書評『反貧困――「すべり台社会」からの脱出』

湯浅誠著 岩波新書 2008.4.22発行

 すでに古典となった感があるが、この著書が出たのがまだわずか一年数ヶ月前に過ぎないことにあらためて驚かされる。湯浅氏はこの著書で‘溜め’や‘セーフティネット’の欠落、五重の排除などを総合的に問題にしながら「貧しい」とは違う「貧困」という概念を明らかにした。昨年来の金融経済恐慌によって貧困と失業問題はいよいよ抜き差しならない状況になってきているにもかかわらず、政府は無策を決め込んでいる。湯浅誠氏は、昨年末から今年1月村長として「年越し派遣村」を組織したことで、その名を全国に知れ渡らせた。「派遣村」は、社会が注目をする以前から貧困問題に向き合い取り組んできた著者の、地道な粘り強い十数年にわたる活動の蓄積があって初めて可能であったことが、この本を読むとよく分かる。改めてこの本を紹介し、湯浅誠氏の呼びかけを受け止めてみたい。

現状を変えることをあきらめてはならない
 90年代半ば以降の日本の深刻な長期不況とそれへの対応としての政府・独占資本の新自由主義的労働政策が、正規労働者を減らし、派遣労働者をはじめ膨大な非正規労働者を生み出し、旧来の雇用構造を一変させ、全く新しい種類の大規模な貧困を生み出してきた。著者は、95年ホームレス支援に、そして01年「もやい」を立ち上げ貧困者の生活相談に取り組み始め、その延長線上で「近年働いているのに食べていけない人」の増加に直面することになる。「ホームレス問題を通じて考えてきたことや培ってきたノウハウが当てはまってしまう人たちが、就労して自分の稼ぎで暮らしているものとかつては考えられていた若年世帯や一般世帯にも増えてきてしまった――私の感覚から言うと、そのようになる。」
 本書は二部構成で、第一部「貧困問題の現場から」では、貧困の現場で活動する一活動家の立場から見た貧困の実態が、多くの実例をもって明らかにされる。同時に豊富な統計的分析や国際比較を通じて、日本の貧困の特徴と全体像へと迫る。第二部「「反貧困の現場」から」では、貧困問題を無視し続ける日本政府に異議申し立てを行い、現状を直視し対策を講じることを求めて、労働、社会保険、公的扶助のそれぞれの活動の連携やネットワークの形成の拡大を主張する。
 著者は、日本における運動の困難を確認している。「この現状を変えることを諦め、この現状を受け入れつつ、その中で生き残る方途を探っている人たちも多い。」「私たちは大きく社会を変えた経験を持たず、それゆえにどうしてもそのような希望を持ちにくく、社会連帯を築きにくい状況にある。」しかし同時に、それに向き合い適切な活動形態を見い出し、それを社会全体に押し広げ、「私たちの社会がまだ捨てたものではない」ことを示すべきだと力強く訴える。

「セーフティネット」の破綻と「貧困の世代間連鎖」
 著者は、現在の日本社会を「すべり台社会」と特徴づける。雇用のネット・社会保険のネット・公的扶助のネットの三層のセーフティネットが破綻し、「一度雇用のネットからこぼれ落ちたが最後、どこにもひっかかることなく、どん底まで落ち込んでしまう」構造上の問題を指摘する。1997〜2007年の間に、非正規が574万人増え、正規が419万人減り、非正規が、全労働者の1/3(1736万人)を占め、若年層(15〜24歳)の45.9%、女性の53.4%を占めるまでとなった。年収200万円以下の給与所得者が2006年には1000万人を突破した。労働の対価として得られる収入によって生活を支えていくという「雇用のネット」は、もはや機能せず、「まじめに働いてさえいれば食べていける」状態ではなくなった。さらに、失業しやすく雇用のネットからこぼれ落ちやすい非正規労働者ほど、雇用保険に加入しておらず、失業しても失業給付を受けられず、社会保険のネットにも救われない。そして生活困窮に立ち至ったとしても、生活保護の制度自体を知らされていないか、または、自治体窓口での「水際作戦」によって申請を受理されずに追い返されるかして、最後の公的扶助からも閉め出される。こうして税と社会保障移転による相対的貧困率削減効果が、OECD諸国中日本は極めて少ないことが、日本社会の特徴として指摘される。
 著者は、三層のセーフティネットがことごとく機能不全に陥る中で、必然的にその皺寄せを受ける人々が生まれ、その窮状がどの程度にまで進んでいるかを明らかにしている。「刑務所が第四のセーフティネット」になっている。「塀の外では食べていけない」ために、百数十円の万引きをし、生きるために罪を犯し、刑務所に入る人々。日本社会は「家族に異常な負担を強いる社会」になっている。公的なネットからは見放され、全てを抱え込み、悲劇的結末へと追い込まれる家族。さらに著者は、「貧困の世代間連鎖」の構造的要因を問題にする。「「すべり台社会」の中で、現実に家族しか支えがなければ、支える余裕のない貧困家庭に生まれた子どもたちが貧困化するのは、理の当然だろう。」「貧困家庭の子どもは、低学歴で社会に出て、スタートラインからセーフティネットに空いた穴の淵で、崖っぷちの生活を送ることになる。そして、そうした低学歴者に不利益が集中し、そのまま次世代に引き継がれてしまっている。」 

自己責任論へ追い込む「五重の排除」
 著者は、セーフティネットの欠如を腑瞰する視点から、貧困の当事者の視点へと切り替えることによって、物事を捉え直す必要を強調する。「貧困状態に陥る人々の視線で社会を見るとき、「穴を落ちる」というのは、それぞれのセーフティネットからの排除を意味する。」そして貧困状態に至る背景には、「五重の排除」があることを説明する。「第一に、教育課程からの排除。この背後にはすでに親世代の貧困がある。」「第二に、企業福祉からの排除。雇用のネットからはじき出されること、あるいは雇用のネットの上にいるはずなのに(働いているのに)食べていけなくなっている状態を指す。」「第三に、家族福祉からの排除。親や子どもに頼れないこと。頼れる親を持たないこと。」「第四に、公的福祉からの排除。」「第五に、自分自身からの排除。・・・第一から第四の排除を受け、しかもそれが自己責任論によって「あなたのせい」と片付けられ、さらに本人自身がそれを内面化して「自分のせい」と捉えてしまう場合、人は自分の尊厳を守れずに、自分を大切に思えない状態にまで追い込まれる。・・・期待や願望、それに向けた努力を挫かれ、どこにも誰にも受け入れられない経験を繰り返していれば、自分の腑甲斐なさと社会への憤怒が自らのうちに沈殿し、やがては暴発する。精神状態の破綻を避けようとすれば、その感情をコントロールしなければならず、そのためには周囲(社会)と折り合いをつけなければならない。しかし社会は自分を受け入れようとしないのだから、その折り合いのつけ方は一方的なものとなる。その結果が自殺であり、また何もかもを諦めた生を生きることだ。生きることと希望・願望は本来両立すべきなのに、両者が対立し、希望・願望を破棄することでようやく生きることが可能となるような状態。これを私は「自分自身からの排除」と名づけた。」
 著者は、「自己責任論」の濫用を許さないためには、それらの主張に現実を突きつけ「自由な選択」という前提自身が成り立たないことを示すだけでは不十分で、貧困の背景・実態を多くの人たちに知らせ認識を社会的に共有することが重要であることを主張する。しかし同時に、この認識の社会的共有は、「見えにくさ」が貧困の最大の特徴であるがゆえに、最も難しい点であることを指摘する。「姿が見えない、実態が見えない、そして問題が見えない。そのことが、自己責任論を許し、それゆえに一層社会から貧困を見えにくくし、それがまた自己責任論を誘発する、という悪循環を生んでいる。貧困問題解決への第一歩は、貧困の姿・実態・問題を見えるようにし(可視化)、この悪循環を断ち切ることに他ならない。」「貧困を見る、可視化するとは、同時に目に見えないその人の境遇や条件(“溜め”)を見る、見るように努力するということを、不可欠の要素として含んでいる。」

「人間が人間らしく再生産される社会」をめざして
 著者は、「貧困と戦争」が日本においても結びつき始めていることに警鐘を鳴らす。「貧困は、同時に戦争への免疫力も低下させる。」「日本も遅ればせながら、憲法九条(戦争放棄)と二五条(生存権保障)をセットで考える時期に来ている。衣食足るという人間としての基本的な体力・免疫力がすべての人に備わった社会は、戦争に対する免疫力も強い社会である。」すでに堤未果氏は自著『ルポ 貧困大国アメリカ』(2008.1)の中で、米国の貧困と戦争の関係を見事に表現した「世界個人情報機関」の一スタッフの発言を紹介している。「もはや徴兵制など必要ないのです。政府は格差を拡大する政策を次々と打ち出すだけでいいのです。経済的に追い詰められた国民は、黙っていてもイデオロギーのためでなく生活苦から戦争に行ってくれますから。ある者は兵士として、またある者は戦争請負会社の派遣社員として、巨大な利益を生み出す戦争ビジネスを支えてくれるのです。」日本は、米国とは貧困と戦争の結合の度合いにおいて、質・量ともに隔絶がある。しかし、漠然とした戦争への待望感が貧困の中から生まれ始める所まで来ていることを、雨宮処凛氏は自著『排除の空気に唾を吐け』(2009.3)の中で取り上げている。「今の平和が続くこと自体が「絶望」に他ならず、日々尊厳を奪われながら生存競争の最悪形を戦わされるくらいなら、いっそのこと戦争でも、という戦争待望論だ。」「地道な努力なんかじゃもう取りかえしがつかないことはわかっていた。自暴自棄と紙一重かもしれないけれど、何か「デカい一発」が、何もかもをメチャクチャにしてくれて、この社会が劇的に「流動化」することを望んでいたように思うのだ。」
 著者は、本書の最後を次のように力強い言葉で締めくくっている。「問われているのは“国の形”である。・・・人間が人間らしく再生産される社会を目指すほうが、はるかに重要である。社会がそこにプライオリティ(優先順位)を設定すれば、自己責任だの財源論だのいったことは、すぐに誰も言い出せなくなる。・・・主権は、私たちに在る。」「一つ一つ行動し、仲間を集め、場所を作り、声を上げていこう。あっと驚くウルトラの近道はない。それぞれのやっていることをもう一歩進め、広げることだけが、反貧困の次の展望を可能にし、社会を強くする。貧困と戦争に強い社会を作ろう。今、私たちはその瀬戸際にいる。」
 私たちもまた著者のこの認識と姿勢を共有していきたい。

2009年7月1日
(W)

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NHK解説委員室ブログ 視点・論点「シリーズ格差・貧困」 湯浅誠(NHK)
 http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/4865.html
 http://blog.livedoor.jp/amaki_fan/archives/51570210.html(動画)