「憲法が改悪されるという意味」を24条、25条を通して医療現場から考える
10/2 憲法座談会 「みんなで考える自民党改憲案の危険」

 私は、今病院で看護師として勤務しています。現場から感じることから「憲法改悪」反対の声をあげていきたいと思います。
24条、25条の重要なキーワードは、憲法が保障している「基本的人権」。「基本的人権」とは、「人が自律的な個人として、自由と生存を確保し、尊厳を維持するために必要な権利」であり、人が生まれながらに当然に持っている権利です。現憲法では、この基本的人権を守ることは国家の当然の義務で、国民は請求する権利があるのです。

I.25条の改悪−国の責任から自己責任へ〜ひとりひとりの生存権が保障されない〜
 第25条
1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2.「国は、すべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進につとめなければならない」→自民党案「国民生活のあらゆる側面において」

 憲法第25条では、1項で全て国民は、「健康で文化的な最低限の生活を営む権利」があり、そしてその「すべての生活部面について」保障する責任は国であることを明確に規定しています。自民党案ではそれが「国民生活のあらゆる側面」と表現をおきかえることで、一人ひとりの権利が、「国民生活一般」にすりかえられてしまいます。それも「側面において」(=一部分だけ)となっているため、国の責任が縮小、放棄へとつながっていきます。  今、2025年問題(団塊世代が75歳を迎える年)、少子高齢化を全面にだして、社会保障予算の膨張、特に医療費高騰がさけばれ、社会保障関連予算削減が標的にされています。縮小・削減が「仕方ない」かのようなイデオロギーが作られています。
 これも、本当にそうなのか?今、全ての国民が、25条の権利が保障されているといえるのか?疑問がわいてきます。

現場を通して感じる「社会保障の切り捨てが、命を切り縮めている」現実
 〜病院は社会の縮図。受診された患者さんの背景から社会が見える〜
1.病気になっても安心して医療にかかる権利が奪われている
 どこにいてもだれもが同じ医療を受けることができると謳った「国民皆保険制度」   が少しずつ崩され、安心して平等に医療が受けられない状況が進行しています。
・失業や貧困で保険料が払えず無保険状態 
・医療費負担が大きく、受診する機会が奪われている
・ 医療費抑制政策の中で、国の管理下で病院潰しが進められている。病院も利益優先の市場主義で経営。結果、患者中心の医療、看護ではなく、医療対費用効果の中で治療や入院期間が決められ早期の退院や病院――施設間でのたらい回しがおきている。
・「病院」から「介護」「在宅」へ――「医療が必要な患者」さんも早期に退院させて地域へ。「在宅」いう名の切り捨て。医療難民、がん難民、介護難民
・自費診療の拡大で医療に経済格差がつけられ、公的医療内容が縮小されていく危険

2.「経済格差」が「健康格差」「医療格差」「介護格差」にもつながっている
 (1)「休めない」「拘束の長い労働時間」等労働環境のシビアな状態で健康破壊。
 (2)特に非正規雇用は、25条が守られていない厳しい生活
 ・検診する機会なし。休むことが収入減につながるため体調の異常をきたしても受診   できず、結果、病状がかなり進んでの緊急受診・入院
 ・入院、外来通院となれば雇用切れを意味し、その後の生活保障はない。
 ・必要な治療の継続ができない。
 TVの討論番組でも−「病気は自己責任か、社会的なものか」という問題提起。そこで紹介されていた医師のコメント「最近、合併症をいくつもかかえた重度の糖尿病に罹患した若者の受診が増えている」、「非正規雇用の数の曲線と一致する」。その理由として医師があげていたのは「規則的な生活ができない。食事は簡単にとれる炭水化物中心の生活。そして一番は検診や医者に受診する機会が全く無いので早期発見できない」と。(NHKスペシャル 私たちのこれから『♯健康格差 あなたに忍び寄る危機』)

 非正規雇用の問題は深刻です。過酷な労働環境、十分な休養も栄養もそして住居も保障されていません。それで健康的生活がおくれるのか?「自己責任」と片付けられない問題です。
 (3)医療・介護の保険適応外しは、高齢者の「生存権」を脅かす
 僅かな年金だけで生活する高齢者にとって、医療・介護の保険料引き上げや自己負担  の引き上げは、医療も介護も受けられず、尊厳を持って生活することができなくなるこ  とを意味します。普通に生活するために必要な最低限の介護支援も「保険対象外」だっ  たり、自己負担が大きくて支援を受けられないのが実態です。

 一人ひとりが、25条の文言でいう、「健康的で文化的な最低限度の生活をする権利」が守れているのか、「全ての生活部面について社会保障、社会福祉、公衆衛生」のどこが欠如しているのか、検証し、国は「基本的人権」「生存権」を保障する責任があります。高齢者や障がい者だけでなく、誰もが病気等で社会的弱者になります。「経済格差」で「生きる権利」が左右されてはなりません。それを国に請求する権利が国民すべてに保障しているのが今の憲法にはあるのです。

II.24条の改悪−家族責任で国の責任放棄
 第24条
1.婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
→自民党案 1に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」を新設。2.「のみ」削除。

 「家族が基礎的単位で、互いに助け合わなければならない」これが憲法できめられたら、色々な25条での「権利」も自己責任でおえないものは、「家族責任」で解決が求められることが合法になります。国が公的に保障する責務の放棄を意味します。
 政府の狙いは、社会保障、社会福祉の「国の責任」を、自己責任、自助、共助、家族へと責任をおしつけるものです。子育てから介護、生活が苦しくなったとき等、まずは「家族の責任」で解決が求められます。例えば保育所や介護施設も公的責任がなくなり整備する必要もないし、生活保護も縮小等々で社会保障関連予算は大幅に削減されていきます。

◇家族責任の実態 〜医療現場でも介護離職を実感〜
 失業無職と思われるお子さんが親を看護、介護する場面がよくみられるようになりました。国はそのこどもが将来不安を抱えた失業者であっても介護者がいるとみなします。親が生きている間はどうにか、親の年金で生活しています。親が亡くなって年金による収入が途絶えたとき、多くの場合、その子どもさんは、無年金無保険状態の生存権をも脅かされる生活へと転落していきます。最近、親が亡くなったのに届けず年金を受け取っていたという事件が多く発生している背景がここにあります。家族責任に追い込まれた結果です。

III.今求められているのは憲法25条を充実し、誰もが平等に共に生きることができる社会
 今、社会的弱者と言われる人々が生きづらいと感じる社会が作られています。社会的弱者とは、障がいをもつ方々、病気をもった方々だけではありません。こども、高齢者、そして失業者、非正規雇用者、ひとり親と、だれもがなりうるものです。
 それだからこそ、一人ひとりが尊厳を維持する支援をえるのは当然の権利なのです。憲法でわたしたち一人ひとりが「平和に生きる権利」が保障されています。そのために国家的保障は当然の権利です。改憲の意味する社会は、「個人ひとりひとり」が大切にされるのでなく、家族責任、自己責任で問題完結がもとめられ、公的保障が「うけられない」恐ろしいサバイバル社会です。世の中に「役にたつかどうか」という尺度でひとの「生命の選別」がされてしまう社会です。
 あるリサーチ会社が行った「各国の社会的傾向」調査で「自分で生活出来ない人を国は救うべきだと思うか」に対して「思わない」と答えたのが、イギリス8%、ドイツ7%、アメリカで28%のなか、日本は38%(40カ国中40番目)でした。これは、政府の「自己責任」イデオロギーが浸透していることも大きく影響しているのではと思います。

 今必要なのは改憲ではなく、この25条が活かされた社会をつくることです。そして今、国が必要とされているのは「生きる権利」を脅かされた人々が沢山いる事態をまずは直視することだと思います。

(看護師MA)