[転載]合田牧師からのバトン


 長年、反戦平和や在日外国人の人権擁護などの活動に取り組まれてきた、布施源氏ヶ丘教会(東大阪市)の牧師、合田悟さんが、10月5日、逝去されました。リブ・イン・ピース☆9+25の賛助会員の方が書かれた日記をここに転載させていただき、故人を偲びたいと思います。


私がボランティアに行っている、在日のハルモニたちが集うデイハウス「さらんばん」の旅行や行事に、いつも来るおじいちゃん、というか初老の紳士がいた。

ハルモニたちがせんせ!せんせ!と慕っている。

聞けば近所の教会の牧師さんだとか・・・
名前は合田悟。

いつも温和で
背筋をピンんとのばして
ちょっと鼻の頭が赤いのは飲み過ぎなんかな〜と私は思っていた。

コヒャン(故郷)はチェジュ(済州島)だといつも言い
イヤ〜ん、私の真似せんどいて!!って内心思っていた。

「さらんばん」も、「うりそだん」(※1)
当時の代表者は合田せんせ。


このじいちゃん、一体何者??
でも、知らなかったのは、私と、一緒にボランティアに行っていた友人の2人だけだった。

だんだん付き合っているうちに
ただの牧師ではないのが分ってきた。

反戦平和、外国人の人権保護などの活動を長年続けてきた。
そして軍事政権下の韓国で政治犯になった在日韓国人の救援運動や
指紋押捺問題に取り組み
89年には韓国で国家保安法違反容疑で韓国安全企画部によって逮捕されていた。
合田せんせのコヒャンはチェジュというのは
一時、チェジュの刑務所に入っていたということだった。

でも、そんなに闘ってきた人とは想像もつかないくらい
いつもにこやかで、穏やかだった。

6月のつながるコンサート
最初に相談に行ったのは合田せんせの源氏ヶ丘教会だった。

賛同人にもなってくれて
私の広報活動はそこから始まった。


10月5日
大腸がんで死去。
昨日が前夜式。
今日が告別式。

新聞各紙にも載っていた。


友人が話した。

1970年2月25日
靖国法案が出され
そこにきっぱりとした態度を表明出来ない教会本部に対して

それでは戦前のキリスト教の体質
いくら治安維持法等の縛りがあったとしても
結果的に権力に迎合したあの時と同じではないか!と
教会を封鎖し、声を上げたと。


息子さんが、そして多くの人が話した。

根底にはいつも
弱い人、虐げられた人の目線でいたい。
その人たちに寄り添いたい。

そして、その人たちを支配する権力と
絶対的に闘い続けるという思い。

また、その権力が呼び寄せる戦争というものに
絶対的に反対するという信念が流れていたと。

そして、ここに集った人たちにそのバトンを受け取ってほしいと。

去年、「さらんばん」からソウルの水曜デモに行った時も
日本大使館に大きな声で抗議したと聞いている。


息子さんが言うには
「闘病中の父は怒りの人でした。
それは、自分の身がチューブに繋がれた動けない身である状態や医療現場に向けられているようで、
実は、この閉塞した社会そのものに怒っているようだった」

あの、ほんまに愛に溢れた優しい温和な
怒ったところなんか見たことのない人が
最期に「怒りの人」として逝ったとは・・・。


合田せんせは16歳の時に
イエスとともに生きると決意して
イエスのように生きたいと
そう、生きた。

私は、きっとこれからもイエスをそばに感じる事はないと思うけれど
そして
合田せんせのように強くも優しくも生きていけないけれど
でも
たまたまだけれど、出会えた者として
少しだけでもバトンを受け取りたいと思った。


でもね、
私の一番の先生の印象は
何年前だったかな〜
李政美さんのコンサートを先生の教会でしようかな?と思って
ぶらっと自転車で源氏ヶ丘教会を探しに行って
住宅地の中で庭で花の手入れをしているおじいさんに
「源氏ヶ丘教会はどこですか?」と聞いたら
「ここですよ!」と振り向きながら答えてくれた合田先生です。

2008年10月7日
(S.N.)

(転載者注※1)夜間中学を卒業したハルモニたちが学び続けられる場を作ろう、という運動から1994年に生まれた。
 ずっと学ぶ機会を奪われてきた在日1世のハルモニたちが、ようやく学ぶ場を得て本当に学ぶ喜びを知ったにもかかわらず、年数が経つと強制的に夜中を卒業させられることに反対し、「もっともっと学びたい!今まで学べなかった分、一生卒業しなくていい学校を作りたい」と運動が起こり、夜中の先生や教員組合、合田牧師ら市民も支援した。その結果、「学びの場」として勝ち取ったのが「うりそだん」。
 その後、「学ぶ人に学ぶウリソダン市民講座」に発展し、市民がハルモニたちと一緒に学ぶ場となった。
 「さらんばん」は、ハルモニたちが夜だけではなく昼間に集える場として作られた。