皇軍の不条理と無責任体制を見事に暴く
――現代に通じる大西巨人『神聖喜劇』――

・小説『神聖喜劇』(1978~80年)大西巨人 光文社文庫 第1〜5巻 各1,100円
・漫画『神聖喜劇』(2006年)原作 大西巨人 漫画 のぞゑのぶひさ
 企画・脚色 岩田和博 幻冬舎  第1、3〜6巻 各1,470円 第2巻1,365円
・『シナリオ神聖喜劇』(2004年)大西巨人 荒井晴彦 太田出版 2,940円
・『神聖喜劇ふたたび〜作家大西巨人の闘い〜』(NHK ETV特集)

 大西巨人の小説『神聖喜劇』は、対馬要塞の重砲兵連隊を舞台に、1942年1月から4月までの補充兵への教育期間の中で生じた諸事件を、24歳の主人公東堂太郎が語る一人称小説である。軍隊を舞台に描きながら実際の戦闘場面はなく、それでいて文庫本で全5巻もある長編小説となっている。しかし、陰惨で暗く退屈な小説だと思っては大間違いである。「喜劇」という題名にふさわしく、私はこの小説を読んで何度も思わず吹き出してしまった。
 悲惨でありながら滑稽な、悲惨であるが故に滑稽な軍隊生活は、日本社会の縮図でもある。この小説は、日本社会と軍隊の様々な問題点を深く鋭く描き出すと同時に、東堂が軍隊内で出会った人々との関わりにおいて、そこからの出口をも指し示している。

 「大東亜戦争」の開戦直後、「補充兵」として召集された東堂太郎は、この「聖戦」の本質を知りながら、「反戦平和のための積極的活動を行い得なかった」。それを屈辱と感じつつ、今や虚無主義者となり、自分は軍隊の中で「一匹の犬」のように駆りたてられ死すべきであると考えるようになっていた。
 ところが、入隊早々に一つの事件が起こり、それによって彼は自分が「犬」ではなく、東堂太郎という一人の人間であることをあらためて自覚させられることになる。
 東堂ら新兵が朝の呼集に遅刻した時のことである。上官は彼らを叱責したが、東堂は呼集の時間を「知りません」と答えた。すると、上官は「わが国の軍隊に『知りません』があらせられるか。『忘れました』だよ」と言う。しかし、東堂はそのことを教えられていないので、あくまで「知りません」と答える。東堂は自分が「忘れました」と答えさえすればそれで済むのだとは思った。しかし、東堂は「忘れました」という言葉を言うことを自分自身に「許すことができなかった」。
 ここで読者は、東堂は上官に強要されても嘘をつくことができない潔癖な性格の持ち主だと考えるであろう。確かにそうではあるが、それだけではない。
 東堂は、学生時代に特高警察に取り調べを受けたことがある。取調官が東堂に彼の部屋にあった共産主義の文献についての考えを問うたところ、東堂は「漠然としか記憶していない」ととぼける。しかし、取調官はあくまでも東堂への追及の手をゆるめない。「君の抜群とも異常とも言われるべき記憶力ないし暗記力についても、われわれの調べは届いておる。君は幼年時代からそうだった」「特に練習してとか努力してとかいうんじゃない。君は一度読んだり聞いたりしたことは決して忘れない」と。
 そう、東堂は記憶力に関しては特殊な能力を持っているのである。
 東堂は、この朝の呼集の出来事以降も、なぜ軍隊内で「知りません」が許されず、「忘れました」が強要されるのかについて、折に触れて何度も徹底的に考え抜く。
 下級者が「知りません」と言うことが許されるなら、下級者にたいして知らせなかったという上級者の責任が姿を現す。ところが、「忘れました」であれば、悪いのはすべて下級者であり、上級者はいっさいの責任を逃れることができる。下級者のみが責任を負い、上級者が責任を逃れるという軍の構造を突き詰めて見ていくなら、その絶頂には、「唯一者天皇」が見いだされることに東堂は気がつく。
 「この最上級者天皇には下級者だけが存在して、上級者は全然存在しないから、その責任は、必ず常に完全無制限に阻却されている。この頭首天皇は絶対無責任である」「…それならば『世世天皇の統率し給ふ所にぞある』『わが国の軍隊』とは、累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構ということになろう。」
 押しつぶされそうになった自分の個性を守ろうとして始まった、一見些末な事柄へのこだわりを貫くことで、ここまで考えを突き詰めていく。東堂とはそういう人物なのである。

 東堂とは対極にある人物として、大前田文七(おおまえだぶんしち)軍曹がいる。彼は中国戦線に従軍したことがある古参の兵で、中国人を虐殺したことを隠そうともせず、「戦争とは殺して分捕(ぶんど)ることだ」と公言する。東堂はこの大前田に目をつけられ、様々な嫌がらせをされる。しかし、この大前田軍曹をただ単に憎むべき人物としてのみ描いていないところに、この小説の真骨頂の一つがある。大前田もまた「人のいやがる軍隊」に引っ張り出されてきた一人の市民であり、庶民的な平等感覚を有し、人間的な魅力をも持っている。東堂は「人間と社会にたいする現実的・具体的知識理解の私における不足」を自覚し、特に大前田のような人物を見る時に、いっそう惑乱させられる。数々の謎めいた事件が起こる中、この小説の最後を飾る事件の主役はこの大前田軍曹である。読者は東堂と共に彼の意外な一面を知ることになるであろう。

 もう一人この小説に欠かせない人物が、東堂と同じ補充兵としてやってきた冬木二等兵である。彼にはいくつもの秘密があり、それがゆえに、ある事件の犯人に仕立て上げられてしまう。彼についてこれ以上述べると、多分に推理小説的な要素もあるこの小説の趣を損ねてしまうだろう。しかし、「虚無主義者」東堂の生き方を変えるにあたって、彼の言動が非常に大きな影響を与えることだけは述べておきたい。

 『神聖喜劇』に描かれた彼の思考、体験、そして当時の日本社会と軍隊の様相とそこに生きる人々の綿密な描写は、現代の問題を考察する上でも大きな手がかりを示してくれている。

 閉塞し固定化した格差社会からの解放を軍隊と戦争に求めようとする渇望が、社会の中で最も貧困に苦しみ人間性を抑圧されてきた層から現れるというのは、不思議ではない。 この当時も、世間で人間性を貶める差別や抑圧、貧困に苦しんだ人々が、軍隊では学歴も身分も無関係で、平等な機会を与えられるものだと思っていた。しかし、そうではなかった。
 「上級学校出の人間は軍隊では憎まれて損をする、学校出の兵隊は人一倍いじめられ圧迫せられる、というような話は、軍隊では華族も平民も金持ちも貧乏人も大学出も小学出もその間に差別がない、というような話とともに、世間の通説になっていて、前から私も聞いたり読んだりしていた」と東堂は考えていたのだが、軍隊の実生活の中で、東堂は「軍隊にたいする世俗的通念ならびに私の観念的予想をある意味でくつがえすような、もしくは大幅に修正するような実質が、たしかに内在するようである」と考えるに至る。
 表向きは平等であるべきだとされているだけに、そのやり口はひどく陰湿である。この小説の諸事件において、そのことが克明に描かれている。

 昨今、殺す相手は「誰でもよかった」というような無差別殺人事件が起こるごとに、マスメディアは、それは現代の若者に特徴的な事件であると喧伝し、「古きよき時代」への懐古とあわせて、若者バッシングを行い続けている。(しかしながら、警察の統計においても、1960年代以降、凶悪犯罪が激減していることは明らかである。その客観的な事実が多くの人々に正しく認識されていないことに、マスメディアは重大な責任を負っている。)
 『神聖喜劇』では、若者による「相手は誰でもよかった」という殺人事件が頻発したことが描かれ、それが世相とまで言われた時代があったことが示されている。昭和初めの日華事変前夜のことであった。
 ある大学生が初めて入った酒場の女主人を抱きかかえて飛び降りた事件がある。女主人は即死し、大学生は生き残った。この事件の動機は大学生自身にも不可解であり他人への説明が困難であると報道された。またある会社勤めの青年は、召集令状を受け取ってから出征するまでに、彼は見知らぬ男性を殴り殺した。その動機もまた報道されなかったが、新聞記者であった東堂がひそかに伝え聞いたところでは、その青年は国家に強制されて殺人を犯す前に、自分自身の意志で殺人を犯さなければならないと考えたからであるという。
 戦争という国家による無差別殺人へと日本社会が向かっていた時代に、個人のモラルの崩壊・人格破壊が、感受性豊かな若者たちにおいて極端な形で現れたものと見ることができよう。

 こうした事件について東堂が何を思いどう考えたかを見ていくと、現代我々が直面している時代を考える上でも、主人公の透徹した観察眼と何事にも徹底してとことん突き詰めて考える姿勢から多くのものを得られるだろう。

 しかしながら、いかんせん、この小説はお世辞にも取っ付きがいいとはいえない。手にとってはみたものの晦渋な文章に辟易して途中で投げ出す人も多いのではないかと思われる。
 2006年に発刊された漫画『神聖喜劇』は、この小説へのハードルを下げ、より多くの人にこの小説の中身を知ってもらおうという試みとして非常に意義があると考える。原作に忠実に描くことを心がけ余計なものを入れないという姿勢は好感が持てる。大西巨人は漫画化の話を快諾し、様々な助言を与えたという。ただし小説の内容を全て漫画に盛り込んではいないので、小説を先に読んだ人にとっては不満を感じるかもしれない。私としては、漫画で表現することによって滑稽さがいっそう増すと思われる場面があまり描かれていないことが少々残念である。
 また、2008年4月にはNHKのETV特集において『神聖喜劇ふたたび〜作家大西巨人の闘い〜』という番組が放映され、8月にも再放送された。作者の大西巨人氏自身が自らの体験を語りながら、漫画や『シナリオ神聖喜劇』による朗読劇を交えながら小説の内容を紹介するものとなっている。
 現実の肉体を持った役者によって、東堂が驚異的な記憶力をもってして大前田に立ち向かう場面が再現されるのを見ていると、ぜひとも『神聖喜劇』全体が映画化されることを待ち望まずにはおれない。
 小説『神聖喜劇』が近年このように漫画化、映像化され、より多くの人にその内容を知らせようとする努力がなされているというのは、まさに時代がこの小説を読み返すことを要求している証左ではないかと思われる。
 この小説の豊かな内容を共有するために、この小説を読んだ人と感想を語り合える機会があれば幸いに思う。

2008年10月1日 (鈴)

付録『神聖喜劇』人物帳