2010年10月14日 私は沖縄は初めてではありません。四回目か五回目か……それなりに回数だけは重ねています。 私が日本軍「慰安婦」問題に関心を持ったのは大学生の時ですから、もう二十年くらい前になります。当時は金学順ハルモニが名乗り出られる前で、千田夏光や金一勉、あるいは吉田清治など少ない本しか世に出ていませんでした。そんな中で私の心をわしづかみにしたのは川田文子さんの『赤瓦の家』でした。心の中で在日朝鮮人問題が最も多くを占めていた頃、ペ・ポンギハルモニとの出会いは、今でも心の中に引きずっています。ペ・ポンギハルモニがどんな思いで「慰安婦」とされた過去を抱え、沖縄で戦後を生きてられたのか、今でもよく思い悩みます。金学順ハルモニが名乗り出られたわずか二ヶ月後の一九九一年の十月、ペ・ポンギハルモニはひっそりと亡くなられました。もし生きておられたらこの十九年をどのように感じられたでしょうか。私たちは未だに真の解決を実現できていません。 沖縄に、ペ・ポンギハルモニや他の「慰安婦」の足取りを訪ねることは、二十年来の夢でした。それがこれまで実現できなかったのは、ひとつは政治課題が浮上する事でしか訪沖しなかったということ、そしてもう一つはこれまで「慰安婦」問題の運動には関わってこなかったので、この問題に関する人的なつながりがないということでした。この間、運動に関わることにより人のつながりができ、念願の「慰安婦」被害者の足跡をたどる旅を実現することができました。関西で「慰安婦」問題の解決に取り組む友人たちに本当に感謝しています。 沖縄では「慰安婦」問題の真相究明への取り組みが本当に進んでいます。それは沖縄での「慰安婦」被害が日本の他のどこよりも「戦地」あるいは「準外地」であったことの証左でもあるのですが、それよりも沖縄の運動の力に他なりません。 今回の旅では、歴史に学ぶと言うよりも、沖縄の運動に学ぶことの方が大きかったようにさえ思います。様々な人のつながりに感謝しつつ、この原稿を書きました。是非お読み下さい。 おーたからん 拝
|