東日本大震災の被災地、宮城・福島を訪ねて
地震・津波そして原発事故

 9月20日から24日までの4泊5日で宮城県・福島県を訪ねてきました。津波被害が甚大だった石巻市、女川町、南三陸町と福島原発事故により全村避難となった飯舘村、福島原発から約7qの浪江町請戸(うけど)、福島市の中でも比較的放射線量の高い渡利(わたり)地区などに行って来ました。

津波の爪痕が残る石巻、女川、南三陸
 南三陸町は約14mの津波が押し寄せました。津波が押し寄せてくる前には島まで潮が引いていたとのことでした。
 13mあった防災庁舎は津波に飲み込まれてしまいました。屋上には職員や避難してきた人が30人いました。しかし、助かったのは10人だけでした。
 この防災庁舎は1960年に起きたチリ地震大津波を基準津波として建てられていました。基準を満たしているからそれでよいとは言えないと案内をしてくれた地元の方は言ってました。

 


ビルも土台から押し流す津波に襲われた女川町
 女川町は町の中心部のほとんどが津波に浚(さら)われていました。
 女川原発も約13mの津波が襲いましたが、14.8mの防潮堤が津波から原発を守り、原子炉の冷却を続けることができました。

横倒しになったビル

女川原発

北上川を遡った津波・石巻市
 東北最大級の川、北上川を津波は49q上流まで遡って行きました。河口から4qにある大川小学校は10mの津波に飲み込まれ、多くの児童が犠牲になりました。
 大川小学校近くの神社は、こんな高さ(写真の石段の途中)までも津波が押し寄せました。

大川小学校



福島第一原発の煙突を遠くに臨む・浪江町
 福島第一原発から約7qの浪江町請戸(うけど)からは、原発の煙突を見ることができました。
 道のそばには瓦礫が積み上げられ、津波に遠くまで流された多くの漁船が放置されたままになっていました。

 


原発事故―見えない放射能、飯舘村・福島市

飯舘村役場の前のモニタリングポスト
 線量は0.54マイクロシーベルト/時と表示されていました。役場前の道路で測定すると1.45マイクロシーベルト/時でした。モニタリングポストの線量より高い値が検出されました。 牛のいなくなった牛舎
 牛のいない牛舎はきれいに掃除がされていました。牛の匂いもしなく、鳴き声も聞こえないことに何か不思議な感じがしました。





帰宅困難地区のゲート前(長泥(ながどろ)地区)
 「これより通行止め」の看板のある一本道を行くとゲート前にたどり着きました。線量は最高値9.5マイクロシーベルト/時もありました。連続する計測器の音が得体の知れない恐怖を感じさせました。









村の除染
 村のあちらこちらには「除染中」ののぼりが立っていました。民家の前には除染で出た汚染土が積まれビニールシートで覆われていました。
 林でも除染が行われていて、除染した土等を黒い袋に詰めていました。詰められた袋は近くの砕石場跡に積まれていました。




福島市渡利(わたり)地区
 市役所庁舎1階には除染についてのコーナーが設置されていました。渡利地区の除染状況は、ほとんどが終了しているとされていました。
 渡利地区にある河原で放射線量を計ってみると、1.60〜2.80マイクロシーベルト/時もありました。
 弁天山公園山頂付近には公園を除染した汚染土等がビニールシートに包まれて置かれていました。シートの上では1.69〜4.36マイクロシーベルト/時でした。この公園は除染が完了しましたとの看板がありました。


旅を終えて
 石巻市、南三陸町は、仮設商店街などができていたりして歩みはゆっくりでも復興へと進んでいました。しかし、浪江町や飯舘村は原発事故の影響が大きく、時間が止まったままでした。「原発事故さえなければ」と、あらためて実感した旅でした。

2013年10月13日
リブ・イン・ピース☆9+25 トン