旧陸軍登戸研究所見学会に参加して
細菌兵器をはじめ数々の特殊兵器・工作手段などを研究



生物・細菌研究棟跡、当時は壁が黒色だった。鉄筋コンクリート作り
 2010年1月9日、沖縄平和ネットワーク首都圏の会の主催の「旧陸軍登戸研究所見学会」に参加した。参加者は30名くらい、午後2時から4時過ぎまで、川崎市多摩区東三田周辺明治大学生田校舎敷地にて行われた。

動物慰霊碑の説明をする渡辺賢二先生
 私は1994年頃から約4年間、川崎市多摩区生田の周辺に住んでいた。旧陸軍登戸研究所のことは知っていて、関連した本などは読んだ記憶がある。実際に、跡地は明治大学生田校舎として使われており、一般市民は入れないようになっている。私が学生の頃(20年以上昔)は、大学一般には自由に入れた記憶がある。それで明治大学の大学祭の時に1、2度見に来たが、無茶苦茶古い木造の建物が残っているなという程度の記憶しかない。あの時、もっと足を運んでおけばよかったと今回の見学会に参加して改めて感じ、後悔した。
 新宿から小田急線で30分行った所に、最寄り駅の生田がある。ここで午後二時に集合し、旧陸軍登戸研究所見学会が始まった。講師は、旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会の渡辺賢二先生。参加者は、線路沿いを歩き、小高い丘にぶち当たる。見上げると「明治大学」の看板が見えた。校門に着くと、ガードマンに、事前に届けてある見学会である旨を伝え、大学の敷地に入った。いきなり、非常に急なのぼり道を上がっていった。標高30bの所に、旧陸軍登戸研究所跡の全貌が見えた。

人体実験の隠れ蓑としての動物慰霊碑

動物慰霊の碑
 最初に渡辺先生は、動物慰霊碑を案内してくれた。正門裏手の高さ3bほど。碑の裏には、「陸軍登戸研究所」、「昭和十八年三月」の文字。碑文の書は、所長の「篠田鐐」中将の刻印。篠田中将が、陸軍大臣東条英機から「陸軍技術有功賞」を受賞し、その賞金(現在の金額で1千万円ぐらい)で、この碑と神社を建立した。なぜか。そこにポイントがあった。この研究所では、動物などを実験した形跡はないのである。謎は深まる。
 帝銀事件での毒殺に、この研究所で開発した薬品が使用された疑いがあると言われている。その毒薬は、数分後に効果が出ると言うもので、警察は事件の犯人に登戸研究所の関係者を疑ったが、GHQが捜査中止を命令し、その後平沢貞通氏が逮捕された経緯がある。

本部前で撮られた幹部と三笠宮
(昭和天皇の弟)との記念写真
 登戸研究所と人体実験の関係はどうなっていたのか?『2科では,生物化学兵器を研究・開発していた。その過程で動物実験をおこなっているが、完成すると中国で人体実験した。たとえば、登戸研究所から7名が参加して、1941年5月22日から南京1644部隊で人体実験をした。青酸カリ、青酸ニトリール、雨傘蛇毒、ハブの毒などを用い約30名に実験した。1943年12月から翌年1月にかけても青酸ガスなどで人体実験をおこなっている。登戸研究所からは4名。いずれも防疫給水本部(731部隊=石井部隊)の協力のもとでおこなわれた。』(旧陸軍登戸研究所見学のしおりより)。篠田所長らは、人体実験犠牲者の慰霊碑は建てられないので、「動物慰霊」を建てたと考えられている。
 ヒマラヤ杉の巨木の所へ移動した。ここは登戸研究所の本部館跡である。本館は取り壊されたが、当時植えたヒマラヤ杉は巨木に成長した。また車寄せまであった。この場所で、登戸研究所の幹部軍人と三笠宮(昭和天皇の弟)が一緒に写った写真を見せてもらった。私は、やっぱり天皇が関係したのかと思い、侵略の張本人の姿をここでも確認できた。

恐るべき「く号兵器」「ふ号兵器」

陸軍の標識を付けた消火栓、ここにく号兵器製作工場があった
 陸軍の標識の消火栓前に行った。ここには「く号兵器」の建物があった。く号とは、くわいりき(怪力、強力兵器の略)で、現在は電子レンジで使用されているマイクロ波で殺人する兵器で、30b先のうさぎやねずみは殺す実験には成功したが、それ以上の電力が確保できずに実用化できなかった。
 ここには、「ふ号兵器」の建物もあった。米攻撃の風船爆弾製造である。『「最終決戦兵器」=風船爆弾とは、和紙をコンニャク糊で貼り合わせ、直径10bほどの気球を作り、水素ガスでふくらませ、この気球に爆弾をつけてアメリカ大陸に向けて飛ばした。空軍力で劣る日本が考え出した「最終決戦兵器」である。・・・爆弾としては15kgしか搭載できないので細菌の搭載も研究された。731部隊の石井四郎の部下、内藤良一(戦後「ミドリ十字」を設立)が登戸研究所に派遣され、人間に被害を与える細菌研究の生産をはじめ、
 登戸研究所第2科ではアメリカの牛を殺すため牛疫ウイルスの研究・製造をしていた。しかし、実際には報復を恐れて使用せず、焼夷弾を搭載して風船爆弾を発射した。1944年11月3日〜1945年4月29日までの9300発の風船爆弾が発射され、268発がアメリカに到着し、死者もオレゴン州などで6名も出た。』(旧陸軍登戸研究所見学のしおりより)

偽札や生物兵器、枯れ葉剤など数々の特殊兵器・特殊工作の研究

当時の偽札の現物を見せて、説明する
 26号棟(木造)と5号棟(木造)のうち、5号棟の内部を見学した。この2棟は第3科の建物。当時高さ3bの木製の塀で囲み、研究所内部でも秘密にされていた。ここでは、中国の紙幣を偽造していた。香港にあった国民政府の製造所から印刷用原版を奪い、登戸研究所で印刷・製造した。5号棟が偽造紙幣の製版・製造、26号棟は第3科の倉庫。中国に傀儡政権(王兆銘政権、いわゆる偽南京政府)を作ったさい、その政権基盤が安定しなかったので、その政府の紙幣も福井県武生で印刷・製造した。さらに、登戸研究所では、インドのチャンドラ・ボースを支持するためインドルピーも偽造した。
 『偽札づくりの目的』とは、偽造した中国紙幣で戦争に必要な物資を現地調達したり、親日分子養成の買収工作に用いられたと考えられている。また、偽札を大量に持ち込むことで、中国国民政府紙幣の価値を下落させ、経済を混乱させようともした。大陸打通作戦の際には日本軍兵士の給与にも偽札が使われたという。(旧陸軍登戸研究所見学のしおりより)

現存する、偽札工場の建物
 36号棟(コンクリートの建物)の見学。外から。第2科の建物。生物化学兵器を開発していた。アメリカの穀物に対する枯れ葉剤の研究、中国の穀物に対する生物兵器の研究、1941年中国の常徳・桃源へ稲などを枯らすために大量に散布。風船爆弾に搭載する牛疫ウイルスの研究。スパイ謀略用カメラ、秘密インキなどの開発。この建物は,「明治大学登戸研究所資料展示館」として、2010年3月に一般公開されるとのことで、是非見学したいと思った。

 川崎、横浜、東京は徹底的に空襲を受けた。登戸も空襲されたが直撃は受けず、1945年に本部、第1科、第2科は長野県(駒ヶ根市付近)、第3科は福井県越前市に、第4科の一部は兵庫県(山南町)に、それぞれ疎開した。私は、兵庫県山南町について、渡辺先生に質問したところ、「公民館に資料が残されています」とのことだった。
 登戸研究所見学会に参加して、細菌兵器開発の実態も凄かった。さらに、偽札製造により侵略戦争を貫徹するその実態にも、さらに驚くべきもので、侵略戦争の色んな側面を知り、恐ろしさを実感した。

2010年1月20日
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