(1)週刊誌でこの企画を知り、早速申し込む。是非とも参加したいと意欲が沸いた 週刊金曜日に市民運動案内板に紹介が載っていた。是非とも岩国基地や呉基地を海上から見てみたいと思った。それは、以前神奈川県横須賀基地を海上から見学して、野球場や兵隊用マンションが濫立しているのを見て、なんでそこまでなっているのか驚いたことから強い衝動力が働いたからだ。さっそく申し込んだところ定員150人に対して、130人目で申し込むことができた。 (2)当日の岩国での朝の行動 早朝5時に宿舎を出て、いつも行ってる岩国基地周辺の定点ポイントに行った。基地の外でラジコン戦闘機や飛行機で誰かが遊んでいた。(後でこれは米兵であることがわかった) (3)わくわく、どっきり広島湾 クルージング 岩国・呉基地ツアーは驚きの連続 a.基地の地図をゲット!岩国基地の中の地図や再編の計画図がわかる 岩国駅午前8時10分発のバスで、岩国港へ向かった。待合室はこのツアーの参加者で一杯になっていた。(200人)。参加者は班別に分かれ、資料をもらった。その中になんと、岩国基地の絵入りの地図と米軍再編で基地がどう変えられようとしているのかの地図が入っていた。私はこれには驚いた、誰が書いたのか、米軍再編後の地図はどうやって入手したのか、これだけでもツアーに参加したかいがあったと思った。(添付しましたので、見てください。) b.貸し切りの 広島・宮島フェリー「ななうら丸」に乗船し、参加者の方から岩国基地の実態を聞き、ひどさに驚き、怒りを覚える 2階の窓際に座る。岩国港の周りに日本製紙岩国工場、石油タンクやガスタンクが濫立していた。席の隣には、岩国港の近くに住む70歳代の男性が座った。その男性が8月6日に宮島の山の上空に閃光と、きのこ雲を見て、自らもそのことで、被爆した実態を話された。また、岩国基地の戦闘機が岩国港の上空を急上昇や下降したり、旋回したりして、石油タンクなどに墜落する危険性を常に感じていると話してもらった。 c.講師 田村順玄岩国市議の説明に岩国基地の海上の様子に驚く 19才から岩国市役所で岩国港湾建設の仕事をした。岩国港は真ん中を(米軍基地で)分断され、苦労した。当時のサンパル、現在の日本製紙岩国工場の排水で真っ赤になっていた。岩国基地の沖合い41fの埋め立ての許可をするなと運動した。あまも場が壊滅すると訴えた。このあまも場は排水を濾過する役割もしていた。岩国基地沖合移設工事では2400億円掛けて、214fの広大な藻場がつぶされた。岩国基地沖合の姫小島は米軍の爆弾演習でつぶしていった。現在護岸を米軍がコンクリートで固めて使用している。新しい岩国基地の護岸は水深13bあり、強襲上陸艦エセックスが係留できるということを説明してもらえた。 d.岩国基地にはアメリカの専管水域が設定されていて(専管水域はアメリカの領土)、船舶が岩国基地には近づけない。何でだ!と強い怒りが沸く 遙かに遠く管制塔が見えた。基地の広さと同じくらいの専管水域の端に姫小島があり、長年爆撃演習に使われたため、鉛筆の芯のような形をしていた。米軍はこのままでは島がなくなると思い、米の予算で,護岸をコンクリートで固めたとのことだった。現在では爆弾の処理(有効期限の切れた爆弾を処理)に使っている。 ほかにも大竹市の無人島にヘリポートを作り、ヘリボーン作戦の演習を行っているとのことだった。海上での米軍の傍若無人ぶりには驚いた。 e.宮島の砲台を見て、知られざる歴史に触れ、驚く 宮島の瀬戸内海側を通過した。沖には海上自衛隊の潜水艦が艦橋をあげて、航行しているのが見えた。宮島の海岸に旧日本軍の砲台が見えた。鷹巣ノ浦砲台で、これらは「広島湾要塞」と呼ばれている。宮島は観光地として有名であるが、戦時中には軍の要地として機能していた、知られざる歴史がある。 f.江田島には戦後も海上自衛隊の幹部候補学校がある。特別警備隊も新設 江田島に近づいた。海上自衛隊の術科学校や幹部候補生学校がある。戦前の江田島兵学校は、1888年(明治21年)に設立され、兵学校時代の57年間で1万4124名の海軍士官を養成したという。 戦後も海上自衛隊の第一術科学校と幹部候補生学校があり、海上自衛隊の中堅や幹部を養成し続け、海上自衛隊教育の中枢機能を担っている。 大原分校には、2001年「不審船」対策として特別警備隊がこの施設内に新設された。08年には特別警備隊の訓練で隊員への暴行死亡事件が起こった。 g.江田島には、弾薬製造工場や海上自衛隊や米軍の弾薬庫があり、戦場に直結していることを実感した 江田島に弾薬製造会社「中国化薬工業」。ダイナ丸とマイト丸で社員を送迎している。(ダイナ丸は引退した)。 海上自衛隊の弾薬庫(切串弾薬庫)。海上自衛隊全体の弾薬の約55%を供給していると言われている。 米軍の秋月弾薬庫。1991年の湾岸戦争では、ここから弾薬が運び出されたことが判明している。 j.海上自衛隊呉基地には、おおすみなど護衛艦が所狭しと係留され、一大軍事要塞の姿をさらけ出していた 呉基地の歴史は、1889年(明治22年)海軍鎮守府が開庁。1903年、造船部門と造兵部門が統合、呉海軍工廠が設立。敗戦までに、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など129隻を建造。他にも大砲、戦争末期には特攻兵器を大量生産。現在、護衛艦、補給艦、掃海艇、輸送艦、潜水艦など40隻が配備。 k.このツアーで、平和都市広島の周りは、岩国基地、江田島、呉基地と戦前から連綿と続く、軍事の要塞であるに、あらためて驚いた。 この実態を多くの人に伝えたいと思った。岩国基地に空母艦載機が移駐される と一大軍事要塞になり、絶対に反対しなければいけないと思った。 2009年8月3日 |