[紹介]映画「アバター」を観て――あらすじと感想
侵略・略奪の理不尽を感じ、抵抗する人々の気持ちに思いを馳せ


 話題の映画「アバター」を見た。時は26世紀、鉱物資源をもとめて、ある惑星を侵略するアメリカと、守ろうとして抵抗する先住民たち。3Dを駆使したSFアクション映画として興業記録を塗り替えているが、私は単なる娯楽映画とは思えず、現にアメリカがやっているイラク戦争、アフガン戦争と重なった。実際アメリカ国内では、反米映画として保守層から批判を受けているらしい。しかも私の中では、現実の戦争と重なるというだけでなく、侵略される側の感情、抵抗闘争に駆り立てられる人たちの感情、さらには、日本各地でも闘われている米軍基地や原発立地に抵抗する市民たちの気持ちへの共感にもつながり、また理不尽な日本政府のやり方への「なぜ」「どうして」というやりきれない気持ちをおさえることができなくなった。人間同士が理解しあい、自然とも調和して社会をつくっていく――この映画はそんな願いが込められた作品だと思った。思いついたままを書いたので、読みづらいところもあるかも知れないが、是非一人でも多くの人にみてほしいと思い、あらすじと感想を掲載したい。

(あらすじ)
 26世紀のアメリカが、ある惑星の鉱物が高く売れるからといって、その惑星の鉱物を手に入れようとする。しかし、その鉱物の上には豊かな森が育まれており水色をした巨大な先住民が自然と共存して、持続可能な生活をしている。アメリカの思惑とすれば何とか森を破壊してそこに埋まっている鉱物が欲しい。そうして惑星にアメリカの基地がつくられた。

 はじめ、アメリカは対話で立ち退きを呼びかける。そのために「スカイスクール」(?)なる英語の学校を作る。しかし、対話による交渉はできなかった。先住民は何も不足を感じていないからだ。立ち退きと引き換えに、森と引き換えになる欲しいものが何もなかったのだ。

 そして次第に先住民との関係は悪化。先住民の住んでいる領域にアメリカが侵入すると、先住民たちは、アメリカを攻撃するようになる。しかし領域に侵入しない限りはアメリカを攻撃することはない。

 アメリカの基地には、とにかく鉱物が欲しい人、とにかくさっさと森を破壊してやってしまいたい軍、そして自然環境を調査する生物学者たちがいる。

 生物学者たちの自然環境の調査方法は、最新の科学で人工的に作られた先住民の身体が人とリンクし、その身体(=アバター)を利用して調査をする。調査していくと森のすごさ…木と木が連絡を取り合うようにつながっていることなどがわかり、貴重なサンプルとして森を守りたい意識が強まる。そういう思いから、森を破壊することに反対の立場をとる。

 そんな中、戦争で両足が麻痺した帰還兵が派遣される。元々兄がその任務を行なう予定であったが、突然の死により同じDNAを持つ弟の帰還兵が抜擢されたのだ。人工的な先住民の体・アバターは人のDNAを利用して神経とつながるため、貴重な人材だったのだ。
 弟であり主人公である帰還兵は、その任務を行なえば大金が手に入り、そのお金で両脚を手に入れて歩けるようになるためにやってきた。
 軍は帰還兵に調査員には内緒で先住民が欲しいものを探り、立ち退きへの取引の材料を探る任務を命じる。見返りは両脚の再生だ。

 アバターとなった帰還兵は、その話を受ける。しかし自分が自分で歩けるその人工的な先住民になりきり、他の仲間とはぐれ、自然と先住民の立場へ感情移入していく。そして先住民の女性と恋に落ちる。

 そんな時、しびれを切らした軍は先住民に立ち退かなければ攻撃するぞ、と強硬手段に出る。帰還兵は先住民から非難の嵐を受ける。

 帰還兵はアメリカの基地に戻り、森を破壊したくない生物学者たちと共にアメリカを裏切り、先住民と同化し指導者的立場となって侵略してくるアメリカと戦おうとする。

 そんな姿をみた先住民は、帰還兵たちを受け入れて共闘する。いろんな地区の先住民たちが団結し、弓矢でアメリカに向かっていくのだ。

 しかし、圧倒的な破壊力を持つアメリカの軍には到底かなわない。遂に先住民は逃げざるを得ないところまで追い詰められる。そんなとき、森に住んでいる動物たちがアメリカ軍に向かっていった。巨大で強力な動物は、アメリカのロボット戦闘機などをやっつける。先住民と自然界が団結した共闘ともいえるのかもしれない。

 勝算がなくなったアメリカは、逃げ出した。しかし悪役の軍の長は、自分に後がない状況にも関わらず最後まで先住民を攻撃する。
 そうして、多くの森は破壊されたものの、先住民・惑星の生き物全ての共闘でアメリカを何とか追い出した。主人公である帰還兵は、水色の先住民の身体を手に入れ、その地で先住民として生きる選択をし、受け入れられた。

(感想)
 この映画を観て、地球以外の惑星の世界が青を基調にしており、異物感覚・異星人感覚で何を考えているのか分からず、はじめは気持ち悪かった。特に水色の生物や先住民は、得体の知れないもので表情もよくわからず怖かった。しかし、映画を観るうちに生物や先住民の外観に違和感がなくなってきた。それどころか、美しさ・優しさやかっこよさ等に魅かれてしまった。逆に同じ人類であるアメリカの軍に対していやらしさを強く感じ、今までアメリカが行なってきた経済援助の名のもとでの新植民地主義的な途上国からの資源強奪がオーバーラップした。

 中国ではこの映画を見せたくないようだ。にも関わらず、世界で最高の興行収入を誇る大ヒット作品で人気は衰えを見せない。なにが魅力なのだろうか?
 まず、「タイタニック」の監督であるというネームバリュー。そして3Dであるという体感的な好奇心。異星人や地球に存在しない生物や自然界の描写の話題性…かなぁと思った。

 この映画は、異星人である先住民の立場から見た視点の映画だというので受け入れられやすかったのではないだろうか?ヒトは私も含めて自分が非難されていると感じると防衛体制を無意識にとってしまう。そんな防衛機構をキャメロン監督の描き方で取っ払って入り込める映画がアバターだと思った。
その先住民が仮に異星人でなくアフリカやアジアの住民だったらどうだっただろう。それではリアルすぎて受け入れられにくいだろう。そこで思いっきり異星人であることで、先進国の人々も自分とは無関係な立場に入りやすくて観やすかったのではないかと思う。

 この映画は、私にとって主に3つのことを学ばせてくれた。
 1つ目は対話(形式的)をしたが、相手が応じないから暴力的な手段にでるのは仕方がないことなんだという、変な論理が今の世の中でも起こっている実態を自分の中でも一つ一つ確認していく必要を改めて学んだ。映画で見ると、そのようなことはとても不条理に見える。それは現実世界でまさにアメリカがやっていることなのである。

 2つ目は、強欲に対して自分たちの生活を守るためには武力の行使もやむを得ない、それどころか武力しかない状況があるんだという感覚を学んだ。
パレスチナのガザやイラク、アフガニスタンの武装勢力、ソマリアの「海賊」…。圧倒的な強い経済力や武力を誇る先進国に途上国は利用されている。その結果途上国は資源も文化も生活も教育も生命までもが追い詰められてしまっている。先進国の罠である文明を受け入れて自分達の文化や生活を失って借金まみれになるリスクを背負うか、自分達の生活を守るために対話や共存を求めるか、その交渉が決裂した時にどうするか?これはお互いが対等な立場で尊重できるか、尊重しないか、が分かれ目だと思った。自分たちの立場が尊重されないとき、相手の立場を尊重できるだろうか?武力で相手に訴える手段もありと感じた。少なくとも、彼の地で生じている武装闘争の必然性が理解できた気がする。

 3つ目は、自分の中の排外主義的な感覚の反省だ。
 自分の中で無意識で感覚的に行なわれている差別感情。自分と違う形・色・大きさの生物を見たときに感じてしまう「気持ち悪い」「怖い」という感情。それが高じて異なるものに対して潰してもいい・やっつけてもいいという感情へ行ってしまうのではと思った。
 また、そんな自分の負の感情に嫌気もさしたが、この映画をみる中で水色の先住民に対する自分の感情の変化に、ホッとすることもできた。それぞれ生きている者の立場や背景を知り人生を想像することで差別感情が薄らいでいくのではないかという希望を感じることができたからだ。知りもしないで怖いと感じてしまう失礼さは相手を抑圧することにもつながると思い、なんとか克服したいと感じた。

 この映画をみて、私が知っている日本でのさまざまな抵抗闘争が頭をよぎった。まずは祝島の生活だ。よく30年近くも地道な活動をされてきたと感服する。一般的な庶民の間では手を出した方が負けだと言われるが、それならば既に中電や国や県は下請けを通じて庶民に手を出しているではないか。なのに、なのにどうして? また高江のヘリパッド建設についても同じだ。高江区で決議された建設反対に対して、政府はどうして声を拾わないのだろう?それどころか住民を提訴するという暴挙。これらは既に政府側が負けていると思うのだが、どうして、どうして?基地問題も同様だ。名護市長選で住民は、権力者の根回しに負けず意志を表明できたのに、なぜ、なぜ? 今の世の中は、人の人生よりも企業らの利益を優先されるおかしなことに胸を張って大きな声で「おかしい」と言える世の中にはなっていないことを痛感する。
 戦後大きくなった民主主義のうねりが少しずつ富裕層・支配層の思惑で歪められている。お金になるネタ、視聴率優先というマスコミの偏った報道の影響力、出る杭は打たれる、そして他の人はどう思っているのか?が気になり人と違うのはなんか怖い…などという感覚があると思う。そこで「無難」な、「おかしいと言えない」、主張がない庶民が形成されてしまうのではと、自分の少ない経験と幼稚な感覚から思ってしまった。そんな中でも諦めないで頑張っている祝島や高江、辺野古など現地の人たちがいる。また少数でありながらも再処理工場の稼動に反対を表明し続ける現地の人もいる。他にもまだまだ私の知らないところで頑張っている人がいる。出来る限り自分もおかしいことに気付いて「おかしい」と言える様になりたい。

 今のお金儲け至上主義による自分さえよければいいという自己防衛の世の中では、人は幸せになれないと思った。それどころか人は人からも自然界からも嫌われ、生き物のハミゴとなり、しっぺ返しを食らう羽目になる…既にしっぺ返しを食らいつつあるが…。人類が共存共栄するためには人類同士はもちろん、自然とも共存共栄しないと実現できない。各々が安心して自分を解放し各々が尊厳をもって発展し各々が幸せになれるようになりたい。

2010年2月16日
リブ・イン・ピース☆9+25 OK