2002年7月23日 何もわからないまま、性病の検査台に乗せられた時には、恥ずかしいやら、恐ろしいやら、痛いやら。検査器は入らないし、あんまり暴れたので、軍医もお尻をびしゃりとはたいて下ろしてくれました。 泣いて、泣いて、そっち逃げたり、こっち逃げたり。隠れていたら捕まって、髪結びつけて殴ったり、足で蹴ったり。暗い部屋に縛り付けて、飯も食べさせない。そうして死ぬ前に保護して、今日から兵隊さんの言うこと黙って聞くんだぞ、とこう言います。そう言われても、その時間になると、やっぱりいやだから、また同じことの繰り返し。涙ばかり流して。 逃げようとしても帰る道もわかりません。最初は泣いてばかりいましたが、軍人の言う通りにしなければ帳場に殴られる。軍人には刀で脅される。命が惜しくて、死ぬのだけはいやでした。だから軍人の言うことを聞ぐしかねがったんです。日本語も必死におぼえて、はたかれないように、殺されないように、一生懸命やったんです。 明日は死ぬという覚悟で戦やっている気の荒い軍人ばかり相手にしてたから、私の気性もすっかり荒くなりました。毎日、毎日ビンタとられて、ほっぺたにはタコがよって、今じゃなんぼ叩かれても痛くありません。鼓膜が破れて、耳も片一方しか聞こえません。慰安所で彫られた入れ墨が恥ずかしくて、風呂にも行けません。それでも、生きて来られただけなんぼかましかもしれません。 隣の慰安所では、クレゾールを飲んで死んだおなごもいました。病気のとき相手をするのを断ったら軍人に殺されたおなごもいます。空襲で死んだおなごも、兵隊さんと心中したおなごもいました。一緒に死んだって、兵隊さんは自分の国に骨が帰るけど、朝鮮のおなごは死んでも自分の国には帰れません。ただそこで穴掘って埋めるだけです。あんな地獄のような慰安所で死んで、ただ穴掘って埋められておしまい、死んでも国に帰ることもできない朝鮮のおなごたちは本当にかわいそうでした。 けれど、生き残った方が幸せだったのか、戦地で死んだ方がよかったのか。戦争が終わって日本に来てから、海に入って死のうと思ったことが、一度や二度じゃありません。汽車から飛び降りたこともあります。 若い頃は毎日、毎日、兵隊の夢を見ました。うんうんうなされて、汗びっしょりかいて、金沢幸一(仮名)に起こされました。慰安所のことは、何年経っても、いくら忘れようとしても、忘れることができません。ぐしゃぐしゃして、荒れて、大酒飲んで暴れたこともありました。大酒飲んで暴れても、悔しい気持ちが晴れるわけじゃなし、ますます腹が立つだけなのに、馬鹿なことをしたと今では思います。でも、その時はそうしねえでえられねがったんです。 なして日本の戦に、まだわけも分からない朝鮮の子どもが連れて行かれて、あんな苦労をしなければならなかったのか。考えても、考えても、意味が取れません。だから悔しい気持ちが出るんです。 年をとってから「敬老の日」に近所の年寄りには座布団が配られるけんど、私には届きません。何年も同じ町内に暮らしていても、こんなところまで差別つけられてます。近所には軍人恩給をもらって大いばりで暮らしている人もいます。遺族年金をもらっている人もいます。戦地に引っ張っていく時は「御国のため、御国のため」と言っておいて、今になって、なして「朝鮮人」だの「慰安婦」だの、「生活保護」だのと差別をつけるのか。まったく意味の取れないことばかりです。 だから裁判に訴えました。なんじょのものだが、意味を知りたかったんです。なして私が「慰安婦」にされたのか、なして差別をつけられるのか、その意味をはっきりさせたかったんです。そうして近所で白い目で見られないようにして欲しかったんです。 裁判を始めたら、「生活保護受けて、人の税金で食ってるくせに、何の文句があって裁判するのか」「日本の国に住んでるのに、日本人ばかり悪者にするな」「文句があるなら韓国に帰れ」などと言われました。 「国民基金」をもらえばいいんだ、という人も近所にはいますが、意味の取れない金をもらうわけには行きません。民間人の金を集めてくれると言っても、また白い目で見られるだけです。 最初に裁判に訴えた時の首相は宮沢さんでした。今の小泉さんでもう8人目です。首相がころころ入れ替わり立ち替わり代わっても、民間人の金を集める話以外は何も出てこない。国会で何か話が出るかと思って、いつもテレビで国会中継を見てます。でも、近頃じゃちっとも話も出ねえじゃないですか。恥を忍んで、針のむしろに立つ思いで訴えたのに、10年もの間、ほんなげられてきました。きちんと謝罪して、「申し訳なかった」と、意味の取れる補償をしてくれなければ、また恥をかくだけです。 20年ほど前に金沢幸一が亡くなってからは、ずっと独りで暮らしてきました。日本には肉親は一人もおりません。風邪でも引いて寝ていると、このまま独りで死ぬんじゃないかと思い、恐ろしく、情けなくなります。近所の人たちには家族もおり、子どもも、孫もいるのに、私は独りです。戦地で日本の軍人の子を二人産みましたが、慰安所では育てられずに他人に預けました。どうにも仕方がなかったとはいえ、親が子どもを捨てるような罪作りなことをして罰が当たったんだと、涙が出てきます。中国から、親探しの子どもが日本に来ると、一人一人顔を確かめて見るが、分かりません。せめて子どもでもいてくれれば、こんなに肩身の狭い思いをしなくても済んだのではないかと思えてならねんです。 裁判を始める前は、恥ずかしくて、誰にも慰安所のことは話せませんでした。でも、裁判を始めてから、本当にたくさんの人の前で体験を話しました。信用してもらえるかどうか心配でしたが、みんな心から聞いてくれました。中には、私が慰安所に連れて行かれたちょうど同じ年頃の子どももいました。こんな子どもに意味が取れるのかと心配で、心配で、恥ずかしくて話したくなかった、逃げ出したかったけんど、仕方がない、話をしたら、こんな子どもでも、ちゃんと意味を取って、涙を流しながら聞いてくれました。半分は気持ちが晴れました。安心しました。 人の心の一寸先は闇です。慰安所で七年、日本に来てからも五十年以上、人の心が信じられずに生きてきました。疑うことしか知りませんでした。でも、裁判かけて、体験を話してから、少しは人間らしくなれたと思っています。 私は16の年から日本人の中で暮らしてきました。日本人と気持ちよくつき合いたいと願い、そう努めてきました。私はあと何年生きられるんだか分かりません。けれど、日本に住む朝鮮人の子どもと日本人の子どもたちが仲良くするためにも、過去の過ちは過ちとしてきちんと反省して、「申し訳なかった」と謝罪して欲しいです。 世間では、「慰安婦」は民間業者が連れ歩いたと陰口を言う人もいます。戦地のことは、戦争に行った者でなければ分かりません。戦争がどんなに残酷なものか。民間業者がそんなことできるはずがありません。 あんな残酷な戦争は、二度と繰り返してはいかんのです。「慰安婦」ばかりでなく、中国の人も、日本の兵隊も、苦しめられた惨めな姿を、私はこの眼(まなこ)で見てきました。 なのに、日本政府は再びあの残酷な戦争を始めようとしているように見えます。過去を反省しないから、戦争の恐ろしさを知らないから、そんなことを考えるんです。私の話を聞いて涙を流してくれた子どもたちが、あんな残酷な戦に引っ張られて行くことがあったら、と思うと、近頃はまんじりともできません。ほんと、いくらも寝ねられねえんです。 「慰安婦」問題を子どもたちの時代にまで持ち越さないように、子どもたちを二度と残酷な戦争に巻き込まないように、再び戦争するための法律ではなく、過去の問題をきちんと解決する法律を作ってください。そうでないと死んでも死にきれません。よろしく頼みます。 |