向き合うか」を問われました。哨戒艦沈没の原因を北朝鮮による魚雷だという声明を韓国が出しました。この件に関して自分がそのニュースをどう受け止めるのか?1つ1つが決断を問われます。 最後に…「本土」に住んでいて、今まで沖縄に対して無関心だった自分が本当に悔しいです。無関心でも、何事もなく過ごせるこの社会。何もしていないだけで、つらい思いをさせてしまうことになるこの社会。権力者たちの思惑に負けないように、自分の問題として自分でも考えたいことに加え、みんなで考えていけるような活動をしていきたいと思いました。 (ok) |