本の紹介
『困ってるひと』
難病患者は、日本にいながらにして難民に
『困ってるひと』 大野更紗著 ポプラ社 2011/06

 今年巷で大評判となった本です。著者は、「皮膚筋炎」と「筋膜炎脂肪織炎症候群」という難病と闘っています。免疫のシステムが自分を攻撃する「自己免疫疾患」の一種で、全身に炎症を起こします。発症率は極めて稀で、治療法は確立されておらず、ステロイドや免疫抑制剤で症状を抑え込むことしかできません。当然その副作用にも苦しめられます。現在も、ステロイド、解熱鎮痛剤、病態や副作用を抑える薬、安定剤など、内服薬だけで30錠前後、その他目薬や塗り薬、湿布、特殊なテープ、何十種類もの薬によって、室内での安静状態で、なんとか最低限の行動を維持しているそうです。それでも症状は抑えきれず、熱、倦怠感、痛みなど、さまざまな全身の苦痛が24時間続く。そんな中で書かれたのがこの本ですが、書けたのが不思議なくらいの状態なのです。
※この本はもともとウェブ連載なので、インターネットでも読むことができます。
 http://www.poplarbeech.com/komatteruhito/005097.html(ポプラビーチ)

 ところが、この本は一般の闘病記とはかなり趣が違い、いわゆる「壮絶な闘病記」ではありません。書いてあることは壮絶ですが、それが絶妙なユーモアにくるまれているのが、この本の「売り」です。表紙のイラストに、その雰囲気がよく表れています。「闘病記をエンターテインメントにした」との評もあるくらいです。先を読むのが楽しみな闘病記というのは、あまりありません。それは、上記ウェブサイトの文章を、どこでもいいので一部読んでいただければ分かると思います。

 著者は、福島第一原発から三十数kmという、福島県の相当な田舎(著者は「ムーミン谷」と呼ぶ)に生まれ育ち、上智大学フランス語学科に進みますが、ビルマ(ミャンマー)難民に出会い、難民支援に精力的に取り組むようになります。タイやビルマへも頻繁に足を運び、この問題にさらに取り組むために大学院進学を決めた2008年秋に発症します(ここに至るまでの生い立ちや「ビルマ女子」と化す経緯も読み応え十分!)。
 1年間様々な医療機関を尋ね歩くが原因不明。「わからない」と言われるのはいい方で、見捨てられるような経験もします。ようやくたどり着いた都内の大学病院(「オアシス」と呼ぶ)に入院し、さらに別の病院(この病院は、長期療養病床と精神科隔離病床を併設した病院で、その描写にも考えさせられます)での非常な苦痛を伴う検査に耐えた末、やっと病名がつきました。これで治療のスタート台に立ち、ステロイドの投与が始まると、今度はその副作用で瀕死の状態に陥ります。
 それでも、難病である以上、病気そのものや治療が苦しいのは仕方ないとも思えますが、著者を苦しめるのはこれだけではありません。全く当事者の立場になって作られていない、この国の医療・社会保障制度とも闘わなければならないのです。著者はそれを「モンスター」と呼びます。

 著者曰く、「オアシス」はとても良心的な病院です。でも、いくら良心的であっても(あるいは良心的であるからこそ)、制度の壁が立ちはだかります。患者の入院期間が短いほど、病院が国から受け取る診療報酬が有利になります。一般病棟に180日を越えて入院すると、病院に支払われる報酬が大きく減額されるので、病院は、経営を考えれば、患者を短期で回転させざるを得ません。
 著者も一旦退院を余儀なくされ、動かない体を引きずって実家のある「ムーミン谷」に帰ります。その結果は「ボロボロになって、なんか全身至るところから出血しだして」再入院という悲惨なものでした。医療費削減のために短期で退院させるはずが、その結果病状が悪化して再入院という、見本のような結果となったのです。

 入院患者追い出しのこうした実態は医療関係者には常識でしょうが、この本には、当事者になってみなければなかなか分からない「モンスター」との闘いも記録されています。
 著者は身体障害者手帳を申請します。その際重要なのは「数字」です。歩ける距離をメジャーで測り、関節の曲がる角度を分度器で測ります。その数値が運命を左右するのです。こうして、やっとの思いで手にした身体障害者手帳ですが、そこに書かれている「障害者のためのサービス一覧」の内容が意味不明で、自分がどんなサービスを受けられるのかを理解するのに、また一苦労。そして実際に支援を受けようと思えば、膨大な書類の山、行政手続きの煩雑さと格闘しなければなりません。さらに、そのサービス内容が住民票を置く自治体によって大違い。金持ちの自治体なら当然受けられるサービスが、貧乏自治体では受けられないのです。
 そもそも難病や慢性疾患の患者にとっては、手帳を取得すること自体が難しい。著者は身体障害者手帳を「肢体不自由」という枠で申請しますが、それは他に該当する枠がなかったから。戦争で負傷した軍人を主たる対象として始められた日本の障害者福祉施策では、今でも「身体障害」=「目に見える障害」なのです。申請書にも、病気の詳しい症状や苦痛など一切書く欄がない。著者は「運良く」2級と「認定」されましたが、3級以下の対象サービスではとても生きていけなかったといいます。「難病患者は、『制度の谷間』に落ち込む、福祉から見捨てられた存在」なのです。

 そして、生きるためには絶対必要な煩雑な手続きを、動くのもやっとの患者が自力でしなければならないというのは、理不尽としか言いようがありません。難病の娘の医療費を稼ぐために、「ムーミン谷」で身を削って労働している両親に頼れない著者は、大学時代その他の友人に頼ります。しかし限界が。頼り切っていた友人に「もう無理」と告げられた時、著者は、自らの学部の卒論を思い出します。そこでは、途上国や難民キャンプで「援助」すること、「人を助ける」ということがいかに複雑で難しいか、ということを書いていたのでした。
 「救世主」は、どこにもいない。ひとを、誰かを救えるひとなど、存在しないんだ。わたしを助けられるのは、わたししかいないのだと、友人をとことん疲弊させてから、大事なものを失ってから、やっと、気がついた。‥‥
 難民研究女子は、自分がマジで「難民」化していることをはっきりと自覚した。‥‥
 じゃあキャンプの中で、ビルマ難民が頼っていたものは何だったっけ、と、記憶をよみがえらせてみる。‥‥
 つまりそれって。「国家」。「社会」。「制度」。特定の誰かではなく、システムそのもの。
 ひとが、最終的に頼れるもの。それは、「社会」の公的な制度しかないんだ。
 (http://www.poplarbeech.com/komatteruhito/005515.html より)
 個人の献身性に依存するやり方では、それが医師であっても、家族であっても、友人であっても、いずれ破綻します。社会的なシステムで支えることが絶対に必要。そのことを、著者は命を削る闘病の末に身をもって知ります。そうした指摘自体は既に色々なところでされてはいますが、誰もが当事者になる可能性があるのに、実際になるまでは他人事(著者自身がそうだった)であるのは否めません。それを読みやすい形にして、当事者になる前に、ある程度リアルに実感できるようにしてくれたことの意義はとても大きいと思います。

 と言っても、何か教訓をたれるような本ではなく、冒頭に書いたように、とにかくおもしろいです。医師や看護師、あるいは知り合った他の患者たちの姿が、著者独特の比喩を持って生き生きと描かれます。入院患者が何を思って日々を送っているかの描写もリアル。信頼はしているけれどもしばしば無理難題を言う医師とのバトル。友人を失った絶望の淵から救い出してくれた恋もあり(この話もとてもいい)。難病患者ではあっても、当然ながらエネルギッシュな人の営みがあるのです。この本はそれを余すところなく描きます。何よりも、著者その人がとても魅力的です。
 その意味では確かに「エンターテインメント」と言えるかも知れません。そして、「エンターテインメント」ならしめているもの、それは、苦しみのさなかにあっても、苦しむ自分を客観視できる著者の並はずれた観察眼だと思います。
 『困ってるひと』というタイトルが秀逸。著者は、難病患者ではあるが決して特別な人ではありません。ただ、「困ってる」だけ。その「困ってる」という特別でない状態になっただけで、とたんにこの社会は生きにくくなるのです。本来は「困ってるひと」にこそ最大限配慮された社会であるべきなのに。病気に限らず、失業など経済的な理由や人間関係、精神の不調、社会には様々な「困ってるひと」がいます。その意味で、著者自身が言うとおり、この本は「闘病記」の枠に収まるものではありません。

2011年12月19日
リブ・イン・ピース☆9+25 U