[紹介]リーフレット
米国に囚われている5人のキューバ人に自由を!
発行:キューバを知る会・大阪
A5版24ページ 
カンパ100円

このパンフレットを手にされた皆さんへ
 「死刑台のメロディー(1971年・仏伊)」の映画をご存知でしょうか。1920年に米国で起こった、サッコとヴァンゼッティ事件を忠実に映画化したものです。サッコ・ヴァンゼッティ事件とは、イタリア移民のサッコとヴァンゼッティが1920年に冤罪で逮捕され、死刑の判決が下された殺人事件です。全く人種的・思想的偏見に満ちた判決でした。その後、全世界的に死刑判決に対する抗議運動が起こりましたが、マサチューセッツ州知事は1927年に死刑を執行しました。死刑執行50年後の1977年にマサチューセッツ州知事は無罪を表明しました。
 私たちがこのパンフレットで問題にしている「5人のキューバ人」事件とは、まさに現在のサッコとヴァンゼッティ事件とも言える冤罪事件なのです。米国によって支援され訓練されたマイアミの亡命キューバ人たちの反キューバ組織によって、執拗に繰り返されていたキューバへの殺害や爆破行為、その情報を事前にキャッチしキューバへ知らせたことで、スパイ容疑と共謀などの罪で5人のキューバ人が11年間も、家族との面会もほとんど許されずに、アメリカの地で刑に服しています。私たちはキューバを訪問し、現地のキューバ人ガイドさんから5人のキューバ人のことを聞きました。5人の解放を求めるポスターや看板もよく見かけました。
 今年の1月末、米国はもちろん、日本を含め、世界各国の弁護士や有識者たちが広範な支援運動をもとに被告弁護士から提出された審議申し立て受理を求めて最高裁判所にアミカス意見書を出しました。しかし、6月15日、米国最高裁判所はこの件について審議しないことを決定しました。私たちはこの決定に強い怒りを感じました。
 これら5人のキューバ人のことは日本では殆ど知らされていません。5人のキューバ人が一日も早く自由になることを願い、一人でも多くの方にこの事実を知って欲しいと思いこのパンフレットを作りました。このパンフレットを是非最後までお読み頂き、このことを知人や家族などに知らせてください。そしてできれば、オバマ大統領に対して釈放を求めるメールを送ったり、5人のキューバ人に励ましのメールを送ったりして、不当拘束に対する抗議の意を表してください。
 なお、このパンフレットは9月5日第3回「キューバを知る会・大阪」の報告資料やそのときに書かれた5人のキューバ人に対するメッセージを基に作成しました。キューバを知る活動、連帯する活動に継続して参加してみようかなと思う方は、是非「キューバを知る会・大阪」に入会してください。

2009年9月16日
キューバを知る会・大阪


[解説]「キューバンファイブ」について

(1)革命直後から繰り返されてきた対キューバテロ活動
 1959年1月1日にキューバ革命が勝利し、旧支配層の大半は米国フロリダへ逃亡した。彼らは、米国政府の庇護のもとに対キューバテロ活動を活発におこない続けてきた。
 テロ活動の主要人物の多くは、60年代70年代にCIAによって訓練された。そのテロ行為によって何千人ものキューバ人が命を奪われ、また身体障害者となっている。(2002年1月段階で、死者3,476人、身体障害者2,099人。)
 テロ活動は、具体的には次のようなものである。武装集団・傭兵による侵攻の試み、工業・商業・レジャーなどの施設の爆破や放火、海岸沿いの町や観光施設への銃撃、ホテルへの爆発物の設置、サトウキビ畑の焼きうち、害虫・ビールス・病原菌の散布、主要な革命指導者(特にフィデル・カストロ)に対する数百件の暗殺未遂、在外キューバ外交官の暗殺、キューバとの平和共存を擁護するキューバ移民やラテンアメリカの外交官への攻撃と殺害など。
 1976年にはキューバ航空機が爆破され、73人が死亡した。1981年にはデング出血熱が持ち込まれ、34万4千人以上のキューバ市民が被害を受け、158人が死亡した(そのうち子どもが101人)。
※「キューバ系アメリカ人財団」
 対キューバのテロ活動に資金援助をおこない、米国議会でキューバ制裁や反キューバの法律制定のロビー活動をおこない、キューバを封じ込め孤立させるための政治キャンペーンに資金援助をおこなっている。ルイス・ポサダ・カリレスのテロ活動を資金面で支えた。
※ルイス・ポサダ・カリレス
 1976年、バルバドス海岸上空を飛行中のキューバ航空機が爆破され、73人が死亡したが、その犯行を企画した主犯である。この時ポサダはベネズエラ諜報局の高官で、ベネズエラからこの件を指揮していた。1997年には、世界約100カ国から13,000人以上の若者がハバナに集まった第14回世界学生青年祭がおこなわれた際、その直前と期間中にハバナのホテルでの一連の爆破事件を企画した。2000年には、パナマでおこなわれたイベロアメリカ・サミット時にフィデル・カストロ暗殺を企画した。この事件は未然に防止され、ポサダは逮捕され、パナマでの裁判で8年の懲役刑となった。パナマで服役していたが、2004年9月、マイアミの亡命キューバ人組織などの圧力で恩赦により釈放され、2005年3月に米国に亡命しようと不法入国した。マイアミで拘束されたとき、1976年のキューバ航空機爆破事件をはじめとする罪状で、キューバ政府とベネズエラ政府がポサダの身柄引き渡しを要求したが、米国政府は無視した。その後ポサダは米国フロリダ州マイアミで自由を謳歌している。

  


(2)1990年代のテロ活動の活発化
 1990年代に入って、ソ連社会主義世界体制が崩壊しソ連邦が消滅したとき、マイアミを拠点とするキューバ反革命諸組織は、キューバの革命政府がすぐにでも崩壊するであろうと期待しながら、キューバに対するテロ活動をそれまで以上に活発化させた。それは、特に観光施設を狙っておこなわれた。90年代の経済的苦境の中で、観光業がキューバ経済の重要な柱となっていたからである。観光ホテルへの銃撃や爆発物の設置が頻繁におこなわれた。「トロピカーナ」のような人が多く集まる観光施設への爆発物設置やキューバへの観光客を乗せた飛行機の爆破もおこなわれた。
 1996年2月、キューバ領空侵犯を繰り返していた小型飛行機をキューバ空軍が撃墜し乗員4人が死亡するという事件が起こった。亡命キューバ人テロ組織「救出に向かう兄弟達」の小型飛行機が頻繁に領空侵犯していたのに対し、キューバ空軍は再三警告を発し退去させてきた。しかし、このときには警告しても退去しないので、ついに撃墜したのである。米国では、この事件がキューバ領空外で起こったこととして大々的に報じられ、反キューバの一大キャンペーンがおこなわれた。そして、1992年の対キューバ封鎖強化の「トリチェリ法」をいっそうエスカレートさせた「ヘルムズ=バートン法」が制定された。これらの法律は、米国以外の国の企業にまでキューバとの交易を禁じ、違反すれば罰するという、国際法も国際的な常識をも無視するもので、多くの諸国からも国連からも批判され非難された。そのため、米国政府は、違反したあらゆる国の企業を米国人が米国の裁判所に提訴できるという条項を執行停止にすることで矛盾をとりつくろっている。

(3)キューバ政府によるテロ防止努力と「キューバン・ファイブ」
 キューバ政府は、米国フロリダ州マイアミ在住の亡命キューバ人諸組織によるテロ活動に対して、米国政府に繰り返し抗議と取り締まりの要請をおこなってきた。特に、国際法と米国の国内法にも反する行為について、FBIに情報を提示して対処を要請してきた。FBIがどのような姿勢で対処していこうとしたのかは不明であるが、一定の情報交換がおこなわれ、実効性はともかくとして情報交換を継続することになったようである。
 他方で、キューバ政府は、フロリダ州マイアミの現地でいっそう詳しい情報を収集するために、5人のキューバ人を現地に送り込んだ。テロ活動をできる限り未然に防ごうとするためのものである。ヘラルド・エルナンデス、ラモン・ラバニーノ、アントニオ・ゲレロ、フェルナンド・ゴンサレス、レネ・ゴンサレス。この5人が「キューバン・ファイブ」と呼ばれるようになったのである。彼らは武器を持たず、全く合法的な活動によって情報を収集し、それを本国に知らせる活動をおこなった。1998年6月、キューバ政府は、マイアミのテロ組織によるテロ行為とその計画についての分厚い関係文書、カセット、ビデオテープなどをFBI専門家ミッションに渡し、対処を要請した。その時のFBI当局者は、キューバが提示した証拠についての返答を約束した。
 それから3ヵ月後、FBIの“返答”が示された。1998年9月12日、なんと5人のキューバ人が逮捕されたのである。米国の国家安全保障を脅かすスパイ活動をおこなったという罪状である。5人はマイアミの拘置所に17ヵ月にわたって不当不法に孤立監禁された。その後2000年11月に反キューバの異常な魔女狩り的な雰囲気を持つマイアミの裁判所で裁判が開始され、2001年6月、陪審員が身体的な脅威を感じる雰囲気の中で有罪の判決が下され、同年12月に以下のような終身刑・長期刑の判決が下された。
 ヘラルド・エルナンデス:終身刑2回と懲役15年、ラモン・ラバニーノ:終身刑と懲役18年、アントニオ・ゲレロ:終身刑と懲役10年、フェルナンド・ゴンサレス:懲役19年、レネ・ゴンサレス:懲役15年。

(4)でっち上げの罪状と不当な裁判・判決
 5人に対する罪状は、逮捕直後の訴状からいくつもの追加や訂正が加えられ、最終的には、米国政府に対するスパイ罪と1996年のキューバ空軍による民間機撃墜事件での殺人罪の共謀罪が主要な犯罪とされた。この2つ共に全くのでっち上げとこじつけであり、公正な裁判においては有罪となることは考えられないものである。スパイ罪については、米国政府は当然ながら立証することはできなかった。米国政府自身がそのことを認めている。この事件に関する米国政府のあらゆる文書に、スパイ活動を企んだという指摘さえまったくおこなわれてはいなかったのである。1996年の民間機撃墜事件での殺人罪の共謀罪は、この民間機の飛行の情報を5人がキューバ政府に知らせたことに対するものである。キューバの国家主権の発動であり軍事行動であり自衛手段であるキューバ空軍の行動について、民間機の飛行の情報を本国に伝えたということで殺人罪の共謀罪が成立することなどありえない。
 しかし、米国の陪審員制度とマイアミという地でおこなわれた裁判という事情が介在し、もし無罪を主張する陪審員がいれば身の安全が脅かされる危険があるという異様な雰囲気の中で有罪とされたのである。そして、被告と弁護人の側の再三の裁判地の変更要求を裁判所がすべて退け、このような不当判決を米国政府と司法当局とが一体となって黙認したのである。

(5)5人の闘いとキューバ政府・人民の闘い
 逮捕された後、不当に長く孤立状態に置かれたにもかかわらず、5人のキューバ人たちは毅然とした姿勢を堅持した。それは、もっとも重い罪に問われたヘラルド・エルナンデスが結審の2日後に妻に書き送った手紙に端的に示されている。
 「私は安心している。無罪であるがゆえの安心感。清潔な意識を持ち、自分が不正義の犠牲者であることを知っているから。いずれ真実が勝利し、正義がおこなわれるだろうと確信している。しかし、時にそれは容易ではないことを知っているので、もしそうでなかったとしても私の姿勢はいつも同じだということを、君は確信していて大丈夫だ。闘い守るべき大義があるとき、守るべき人々があり、我々を支える家族があり、我々が愛し我々を愛する人がいるとき、それを裏切ることなどできないとき、どんなに困難であっても、どんなことにでも、世界中で最も大きな安心感と尊厳を持って立ち向かうことができる。」
 裁判の過程においても、5人と弁護団は、キューバ国家の安全に関する危険性の存在、反キューバ・テロの歴史、それらのテロ行為と米国当局者との共犯関係に関する証拠の提示、テロリストの中心的人物の証人喚問とその活動の暴露など、重要な諸事実の暴露の場として裁判を利用して闘った。
 キューバ政府と人民は、5人の解放に向けたさまざまな活動をおこなった。この問題でのテレビ討論をおこない、国中の都市で公開討論をおこない、在キューバ米国利益代表部に対して大衆的なデモをおこなった。有罪判決が出された直後の2001年7月には、100万人以上の市民が米国利益代表部前に結集し抗議した。そして、全世界に5人の裁判の不当性を訴え、5人の解放を求める運動を呼びかけた。

(6)全世界への闘いの広がり
 2005年5月、国連人権委員会が5人の家族の訴えを取り上げた。そして、5人の投獄が不法で恣意的なものであると結論づけ、米国政府に5人を釈放するよう勧告したのである。その背景には、米国内と全世界でのイラク反戦運動の高揚がある。その中で「キューバン・ファイブ」のことが広く知られるようになった。5人の解放を求める運動がイラク反戦としっかり結びつき、その重要な一部となり、急速に全世界へ広がったのである。
 2005年8月、アトランタの第11管轄区控訴院の3人の判事による審査団は、マイアミでの裁判が偏見に満ちた不公正なものであったことを認め、有罪判決の破棄とマイアミ以外での新たな裁判を命じる裁定を下した。ところがそれは米国検察庁の申し立てにより、すぐに取り消された。そして12人の判事全員による協議のやり直しが決定されたのである。
 1年後の2006年8月、控訴院は12対2で元の有罪判決を支持し新たな裁判を否定する決定をおこなった。即座の抗議行動が全世界的におこなわれた。特に、逮捕の日である9月12日を中心としたキャンペーンが広く取り組まれ、「キューバン・ファイブ解放委員会」が全米と全世界にますます広まった。
 2007年8月、裁判の不当性の訴えに対する控訴院の3度目の公聴会が開かれた。2004年3月の第1回、2006年2月の第2回と同様に、今回も政府側は弁護側の主張に反論することも告訴内容を擁護することもできなかった。控訴の長い過程は、運動の広がりと前進の中で、これから重要な局面を迎えていくことになる。

(このリーフレットには、ここに掲載したキューバンファイブについての解説の他、アミカスキュリエ意見書などの資料が編集されています。)