[投稿]10月初旬のパリを訪れて
世界金融=信用恐慌の爆発の中で、コミューン戦士を思う


 10月はじめ、所用でパリを訪れる機会があった。時あたかも、リーマン・ブラザーズの破綻から始まった株価大暴落、金融=信用恐慌が一気にアメリカからヨーロッパに波及し、「金融資本救済反対」の声が、ウォールストリートから全世界へと伝播していた。10月7日には、フランス全土で90にものぼるデモや集会が行われ、10万人以上が参加。パリでは1万3000人がデモに立ち上がり、街には「金融資本を救済する必要はない」「雇用と賃金を守れ」等のスローガンがこだましたと報じられていた。
A Day of Struggle That Will Go Down in History(L'humanite in English)
「ウォールストリートと戦争に金を使うな!働く者と貧しい者にこそ救済を!」全米で、ブッシュの金融救済策への反対と怒りが爆発!(署名事務局)

 残念ながら、私はこのような大規模なデモや闘争に遭遇することは出来なかったが、コミューン戦士の墓を訪れ、パリの地下鉄に乗り、ただならぬものを感じ、気持ちの高ぶりを押さえることが出来なかった。その一部を紹介したい。


コミューン戦士の記念碑
コミューン戦士の最後の場所
 パリ東部に位置するペール・ラシューズ墓地。市街地でのバリケード戦に敗れたコミューン戦士が立てこもり、虐殺された場所だ。パリコミューンの終焉の地として、歴史に名を残す場所だ。この墓地の東端の壁が、コミューン戦士が虐殺された地点となった。この墓地には、ショパンをはじめ多くの著名な人々が埋葬されている。墓地はまるで公園のごとく整備され、故人に因んだ様々な個性的なモニュメントが立ち並び、それはまるで巨大な美術館のようだ。その風景は1871年当時から変わっておらず、堅固な石材の数々を陣地にし、激しい白兵戦が戦われたという(『パリ燃ゆ』大佛次郎著)。
 コミューン戦士が最後に追い詰められた“壁”はすぐに分かった。身がすくむ。レリーフが掲げられ、そこには次のような言葉が書かれている。『コミューン戦士の為に』(AUX MORTS DE LA COMMUNE 21_28 MAI 1871)。1871年5月28日、パリ市内において戦闘が終結したといわれている日だ。緊張が走る。間違いない、ここに市民が整列させられ、容赦なく銃殺された場所だ。この付近の下には、次々と市中から運び込まれ銃殺された市民が埋葬された場所だ。レリーフの下には、たくさんの花束がおかれてあった。立派な他の墓とは違い、壁とそこに掲げられたレリーフのみが、無名の戦士たちを偲ぶ唯一のモニュメントだが、この場所には今なお多くの労働者や民主的な人々がフランスのみならず海外からも訪れ、彼らの果たした歴史的偉業に想いを馳せる場であるのだ。絶えることのない、溢れんばかりの花束は、まさにその場所が時代を超え、パリコミューンの理念を今日の人々と共有する場所であることを、あらためて知った。

ペール・ラシューズ墓地の様々な記念碑
 その後、墓地内を歩いていると様々な記念碑を見つけることができた。付近には、フランスを占領したナチス・ドイツと闘い犠牲となったパルチザン、コミュニストの墓があった。また、なんと皮肉なことであろうか、“壁”のまったく反対側には、1870-71年の対独戦争犠牲者の記念碑があった。この戦争に従軍し、独軍に降伏した将軍たち、兵士たちが、コミューン戦士を虐殺したのだ。後日、パリ中心地にあるアンヴァリッド内の軍事博物館を訪れたが、この対独戦敗北を屈辱として記述するも、「栄えある」仏軍が、自国民に牙を剥いた歴史については、完全に沈黙していた。パリコミューン、古典、歴史書でしかしらなかった私だったが、ほんのささやかな一瞬ではあるが、犠牲となったコミューン戦士たちと同じ空の下で過ごせたことは、今回の旅の最大の幸せであった。この墓地は、フランス、パリの歴史が凝縮されている。メジャーな観光スポットではないが、パリを訪問された際は、是非とも見て欲しい。
  

  ペール・ラシューズ墓地

戦略的要衝モンマルトルの丘
 パリの下町のモンマルトル地区に宿を取っていたこともあり、大砲の争奪をめぐる国民軍と女性たちの衝突現場を歩くこともできた。モンマルトの丘には、現在では聖クレア聖堂がそびえ立っているが、このパリ市外を眼下にのぞむこの丘は、戦略上非常に重要な地位を占め、当時171門の大砲が設置された。大聖堂付近からは、パリを一望することができる。戦略的な要衝であることが、非常に良く理解できた。パリに侵略したヴェルサイユ軍はこの大砲を恐れていたが、まともに使用されることはなかったという。また、短時間ではあるがパリ中心街を歩いていると、パリ市庁舎が目に入ってきた。この市庁舎は、1871年に焼け落ち、その後に新築されたものである。しかし、この場所に、紛れもなく、コミューンの心臓部が存在したのだ。ドレクリュウズの声が響いてきそうである。「軍国主義はもう沢山だ。金モールをつけ金ピカずくめの軍服を着込んだ参謀将校はもう真平だ。人民に席を譲れ!腕まくりをした戦士に席を譲れ!革命戦の時の鐘は鳴りひびいた」(前掲書 最後の布告)。
  
  モンマルトルの丘から望むパリ全景                          モンマントルの一角
  かつて、ここに砲台が設置されていた。

驚くべき人種的多様性と地域差
 時間の制約上、多くの場所を訪れることはできなかったが、移動の合間、フランスの抱える人種問題について考えさせることが多くあった。パリの移動手段として地下鉄は非常に便利だ。切符の買い方、路線の乗り継ぎ方さえ把握できれば、どこにでもいける。その地下鉄は、パリの抱える諸問題を照らし出しているように思えた。モンマルトルの最寄駅から中心街に向う車中、白人と黒人が半々。OPERA駅から東部へ向かう車中は、大半が白人だ。9対1の割合で白人。しかし東部に向うに従い徐々に様相が変る。乗換駅STALINGRADで様相が一変する。アフリカ系黒人がいきなり増える。おおよそ7割がアフリカ系黒人だ。そこにアジア系が数人。東北部になると、ほとんどアフリカ系黒人となった。市内の中心のCONCORDEからBASTILLE(あのバスチーユ広場)の駅はきれいに清掃され、途中のルーブル美術館のあるLOUVRE駅は、駅自体が博物館。しかし東部地区の駅は、落書きだらけだ。驚くべき違い。
 また、街を歩いても、同様の驚きをもった。中心街は、観光客、欧州系が多いのに対して、東部の方に移動するにつれて人種構造が一変する。東部の乗り換え駅になるSTALINGRAD駅から地下鉄線にそって北東方面に歩いてみたが、途中で出会う人々の大半がアフリカ系だ。開店前の肉屋があったが、その店の前にアフリカ系の人々の長蛇の列に出会った。おそらくは、看板広告から推定すると、特価品目当てらしい。歩き続けること30分。今度はいきなり、アジア系の人々が増える。突然、中華料理の店が増える。どうやらここが、パリの一角にある中華街らしい。うわさには聞いていたが、ここは完全にアジアの都市だ。そして、さらに歩き続けると、黒衣に特徴的な帽子をかぶる、一目でユダヤ人と分かる人々が中心となる。ユダヤ人の富裕層は、中心部のマレ地区に集中しているらしいが、どうやらここは、低所得層のユダヤ人地域らしい。看板には、エルサレムとの文字も見えた。確かに日本においても、在日朝鮮人、在日中国人が集中して暮らす地域が存在するが、パリのそれは、町並みと彼らの社会的地位をストレートに反映している。

アフリカ系移民に依存する底辺労働
 パリの最北端に位置する科学産業館(日本で言えば、科学技術館に相当する)を訪れる小学生の集団にも驚かされることが多かった。どの小学生達も、非常に活発で賑やかだ。ある集団では、引率の複数の先生が欧州系で、一人の欧州系の児童以外はすべてアフリカ系の生徒であった。また、この逆の人種構成の集団もあった。おそらくは、どの地区の学校かによって、まったく異なった人種構成になっているのであろう。また、早朝、夕刻、宿近辺の小学校付近を歩く機会があったが、引率する大人がアフリカ系で子どもが欧州系といったの組み合わせが多く、はじめは、異なる人種間での婚姻が非常に多いと思っていた。しかし、子どもの特徴は、ハーフとは異なっている。その後、この謎が解けた。どうやらアフリカ系のメイドが子どもの送り迎えを担っているらしい。帰国後、妻に聞いたところ、フランスの中間層でも、家庭の家事手伝いのために時間契約で人を雇うことは珍しいことではないという。以前は、この仕事は、フランス人、近辺諸国、旧植民地のアラブ諸国からの出稼ぎの人々が多いとのことだったが、今ではアフリカ系の人が圧倒的になっているらしい。

パリ北東部地下鉄駅の落書き
中心部から離れれば、駅の壁が落書きだらけ。
その横に、ヴァン・ダイクの絵画展示会の案内があったりする。
 また、パリという街は非常に汚い。ゴミが至る所に散乱している。電車の中も落書きだらけだ。早朝の街の清掃が必須となっている。その仕事に従事していた人々の大半が、アフリカ系であった。まさに、底辺の労働が、欧州系ではなく、アフリカ系の安価な労働力によって担われている実態を、目の当たりにした。仕事で一緒に食事する機会があったパリジャンによると、アフリカ系の人々は安い賃金で、非常によく働く、このように語っていた。フランス人はそんなことできないよ、とも。密入国のルートとしては、イギリス経由が多いとのことで、その際、イギリスと陸続き(トンネルを通して)のカレー市にまずは集まるという。そこには、不法移民の収容施設もある。日本では今、自動車工場や小企業、労働条件のきつい職場において、外国人が多く働いているが(以前、中部地方のある大企業の製造工場の食堂で食事をしたことがあったが、ポルトガル語が飛び交い、ここはどこの国かとびっくりした)、まさにそれと同じ構造、否、もはやパリにおいては、家庭にいたる社会の細部にまでわたって外国人に依存していることを、この度知ることができた。数年前、貧民層が多く住むパリ市内のマンションで火災事故があり、アフリカ系の不法移民が亡くなるという痛ましい事故があった。3年前には、パリ郊外において警察官によって失業中のアラブ系移民の若者が殺されたことを契機に、全土で暴動が発生した。パリにおいては、ますます移民への依存を高めていて、移民問題は非常に大きな関心事である。先の大統領選挙に勝利したサルコジは、まさにフランスにおきて移民排斥が強まっていることの象徴であろう。

パリで、“危機からの活路”に思いを馳せる
 パリには、富と貧困、美と醜、先進性と後進性、・・・、これらがない交ぜに、ごった返しで存在している。移民問題については、まさにパリは、人種間の融合が、欧州のどの都市よりも進んでいる。そして今日、フランス国内においても、移民への警戒心が非常に強まっていることも事実である。一方、パリコミューンの戦闘の最前線には多くの外国人が立ち、また彼らはまぎれもなくパリ市民であった。
 新自由主義に対抗する反グローバリズムの運動のスローガン「もう一つの世界は可能だ」もフランスを発祥としている。「もうひとつの世界」はどのようなものになるのか。金融資本による富の略奪、途上国の収奪、資本主義的大量生産・大量消費、戦争と環境破壊とは違った道。世界経済が未曾有の金融危機と経済恐慌の淵に立っているなか、“危機からの活路”に思いを馳せないわけにはいかなかった。マルクスが、「天をも衝く」と表現したパリ労働者の闘いの地に足を踏み入れ、何かわくわくする感情を持った。

(2008年11月5日 T.K.)