ハイチ地震で23万人超もの犠牲者が出たのはなぜか <その2>
米国による度重なる内政干渉と債務奴隷化

<その1>では1804年のハイチ独立からデュヴァリエ独裁体制崩壊までの歴史を考察した。今回の<その2>では、その後20年あまりの現在に至る諸過程をたどる。]

デュヴァリエ独裁体制の打倒とアリスティド政権の成立
 85年末からはじまった反デュヴァリエの民衆蜂起は、またたくうちに全国に広がり、86年2月にべべ・ドク・デュヴァリエが国外逃亡して、父子2代30年に及ぶ独裁体制は崩壊した。しかしその後も、クーデターと軍事独裁政権が相次いだ。約5年の混乱期を経て、1990年12月に初の民主的な大統領選挙がおこなわれた。そこでジャン・ベルトラン・アリスティド神父が67%を獲得し、1991年2月に大統領に就任した。
 アリスティド神父は、「解放の神学」を信奉し、85年からスラム街での活動を開始していた。貧民救済と民主化運動を結びつけ、反デュヴァリエ独裁の闘いでも重要な役割を果たした。その後も、クーデターが繰り返され軍事独裁政権が入れ替わる時期を通じて、暗殺の危険に晒されながら活動を続け、貧民大衆の信頼と尊敬をかちとっていった。そしてついに、人民の圧倒的な支持のもとに大統領となったのである。
 この大統領選挙は当初、米国が「民主的に選ばれた親米政権」を樹立しようと根回しをし、富裕層出身の候補が本命であったので、貧民大衆は選挙に冷淡であった。しかし、アリスティド神父が立候補を表明してからガラリと様相が変わり、有権者の選挙登録は90%にまで達した。投票数の67%を獲得して当選したアリスティド候補は、全有権者の60%以上の支持を得たことになる。

米国と特権層の権益に手をつけようとして追放されたアリスティド大統領
 アリスティド大統領は、汚職追放と人事刷新、徴税方法の明確化、司法制度改革、麻薬の取り締まりなどによって旧来の諸政権のもとで続いてきた腐敗・堕落を一掃しようとし、また農地改革、最低賃金の改定などで貧困な人民大衆の生活改善にとりくんだ。これらの諸改革は、旧来のオリガーキー(寡頭制)の利権に手をつけ、一握りの富裕層と米帝国主義の権益にまで踏み込むものであった。これに対して、特権層・富裕層と米国は、軍部と秘密警察トントンマクート勢力を豊富な資金にモノを言わせて結集し、91年9月末、政権発足からわずか8ヵ月たらずでクーデターによってアリスティド大統領を追放した。
 米州機構(OAS)などは、クーデターを非難し新政権を認めず経済制裁をおこなったが、それを主導する米国の真の意図は、正当な大統領アリスティドを政権復帰させることにあるのではなく、自らが望む政策を遂行する「民主的」政権を樹立することにあった。クーデターから約3年を経て、94年7月に国連調停によって協約が締結され、アリスティド大統領の復帰が決まった。しかしその協約の内容は、大統領選で当初本命とされていた富裕層の候補者が掲げていたネオリベラリズム政策(関税撤廃や国有企業の民営化など)を実施するというもので、さらに、クーデターに関与した者への恩赦まで付け加えられていた。苦渋の選択を迫られたアリスティド大統領は、2000年の大統領選での再起をめざして、協定を受け入れ帰国を果たした。
 デュヴァリエ後の新憲法では、連続2期大統領に就くことが禁止されている。アリスティド派は、91年の政権発足当初の首相ルネ・ガルシア・プレヴァルを大統領候補に立て、95年末の大統領選に勝利した。プレヴァル大統領は、国連調停による協約の大枠を変更しないもとで、一定の民主化と貧困対策にとりくんで5年の任期を無難に終えた。(現在のハイチは第二期アリスティド政権の後、2006年はじめにずれ込んだ大統領選で再度勝利した第二期プレヴァル政権である。)

第二期アリスティド政権もクーデターでつぶされた
 2000年末の大統領選で再び圧勝したアリスティドは2001年2月に大統領に就任し、第二期アリスティド政権が始まった。しかし、米国を中心とする帝国主義諸国は発足当初からアリスティド政権を経済的・金融的に締め上げ、極度に困難な財政運営を強要した。政治的には、2000年5月の議会選(アリスティド派が圧勝)での選挙処理にクレームをつけて議会選の一部やり直しを要求した。反アリスティド勢力は、アリスティド派が議会選のやり直しに応じないことを口実に大統領選をボイコットし、議会選と大統領選のやり直しを要求し続け、再度のクーデターへ向けた準備を着々と進めていった。国際的な経済的締め付けで政権の手足を縛り、経済的な苦境を拡大して人民の不満をかき立て、反政府行動を煽ったのである。
 これに対して、アリスティド大統領は、かつて独立の承認と引き換えに旧宗主国フランスに支払わされた賠償金をフランスに対して返還要求することで、米国とフランスを中心とする勢力に対抗しようとした。また、当初米などが要求した議会選のやり直しを認める譲歩まで提起したが、それらはすべて無視された。
 2004年1月1日、国際的な融資凍結と事実上の経済封鎖の中で、独立200周年の式典がおこなわれた。反アリスティド勢力は、この記念式典の前後にデモや暴動を精力的に組織し、2月の一斉蜂起によって再びアリスティド大統領を追放するクーデターを成功させた。2月29日にアリスティド大統領が米国機によって国外へ連れ去られた直後、3月1日には米海兵隊とフランス軍部隊が上陸し、首都ポルトー・プランスに進駐した。
 2004年6月に「国連ハイチ安定化ミッション」が発足し、国連の多国籍軍による平和維持活動が開始された。しかしそれは、米軍と仏軍によるクーデター直後の軍事占領を、国連による平和使節を装った軍事占領に置きかえたにすぎないものであった。それが現在に至るまで続いている。

ハイチの債務奴隷化と内政干渉
 ハイチの極度の貧困は、独立以来2世紀にわたって巨額の対外債務による重圧が途切れることなく続いてきたことを根本原因としている。国際的な孤立から脱却するための苦渋の選択として強いられた独立の承認と引き換えのフランスへの巨額賠償金支払いにはじまって、債務を返済するための新たな借入と債務の累積。その連続であった。その具体的な実相は、最新の実例を見れば一目瞭然である。2006年の時点でハイチの公的対外債務は13億3700万ドルにのぼっていたが、IMFと世界銀行とパリクラブが作成し実行した「高額債務貧困国イニシァティヴ(HIPC)」が終了した2009年6月には、債務は18億8400万ドルに増えていた。それで、債務を「耐えられるレベル」に引き下げるために、12億ドルの債務取り消しがおこなわれたのである。

 3月31日にハイチ支援国会合がおこなわれた。そこで59ヵ国・機関から総額約99億ドルの拠出が表明され、ハイチ政府や議会の代表と主要支援国の代表とで構成する「暫定ハイチ再建委員会」がつくられた。今後1年半、復興事業の進め方をハイチ大統領に勧告するものであるという。だが、それを統括するのは、国連ハイチ特使である元米国大統領クリントンである。そして、全世界の大手マスメディアでは、ハイチ政府任せにしていては国際的な支援金が有効に使われるかどうか疑わしいということが大々的に報じられている。それに対して、温厚として知られているハイチのプレヴァル大統領が怒りをあらわにしたことが報じられた。これはいったい何なのか。なぜ米国、クリントンなのか。全世界からの巨額の支援金は、米国が牛耳り、米国を中心とする多国籍企業と国際金融資本とがいっそうボロ儲けするために管理運営されるということにほかならない。そのような帝国主義的な内政干渉こそが、ハイチをここまで悲惨な状況にしてきたのである。新たな復興支援においても一切の内政干渉をやめるべきである。

最も重要な支援は、対外債務を帳消しにすること
 ハイチ地震に対する国際的な支援が全世界的におこなわれているが、最も重要かつ根本的な支援は、対外債務を無条件かつ全面的に帳消しにすることである。ベネズエラは、1月25日にチャベス大統領がハイチに対するすべての国家債権を無条件で放棄することを表明した。その額はハイチの現在の対外債務約10億ドルのほぼ3分の1にあたる2億9500万ドルである。その声明に際してチャベス大統領は、独立した直後のハイチがベネズエラをはじめとする南米の独立運動指導者シモン・ボリーバルを支持し援助したことを指摘し、ハイチに感謝の意を表明したのである。すべての国、すべての国際的金融機関が、同様に一切の債権を無条件で放棄すべきである。そうしなければ、国際的な支援金はすべて対外債務支払に消えていくであろうことは、火を見るよりも明らかである。国際的な金融資本によって債務奴隷にされ、生かさぬよう殺さぬよう絞れるだけ絞り取られる、そのような事態を終わらせることこそが最大の支援であり、根本的な解決へ向けた道を切り開くものである。

<その3>では、ハイチ独立の前史としての「新大陸発見」から独立までの300年における先住民絶滅と黒人奴隷貿易の歴史を概観し、その上で再度ハイチ大地震に立ち返ってまとめをおこなう予定]
 (つづく)

2010年4月16日
(H.Y.)