『ともに「慰安婦」問題解決!韓・日・在日平和紀行』報告

 (以下は、2009年12月13日にリブインピース@カフェで報告された内容に加筆訂正したものです。)

平和紀行スケジュール
11/22(日)
11:25 仁川空港到着
15:00 イムジンガン駅からトラサン駅へ
18:00 海鮮料理店で夕食

11/23(月)
10:00 挺対協事務所での懇談会
12:00 昼食(パン工場チームと交流)
14:00 龍山で龍山惨事対策委員会と交流
16:30 イ・ミギョン議員との面談
   国会議会会館での懇談会
18:00 「ウリチプ」のハルモニと交流(夕食)

11/24(火)
10:30 堤岩里3.1運動殉国記念館の見学
12:30 昼食(スォンカルビ)
13:30 水原行宮の観覧、博物館館長が説明
17:00 「ナヌムの家」のハルモニと交流
    歴史館観覧
18:00 チムジルパン体験(健康の国)・夕食

11/25(水)
12:00 水曜デモ参加
13:00 昼食
 11/22−11/25に『ともに「慰安婦」問題解決!韓・日・在日平和紀行』に韓国に行ってきました。
 それをテーマ別に整理して報告します。(時系列は右の表を御覧下さい)

1、日本軍性奴隷(日本軍「慰安婦」)被害者とその支援者との交流
(1)挺対協事務所にて
 挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)は日本軍「慰安婦」被害者の支援と運動をおこなっている団体で、来年には20周年を迎えます。毎年「後援の夕べ」という後援者の集まりで1年間の報告をしています。来年は20年目を迎えるので忙しいのですが、その中でいろいろ案内をしてもらいました。
 まずはユンミヒャン代表に当面の運動方針について説明してもらいました。
 日本では「120万人署名」への取り組みがすでに始まっていますが、日本の人口の1%が120万人なら、韓国では50万人だということで、「50万人署名」の立ち上げが挺対協だけでなく「慰安婦」問題を取り組んでいる様々な団体の連合体で決まりました。
 その要求は、日本政府に対して解決のための立法化を迫り、韓国政府は日本政府に圧力をかけよというものです。まずは3月末の締切を目指して署名活動がおこなわれます。2つ目は299名の韓国の国会議員に対して鳩山政権に要求せよという署名をさせること。3つめはハルモニたちの住んでいる地域で市議会決議をあげていこうというものです。韓国でもすでに大邱(テグ)市(7月24日)と富川(プチヨン)市(9月8日)の2カ所で市議会決議があがっています。この運動を推進し、決議をあげていこうとしています。(さらに帰国直後の11月30日には統営(トンヨン)市で、12月24日には巨済(コヂェ)市で決議があがりました。)
 挺対協以外の様々な団体も日本の動きに敏感に反応して活動していることも知ってほしいと、様々な全国の主な活動団体の名前を挙げて紹介してもらいました。
 活動が増えていく中で挺対協の中でも様々な委員会が増えていくが、それをわずかなスタッフでこなしているという実情も話してくれました。
 挺対協の活動には、ハルモニの生活の支援や「ウリチプ」(ハルモニたちの住居)の運営、・戦争と女性人権博物館の建設などがあります。その中で特に「戦争と女性の人権博物館」が今困難に陥っていることについて話してくれました。
 それはひとつは独立運動の遺族の反対です。最近も「光復会」(独立戦争遺族会の中では大きな存在であり、したがって集票力が大きい)の会長の博物館建設に反対するインタビューがあり、その中で(博物館の建設予定地の)西大門(ソデムン)公園に独立運動の犠牲者の位牌を祀る施設を建てようという動きがあるということなのです。

ユンミヒャンさんの説明に聞き入る参加者
 ただ、「光復会」の反対よりも建設費の準備が一番厳しいというのが実情です。現在15億ウォン(約1億5000万円)集まっていて着工は可能な状況ですが、目標の30〜40億ウォンにはまだまだ足りません。日本では1億円を集めるという目標が梁澄子(ヤンチンジヤ)さんによって大々的に打ち出されたので韓国でも負けてはいられないとがんばっておられます。
 また新しい問題としては、企業に基礎工事を依頼するのに、イミョンバク政権の意に染まない事業に手を出した企業が潰されるという噂が立っているということがあります。これに関しては、「鳩山政権が積極的に動きそうだから韓国も動くだろう。企業も先に動いた方が良いのでは」という働きかけをしている最中だということでした。

 説明の後、日本の帝国主義に同じように苦しめられてきた独立運動の遺族がなぜ「慰安婦」のための博物館に反対するのか、1993年(金泳三(キムヨンサム)大統領の時)にできた被害者への支援法の中身を教えてほしい、韓国の教科書で「慰安婦」の記述はあるのかなどといった質問に対する応答がなされました。

 現在の挺対協の事務所は、以前の西大門(ソデムン)前から引っ越したばかりで、ウリチプも以前の場所から引っ越しました。家主はいい人で支援もしてくれ、出入りのコピー屋さんもいい人で、いい紙を入れてくれるし、お菓子の差し入れもしてくれるとのことでした。

 「生存しているハルモニが人生を楽に暮らしていけるように補助する仕事をしているが、たくさん亡くなられていて、生存するひとは韓国籍でもう90名になっている。高齢で生きている内に実を結ぶよう活動をお願いします。」とのスタッフの方々の言葉が身にしみました。

(2)国会議員会館で議員との懇談

イミギョン議員らとの懇談
 私たちは国会議員会館で、90年代から運動に関わっていた民主党事務総長のイミギョン議員と民主労働党のパクチョンス議員と懇談をしました。
 韓国の国会は一院制で、与党のハンナラ党が過半数を占めています。
 イミギョン議員は、韓国で初めて元「慰安婦」と名乗り出たキムハクスンさんの証言の準備もしてこられた方です。今も国会議員の会を作って活動しています。
お二人に日本の運動の現状を伝え、韓国政府として力を貸してほしい、日本でも超党派女性議員の集まりがあるが、韓国の議員としての活動について考えを聞かせてほしいと要請しました。

 イミギョン議員は、問題解決に時間がかかりすぎているということを強調されました。これまで20年もかかっており、その長い時間の中で逆に本質を伝えることができたという利点もあるが、とにかく長すぎる。2010年を超えたくない。日本で政権交代もしたし、早く終わらせるきっかけができたと思う。ただ、民主党は日本の民主党と同じで人数が多い分、進歩的な人もいるし保守的な人もいる。でも韓国からも過去を清算すべきという声を上げたい。日本の立法案は15年前から知っていた。その立法に真相究明という項目が入るべきだが、通るべき法律だから韓国からも声を上げていきたい。といったことを語られました。
 パクチョンス議員も、立法が通るように力を尽くしたい、議員の懇談を通じて力を合わせて与野党であれ、力を合わせ、知恵を出し合いやっていきたいと話されました。

(3)ウリチプ訪問
 「ウリチプ」というのは「私たちの家」という意味で、現在2人のハルモニが暮らしておられます。右の写真はそこでいただいた心づくしの食事です。
 ハルモニたちと歌を歌ったりするなど楽しいひとときを過ごしました。キルウォノク(吉元玉)ハルモニが作ってくれた海藻のキムチもおいしくいただき、挺対協のヨンソンミンさん達が作ってくれた料理に舌鼓を打ち、楽しくハルモニや在日の人や日本の人や挺対協の人の歌にも聞き惚れて、楽しい時間でした。



(4)ナヌムの家訪問
 映画にもなったナヌムの家では、現在9人のハルモニが暮らしておられます。その中には11月28日の証言集会のために来日されたカンイルチュル(姜日出)ハルモニ(82才)もおられます。
 スタッフは日本人男性の村山一兵さんが有名ですが、他にも日本人や韓国人のボランティアの方が何人もいらっしゃいました。
 ナヌムの家も以前の建物から同じ場所に新築したばかりで、ハルモニも落ち着かない様子でした。1階が住居で、2階が食堂と台所です。敷地内には「慰安婦」の歴史を語る小さな博物館があり、見学に行きました。中には当時の「慰安所」を再現した部屋がありました。この歴史館での村山さんの説明に感銘を受け、ハルモニと握手やハグをすることが出来て、うれしかったです。

再現された「慰安所」

(5)第893回水曜デモ

第893回水曜デモ

雨の中アピールをする
キルウォノク ハルモニ
 毎週水曜日にかかさずソウルの日本大使館前でおこなわている水曜デモに参加してきました。デモといっても行進をするのではなく、大使館前でハルモニや支援者が集まって様々な形でアピールをするというものです。
 最初に司会の方が挨拶をされ、この間の経過報告があり、それから文化公演としてノレ(歌)やイミョンバク政権への風刺劇がおこなわれました。それから参加団体の紹介があり、国際大学学生や日本の関西からやってきた私たち「平和紀行」のグループが紹介されました。
 日本の証言集会に来られたこともあるキルウォノク(吉元玉)ハルモニがアピールをし、最後に声明書の朗読とシュプレヒコールがおこなわれました。

2、韓国社会、とりわけイミョンバク政権批判とその運動との連帯
(1)ヨンサン(龍山)虐殺事件
 ソウル市のヨンサン地区は長い間米軍基地があって、開発できなかったところでした。米軍基地再編成でヨンサン基地は統合移転し、閉鎖されました。イミョンバク政権になって、この地域の再開発が進み始めました。この地区は露天商が多く、ゴチャゴチャした街です。それを潰して新しい高級マンションを建てようというのが再開発のやり方なのです。雇われた追い立て屋が嫌がらせをして住民を追い出そうとしましたが、住民たちに行くところはありません。家主側は再開発するから出て行けの一点張りで、300万ウォンの保証金しか出そうとせず、補償もありません。ずっと住むつもりで家賃をちゃんと払い続け、借家を改修して住んできたのです。韓国にはこのように家を撤去されている人々が大勢います。
 大企業を守るために零細民を劣悪な環境に追いやって、しかも対話ができないために住民たちは籠城闘争への道を取ったのでした。住民たちの要求は、(1)生存権獲得、(2)資本家のための開発を止めてくれ、(3)補償しろ、でしたが、政府がそれに対して一言の回答もありませんでした。
 住民と支援者が籠城に入った1日目の1月19日、ビルの屋上からコンテナごと特殊部隊が突入してきました。住人と支援者は籠城して対抗するために火炎瓶を準備しており、ストーブもありました。突然火災が発生してあっという間に火が大きくなり、住民と支援者の5人と特殊部隊の1人が亡くなりました。なぜこんな無謀な突入がおこなわれたのか、死因は何かなどの真相究明はまったくされていません。当局は焼死だと発表していますが、殴られて死んだとも言われています。死因を隠蔽するために遺体を分割して霊安所に保存し、当局はその遺隊を家族にすら見せないままです。
 籠城していたところに飾られている横断幕は東京であったプラカードを参考に日本の作家が作ったものでした。日本からも多くの支援者が来ています。抗議集会では、対策委員会を作って真相究明をせよ、元々この突入計画をした責任者を処罰せよとの要求が出されています。
 私たちがここを訪れた11月19日はちょうど10ヶ月目にあたる日でした。当時屋上にいて今も生存している人は、なんと仲間を殺害したということで拘留されているのです。
 例えば父と息子で屋上に上がっていたのが、父が死に息子がその父を殺したという罪を着せられているのです。彼は一審で6年の刑を宣告されました。政府だけでなく司法もそのような判断をした。夫を殺された女性は、息子までも父殺しの罪で投獄されているのです。そんな状況でお葬式もできません。裁判も公正でなく、警察も捜査資料の3割を公開しようとしません。
 野党は解決しようとしているが与党ハンナラ党の力が強くてできていないということです。アムネスティ事務局長も現場に来て「韓国は人権的なレベルに達していない。勧告していく」と述べています。

(2)DMZ(非武装地帯)
 DMZ(非武装地帯)とは南北朝鮮の境界線付近の地域のことで、民間人は行動が制限されている場所です。2000年に韓国・北朝鮮のトップ会談で植民地時代の鉄道をつなげようということになりました。北側の一番南の駅がパンムン(板門)駅です、南側の一番北がトラサン(都羅山)駅です。2002年にトラサン駅ができて、今レールはつながっていますが、まだ客車の運行はなされていません。トラサン駅では身分証を出してチケットを買わなければなりません。電車は1時間に1本しかありませんでした。

地図の中央に「ウリヌンハナ!(私たちは

ひとつだ)」と大きく書いてある。
 韓国の太陽政策で共和国との緊張は解けているものの、やはり未だに停戦といえど、戦争中なんだと感じました。韓国軍の兵士達の許可なしには非武装地帯には入れなかったからです。

(3)「北側オリニ栄養パン工場」見学ツアーの中止
 「オリニ」とは「子ども」という意味です。材料を韓国側から提供し、北朝鮮側の人間が作り、共に北側の子どもを育てようという主旨の工場なので工場見学ツアーという企画がありましたが、その企画はイミョンバク政権の元で中止になってしまいました。
 日本では事業所は大阪から始まり、東京、名古屋と増えています。会員募集中です。

(4)市庁(シチョン)前広場
 集会やデモでよく使われるところ。ワールドカップやローソクデモでも有名。ある時に当局が使わせないとして、日本で言う機動隊(軍事警察)のバスで10cmも隙間がないくらいに囲って入らせないようにしていました。

3、過去の清算のために――堤岩里(チェアムリ) 3・1独立闘争とその弾圧及び虐殺
 1919年3月1日、日本からの独立を叫ぶ「万歳運動」がソウルから始まり、たちまち全国民的な運動になりました。
 私たちは、その3・1独立闘争とそれに対する激しい弾圧の跡を訪ねて京畿道(キヨンギド)(韓国北部)華城(ファソン)市(事件当時の名称は水原(スウォン))の松山(ソンサン)を訪れました。
 そこは魚介類の豊富な地域で、塩田もありましたが、それらが東洋拓殖会社を通じて奪われていきました。1919年4月15日、堤岩里(チェアムリ)の教会では30人ほどが押し込められた教会が放火され、その人々が焼き殺されたという凄惨な事件がありました。犠牲者の中には15歳の少年もいたということです。4月は乾燥していて、遺体が何ヶ月も放置され死臭が漂い続けたとのことでした。
 朝鮮の独立運動の力強さについて学びたいと思うと同時に、その原因となった日本の植民地支配及び運動に対する弾圧・虐殺について日本軍「慰安婦」問題と一緒で解決への一歩として進んで行かなくてはいけないと感じました。

3・1独立運動の展示

4、在日韓国・朝鮮人と日本、北朝鮮と日本の問題について
――日本の民主党の地方参政権法の欺瞞、在日の分断のための法案だと暴露、及び朝鮮籍在日はなぜいるのかの問題提起、北朝鮮と鳥取・境港の問題
(1)「朝鮮籍」とは
 今回、朝鮮籍をもった在日の方が韓国に来るのに大変な苦労をしました。
 「朝鮮籍」とは一体なんでしょう。朝鮮民主主義人民共和国の国籍だと誤解されていますが、そうではありません。(国交を結んでいない国の国籍を称することは認められていません)
 これは正式な国籍を表すものではなく、1947年の「外国人登録令」によって朝鮮半島の出身者に対して一律につけられた、いわば記号としての表記なのです。もちろん、この時点では大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国も建国されていませんでした。朝鮮籍はこのように歴史の中で形成され、日本によって作られたものでした。
 大韓民国の成立後、「韓国籍」ができ、1965年の日韓会談後、韓国籍の在日韓国・朝鮮人が多くなりました。このように朝鮮籍と韓国籍ができたことで在日社会が分断されてきたという経緯もあります。
 鳩山政権の地方参政権法案は一見いいことのように見えますが、実は朝鮮籍を持つ人を除く法案なのです。これには怒りを覚えます。
 キムデジュン政権の時は朝鮮籍でも韓国に行くことができました。しかし、イミョンバク政権の今、申請してから2週間経ってだめだと言ってきたのです。挺対協を通じて公式に理由を尋ねたところ、在日韓国大使館の領事は「個人の旅行だったら99%認められない。挺対協の要請だったらいいけど、その理由をあなたは知っているでしょう」と。朝鮮籍が理由と言いたいようです!
 その方はなぜ朝鮮籍を守っているのかお話を聞きました。以下は、私が聞いたお話の内容です。
「自分が国籍を自由に選択できるときはなかった。勝手に朝鮮籍にしておいて、それから韓国籍を取れと踏み絵を踏ませるような形に日本がした。パスポートは『再入国許可書』しかない危険な状態で来ている。解放後も日本は在日に何をしてきたのか。このことが端的に表れている。歴史を埋もれさせないために、証拠を残すために朝鮮籍を守っている。北朝鮮支持で持っている人もいるし、朝鮮は一つという意味も込めて持っている人もいる。韓国籍、朝鮮籍と差別しないでほしいと議員に訴えた。ちなみに韓国籍でも朝鮮民主主義人民共和国を支持している人は多くいる。韓国人の中でも旅券がなぜ出ないのか知られていない。在日も自国の人民だという意識がない。すべて同胞と見なしてほしい。韓国政府も地方参政権を要求していたが、それだけではいけない(朝鮮籍を除いた法案だから)。韓国大使館領事『○○さんも韓国籍に変えている。あなたも理論的だが情勢を見るべきだ。』差別は制度があるから公然化し、助長される。麻生首相がミョンバク大統領と会談したあとに北朝鮮を制裁し、朝鮮籍の人が韓国に行くのが難しくなった。」

(2)境港
 水木しげるロードなどでも有名な境港(さかいみなと)は、2006年までは朝鮮民主主義人民共和国の東海岸の江原道(カンウォンド)ウォンサン(元山)市と姉妹都市提携をしていたのに、境港市は共和国が核実験したからと一方的に破棄をしました。境港の漁獲量は5年(92−96年)連続日本一だった時もあるが、その後減少を続けているところへウォンサン市との経済的な交流を一方的に無くしたので、より漁獲量の落ち込みは激しくなりました。鳥取県は韓国の方の江原道(カンウォンド)と友好提携をしていて、2009年 国際定期貨客船 - DBSクルーズフェリーが境港に就航しました。共和国との関係を切り、韓国と仲良くしようとするのは朝鮮統一の動きに反し、分断の動きを推進するものだと思いました。

 私たちは共に住み暮らしている在日の抱えている問題をどれだけ知っているのでしょうか? 偏見を持って見ていないでしょうか? 朝鮮を北だ、南だと分けることは日本社会にとって意味はあるのでしょうか? それを特に点検できるきっかけを作ってくれた素敵な在日の女性達に感謝です。

以上 報告おわり

参加者の方々からの感想

「ひとこと感想です。こころのこもった報告に聞き入りました。そのなかでもナヌムの家が新しく建て替えられた報告が気になりました。ハルモ二達が新しい環境になじめるよう回りの支援が、一層大切やなと思っています。一兵さんという頼もしい支援者が出てきてくれたのはよかったなとも思いました。」(H) 

「ヨンサン事件は驚きました。あんな激しい闘争と弾圧が日々繰り広げられていることに衝撃を受け、かつての軍事独裁政権時代の韓国を思い出しました。月並みですが、韓国人民の不屈の意志を感じました。」(N)

「とても生き生きとした素晴らしい報告で、自分がその場にいるような気分になりました。
ナヌムの家の歴史館の写真が特に印象的でした。
余談ですが、報告者が私と同じ“鉄”であることを知りました(^^ゞ 」(O)

「韓国報告の感想では、韓国でも50万人署名が始まることは、素晴らしいことだと思った。朝鮮籍の問題では、私も知らなくて、なんとむごいことを日本政府がしているのかと怒りを感じた。
ナヌムの家・ハルモニとの交流、歴史館観覧では、ハルモニとの交流には心温まるものを感じ、歴史館では、「慰安所」を復元した展示物や当時の写真など、どれも鋭いもので、当時の過酷さに驚いた。
 貴重な報告なので、もっと多く人に伝えたいと思った。」(K)

「報告者が現地で運動をしている人たちと交流できた感動をもたれたことに共感しました。その気持ちがよくわかりました。」(S)

2010年1月17日
リブ・イン・ピース☆9+25
(リブインピースだより第7号より抜粋)