白根全さん「祝祭と叛乱・建前の国キューバのカーニバル」
[投稿]「革命50年・ゲバラ生誕80年記念友好フォーラム」に参加して

“キューバの呪い”
 白根全さんは「祝祭と叛乱・建前の国キューバのカーニバル」という演題だ。白根さんは写真家で、キューバには1989年から計24回訪問し、日本で唯一、世界でも二人しかいないというカーニバル評論家。カーニバルを写した写真300枚を見せながら淡々と語ってくれた。
 キューバの呪いという話をしようと思っていた。キューバの呪いとはキューバに関係している方に感染者が多い。初期症状としてスキューバダイビングと書いてあるのを見るとキューバ、それがどんどん進んでいくと、八百屋できゅうりと三つ葉が並んでいるのを見るとキューバと。なんでもかんでもキューバに関連つけてキューバと聞いただけで目が潤んで体温が上昇して動悸がしてくる、怪しい病気。キューバというのはそれだけなにかしら、人の心をとらえて放さない不思議な魅力がある国。怪しい存在でもある。語るのが非常に難しい国でもある。それぞれの立ち位置で姿を変える国。自分の立場を、立ち位置を問われる存在である。目が離せない。キューバの呪いの話は感染者があまりにも多いため却下され、カーニバルの話になった。

反逆・暴力・自由・価値の逆転が織り混ざったカーニバル
 今日はキューバのカーニバルの話をしたい。そもそもカーニバルとは、キリスト教、カトリックの宗教行事。大本はギリシャ・ローマ時代の農業の収穫祭や農耕儀礼・豊穣祈願。ヨーロッパの冬が寒くて、暗くて、食べるものが無くてつらく厳しい時期で、春と迎えるという季節的な要素を持った祝祭だ。
 「コロンブスによって発見」以降のラテンアメリカにカーニバルが輸入された。そんな中から、先住民の文化であるとか、アフリカから拉致・誘拐されてきた黒人のもららしたいろんな様々な文化要素も取り入れ盛り上がった。ラテンアメリカそのものも、カーニバルそのものも発明されたのものだ。キリスト教国全般で催されているが、場所によって内容が異る。
 1953年7月26日モンカダ兵舎襲撃事件。正義感に燃えたカストロが武装蜂起してモンカダ兵舎をおそったというのはカーニバルのどさくさに紛れてという歴史がある。キューバ革命はカーニバルなしては語れない。カーニバルがなかったらキューバ革命が成立しない。そのときは企画ミスもいいところで全員捕まった。カーニバルのことをもう少し研究していればあそこで革命が成立してしまった可能性すらあったのではないか。
 ラテンアメリカに輸入されたカーニバルの一番古い記録は、ハイチ・ドミニカ共和国に入った1507年。スペイン人・コロンブスが入った十数年後にカーニバルが行われていた。ドミニカ共和国のラーベガの町でカーニバルが行われていた。この時代のヨーロッパ人にとってカーニバルが重要なものであったかとの証拠になる。カーニバルを一言で定義してしまうと「音楽に合わせて踊りながら町の通りを練り歩く」という行事。で期間限定。どんちゃん騒ぎをして、厄払いをする。ラテンアメリカの場合は、音楽や踊りが主役。リズムがカーニバルの性格を決定してしまうほど大きな要素。カーニバルのキーワードを一言でいうと反逆・暴力・自由・価値の逆転。いろんな要素がある。
6世紀ぐらいにヨーロッパでは行事として定着。もともと教会の支配の外側に置かれる。キューバの場合は宗教色なし。ヨーロッパの場合は政治権力と民衆との闘争の場。たとえばフランスでは税金が高いと言ってカーニバルが大反乱に発展した。

カーニバルも含め、キューバの未来に注目
 キューバのカーニバルでは、時期が関係なしに、楽団・ダンサー・山車なんかが出る。パレードのこと全体を、いわば仮装行列をカーニバルと呼んだ。聖ヤコブと聖アンナにちなんで1月25日に行われていた。ハバナのカーニバルはキリスト教の暦に従って2月から3月に行われていたが革命後にこれをずらされる。2月3月はサトウキビの収穫で一番忙しい時期でそのときにカーニバルをやって、踊って飲んでさわいでいると誰も働かなくなるなるので、ずらした。植民地時代に黒人奴隷はかなり制約を受けていたわけだが、1月6日だけ黒人の祭りを認めていた。黒人の相互扶助の組織(カビルド)を作って、そこでパレードをして、総督の前で踊りとかを披露する。それが独立後にカーニバルとして発展していった。キューバのカーニバルで一番盛り上がったのは1930年代だった。パチェスタ時代にエネルギーがだんだんと少なくなって、革命以後は世俗的行事で政治的な意味が無くなった。サンチアゴのカーニバルは豊かですごいのですが。隣のハイチは、世界最初の黒人共和国であり、ナポレオンの軍隊を破って、栄光ある国だが、世界の最貧国。そこから色んな文化が入ってきて、とりわけハイチ革命だが、キューバに逃げてきた黒人たちがキューバ音楽に大きな影響を与えた。
 キューバの革命以降から、現在のキューバにとって様々なことがあったけれど、一番大きかったのはソ連の崩壊。それまで後ろ盾であったソ連が崩壊して、その後も経済的にどんどん困難が大きくなって、ドルを自由化したり、観光をどんどん進めていった。年間220万人ぐらい外国人が押し寄せるようになっている。一番多いのはカナダ人。その本質はキューバには下品で傲慢なアメリカの観光客がいない、アメリカの観光客が来れない唯一のカリブ海のリゾート地ということ。アメリカによる経済封鎖というのは残酷なもので、キューバにとって大きな負担を強いられているというのが現実として確かにあるが、アメリカが頭がよくて賢くていろいろ研究して、アメリカ人がばんばんキューバに来てアメリカナイズすると、キューバは崩壊するのではないかという側面もある。
 もともとカーニバルの主役というのは非常に貧困な層や体制への批判を多く持っている層の人々。批判・風刺の場として、社会の周辺に放置されているような人々の不満のはけ口である。しばしば国家権力の弾圧の対象になった。平等を国是とするキューバでは国営カーニバル。カーニバルで踊っている人はすべて国家公務員な訳ですから、そういった中でガス抜きという役割を果たしているのだろうか、キューバではカーニバルまでもが配給されているというような見方もできるだろうと思います。格差がどんどん開くキューバでカーニバルの未来がいったいどうなっていくのか、つらつらと考えてしまう。いろんな意味で対社会的な圧力が強ければ強いところほど住民が幸せになるといえる。未来に対するいろいろな回答が会間みられる気がしないわけでもない。
 一般論として、社会主義というのはいろんな形で、オールドファッションとなりつつあるという中で、人間の直接生存に関わる医療であったり、教育であったりとか、そういう物をお金もうけの対象にしてこなかった。その知恵を、今の日本のような格差社会あったりとか、癒し系ファシズムがはびこるという中にあって、日本だけでなく世界全般がそうかもしれませんが、そんな中でその未来がどうなのかと、キューバの呪いにとらわれることなしに冷静にみていくことが必要ではないか。

(2009年1月24日「革命50年・ゲバラ生誕80年記念友好フォーラム」より 文責:リブ・イン・ピース☆9+25 T.N.)