[リーフレット]
「宮澤・レーン事件」
──国家秘密体制が作り出した冤罪事件


語学が堪能で旅を愛した大学生 

日本の学生たちと親交をもった米国人教師

1941年12月8日

彼らが「スパイ」として投獄されたわけは?


「宮澤・レーン事件」
──国家秘密体制が作り出した冤罪(えんざい)事件
 1941年12月8日、北海道帝国大学で教師や学生たちが特高警察によって逮捕された。
 逮捕された中には、工学部の学生宮澤弘幸さんと北海道帝国大学予科(現在の大学教養課程)で英語を教えていた米国人ハロルド・レーンとポーリン・レーン夫妻がいた。
 宮澤さんは、旅を愛し、英語とフランス語を得意とする青年であった。彼は日本の国家を信じ、海軍へ志願しようとしていたが、同時に、「ソシエテ・デュ・クール(心の会)」の一員でもあった。
 この会の中心にいたのがレーン夫妻であった。彼らは戦争絶対否定の立場に立つクェーカー教徒で、親元を離れて学業に勤しむ学生たちと家族ぐるみの親交を結んでいた。

 会の中には反ナチのドイツ人教授やアイヌの研究をしていたイタリア人留学生もおり、国境や民族を超えた友情が結ばれていた。
 「外国人は全員スパイ」との認識を持っていた政府は、中国での戦況が激しくなるにつれ、外国人とつきあう日本人にも疑いの目を向けるようになった。
「現在の日本国民は、私共の目から見れば、防諜を知らざるが故に、とは言い乍(なが)ら、殆(ほとん)ど大部分、外国のスパイの手先であると言って憚(はばか)らぬ程度なのである」
(一九四一年『防諜講演資料』より)

 そして北大の「心の会」も特高に監視されるようになっていった。
 1941年12月8日、日米の開戦と同時に「戦時特別措置」により、全国で一斉に「スパイ容疑者」の検挙がおこなわれた。検挙者は全国で178人に及んだ。
 宮澤さんが逮捕されたのは、友情は変わらないと告げにレーン夫妻の家を訪ねた帰りのことであった。時を同じくして、夫妻も逮捕された。
 宮澤さんには、激しい拷問が加えられたが、身に覚えのないことを「自白」できるはずもなかった。
 1942年12月、札幌地方裁判所は次の判決を下した。 
ハロルド・レーン 懲役15年
ポーリン・レーン 懲役12年
宮澤弘幸 懲役15年

 レーン夫妻は札幌刑務所で服役し、1943年9月には、「交換船」で米国に強制送還された。(この時、米国で拘留されていた日本人が、彼らと交換に帰国している。)
 一方、宮澤さんは網走刑務所で1945年まで服役させられた。この極寒の地で彼は栄養失調と結核を患った。
 1945年10月、治安維持法などで捕らえられていた政治犯の釈放を指令したGHQによって宮澤さんはようやく釈放された。
 しかし、拷問と厳しい獄中生活のために憔悴し、歯は抜け、顔はむくみ、かつての親友すら彼とはわからない姿になっていた。
 この裁判の記録は、敗戦直後、占領軍の追求をおそれた司法当局によって焼却処分されてしまった。いったいどんな理由で宮澤さんたちが罪に問われたのかは、歴史の闇の中に沈んだ。
 1947年2月、宮澤さんは、結核が悪化し、真相を究明することもできないまま亡くなった。
 1951年、再び北海道大学に迎え入れられたレーン夫妻は、来日後真っ先に弔問のために宮沢家を訪れた。
 しかし、息子が逮捕、投獄され、悲惨な死を遂げたのは、レーン夫妻のせいだと思いこんでいた家族は激怒し、夫妻を追い返した。
 真相がわからないために被害者同士で傷つけ合うことになってしまったのである。
 真相が明らかになったのは、1985年のことであった。
 この頃、国会には、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案(スパイ防止法)」が上程されようとしていた。この法案では最高刑は死刑とされていた。
 この法案の阻止活動をしていた上田誠吉弁護士が、かつての軍機保護法の歴史を掘り起こそうと調査をしていたところ、「宮澤・レーン事件」の判決文を発見したのである。
 それによれば、宮澤さんが有罪とされた根拠は、単に、旅行した時の見聞をレーン夫妻に語ったということに過ぎなかったのである。

根室港に着水するシリウス号

リンドバーク夫妻を一目見ようと集まった人々
 宮澤さんが根室を旅行した時の話として、海軍の飛行場の存在などをレーン夫妻に語ったことが軍機保護法違反とされていた。しかし、根室沖に海軍飛行場があることは、当時、日本中に広く知れ渡っていた。
 1931年に有名な飛行家リンドバーグ夫妻が、北太平洋航路調査のため、水上飛行機シリウス号で米国から中国までの飛行の途中日本各地を訪れたことが、日本中の話題になっていた。彼らの動向は新聞で大々的に報じられ、その中には根室の海軍飛行場に着水したことも含まれていた。
 判決の中で列挙されているこれ以外の事柄もすべて一般に知られている事実であった。したがって、軍機保護法に言う「軍事機密」の「探知漏泄(ろうせつ)」(探り当て漏らす)には当たらなかった。
 当時の法に照らしても、完全に冤罪(えんざい)であった。
 しかし、宮澤さんの弁護士がこれらの事柄は「公知の事実」だと主張しても、当時の裁判所は、「海軍が公表しなければ秘密」という判断を下していた。客観的な事実がどうあれ、軍が秘密と言えば秘密だということなら、誰でも有罪にしうる。
 この事を知らされた宮澤さんの妹秋間美江子さん(米国コロラド州在住)は、はじめは、封印した悲しい過去を今更、という気持ちが強かったが、夫の秋間浩さんの支えで、この事実を広く訴えなければならないという気持ちになった。
 それからは、証言を求められれば何度でも来日し、各地で事件のことを話し、精力的な活動をおこなった。
 1985年12月、「スパイ防止法」は各界の猛反対と野党の徹底抗戦によって、国会での審議未了・廃案となった。そして、その後も再提出はおこなわれなかった。
 しかし、今日、「特定秘密保護法」として三度(みたび)過去の亡霊がよみがえろうとしている。

  兄の悲劇で 両親も私も身体から涙が抜けきってしまった…
  同じような悲劇が 誰かの家族の上にも降りかかろうとしているのです
  みなさん 何としても秘密保護法案を通さないでください
  宮澤事件は まだ終わっていません

    秋間美江子さん(86歳)のお話(東京新聞2013/10/14)
 もしも、特定秘密保護法が成立すれば、「宮澤・レーン事件」と同じように、この法律に違反したという名目で逮捕・起訴された場合、被告は防御のための手段がなくなる。
 具体的に何が特定秘密なのか、被告の行為がどう秘密保護法に抵触するのか等について審問し反論することはできなくなるからである。
 弁護士も特定秘密を知ろうとすることは刑罰の対象となり、行政機関の長が許可しない限り裁判官すら何が特定秘密か知ることができない。
 だから、検察官は被告の行為が特定秘密に抵触するというだけで起訴ができ、被告の反証なしに一方的に有罪とできるのである。
 このような政府の好き勝手を許す法律を決して実現させてはならない。
 このリーフレットを作成するにあたって以下のビデオ・文献・ホームページを参考にさせていただきました。
・『レーン・宮澤事件 もうひとつの12月8日』(50分)1993年12月制作
・調査報告「宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件再考」逸見勝亮――北海道大学所蔵資料を中心に――
・「軍機保護法 秘密保護法と酷似 スパイ濡れ衣 宮沢・レーン事件」(東京新聞2013/10/14)
・「軍機保護法 戦前からの警鐘」(朝日新聞2013/11/8)
・根室市ホームページ(リンドバークの画像)

2013年11月15日
リブ・イン・ピース☆9+25